酒に呑まれた足取りがふわふわと浮ついているのが自分でもわかった。廊下を歩く足は雲を踏んでいるようで現実感がない。その感触がおかしみを刺激して、ふ、とイサンはひとり笑い声をこぼした。
今夜の酒宴はまだ続いていて、背後には遠く騒ぐ声が聞こえている。盛り上がっている朋といましばらく杯を交わしていたい気持ちはあったが、すっかり酔っぱらってしまったのを自覚していたし、もうかなり瞼が重くなってきてしまったので、一足先に抜けてきたのだ。さほど酒に強い体質でもない。記憶を失うほど呑んで、楽しい時間を空虚なものにしてしまっては勿体ない。
ああ、それにしても、とぼんやり思う。ダンテの参加がなかったのは残念だった。〈私は飲めないし、素面の人間がずっといたら興が醒めるだろうから〉と遠慮されてしまったのだが、もう少し強引に誘ってしまえば良かったと後悔していた。いつだって楽しい記憶はダンテと共有していたい。単純に彼の傍にいたくもあった。
数か月胸に秘めていた思慕が、近頃ようやく成就したのだ。どれほど一緒に時を過ごしても、満ち足りるということがない。つい数時間前にも顔を合わせていたのに、会いたいなどと欲が出る。浮かれている自覚はあった。
ときおりふらつきながら廊下を歩き、いつもの扉に手をかける。半分眠りながら、開いた扉の内側へ体を滑り込ませた。
〈――あれ、イサン?〉
聞きなれた声に出迎えられ、はっとして顔を上げる。ソファに腰掛けたダンテが振り返り、イサンを見ていた。きょとんとして一度またたきする。たしかに自分の部屋の扉を選んだはずだ。
〈こんな時間にどうかした? なにかあったの?〉
呼びかけられる声は優しく、酔った思考を心地よく揺らした。夢のようだ、と考え、似たようなものかもしれないと思い至る。
メフィストフェレスが囚人たちに与える個室は、部屋の主の心象を反映する。その時々の心持ちによって雰囲気を異にするのだ。風景の変化のみにとどまらず、人が現れることもあるのだろう。目の前のダンテは、彼のことばかりを考えているイサンが生み出した虚像なのだ。まったくファウストの発明には驚かされる。
「……ダンテ」
ふらふらと光に惹かれるようにダンテのほうへ歩み寄る。ソファに腰を下ろしたままの彼に抱きつくと、ダンテが驚きでびくりと肩を跳ねさせた。
〈えっ、い、イサン?〉
ああ、よく出来ている。腕の中の虚像が本物のダンテであっても、同じ反応を返しただろう。本当のダンテにはまだ手に触れたことしかない。いきなり抱きしめられればきっと同じように戸惑う。イサンの記憶や印象が反映されているなら、本物と見紛う振る舞いでもおかしくはない。それほどに彼をよく見ている自覚がある。
抱きしめられたダンテはしばらく戸惑った後、ふと肩の力を抜いた。彼が笑ったように感じた。ぎこちない仕草で彼の手のひらがイサンの背を撫でる。
〈なんだ? 寂しくでもなった?〉
「う、む……。そなたを恋しく思えり」
一緒に酒宴へ参加してほしかった、と虚像に言っても仕方がない。ただ彼を抱きしめる腕に力を込めると、ダンテの手のひらが無造作に頭を撫でてきた。遠慮のない仕草が好ましく、そのまま身を委ねる。
〈君が……こんな風に触れてくるなんて思わなかったな。てっきりこういう接触は苦手なのかと〉
いつも必要以上に触れてこないだろう、と意外そうに言われ、イサンは首を左右に振った。
「否。けしてさることはあらず。なれど……慈しまばやと思えばこそ、易く触れるは能わず。欲の先走りて、そなたを傷つけるは本意ならねば……」
酒のせいか、情けない本音を聞いている相手が本当のダンテではないおかげか、素直な言葉がすらすらと出てくる。いつも理性で抑え込んでいる欲を打ち明けるのは心地よかった。〈そんな風に思ってたの?〉と笑い混じりの声が響く。
〈そんなの気にしなくていいのに。あなたになら何をされても構わないよ〉
やはり、これは自分に都合のいい虚像なのだな、と実感する。彼の言葉はあまりにイサンの願望に添いすぎている。もう少し甘い言葉を聞いていたい気持ちと、虚像であれ玩具のように扱うのは好ましくないと自制する気持ちとが拮抗し、なにも言えなくなってただダンテにすり寄った。
〈もしかして眠いのか? このままここで寝るといい〉
問われると、忘れていた眠気が急に押し寄せてきた。ダンテに促されるままソファに体を横たえ、頭を彼の膝に預ける。ダンテの手のひらを握ったままでいると、〈どこにも行かないよ〉と子どもをあやすような声音で諭された。それでも手を離す気にはなれず、強く握りしめる。ダンテから伝わってくる体温に導かれるようにして、すとんと眠りに落ちていった。
浮ついた気分で眠りに落ちたおかげか、目覚めはすっきりとしていた。酒宴も、その後のまぼろしも含めて良い夜だった、とぼんやり噛みしめていたところに、ふと影が落ちる。
〈ああ、起きた? そろそろ起こそうと思ってたんだ〉
「……ダン、……?」
ダンテの姿を見、ああ、昨日の虚像か、と納得しかけたところでふと気づく。
繋いだ手も、密着した体に感じる体温も、あまりに現実味を帯びている。そもそもここは自分の部屋ではない。部屋の間取りも調度品もなにもかも、そっくりダンテの部屋のものだ。思考が正常に巡り、今目の前にいるダンテも昨日のダンテもなにもかも、まぼろしではなく本物だったと思い至った。首筋を冷たい汗が流れ、慌てて飛び起きる。
「す、すまない……! あ……さ、昨夜、私は、なにか……そなたに無体を働きけむや?」
〈昨日の記憶がないの?〉
「あ、ぅ……お、覚えはあれど、不確かなれば……」
眠ったところまで覚えてはいるが、ひどく酔っていたので、その後なにもなかったと断言はできない。なにせ本当のダンテを虚像と思い込んでいたくらいだ。おろおろと落ち着きなく手をさ迷わせていると、不意にダンテが小さく笑い声をこぼした。
〈抱きしめられたりはしたけど、それだけだよ〉
「さ、さりか……」
どうやら自分が覚えている以上のことは起きなかったらしい。ほっと胸を撫でおろしていると、ダンテが手を伸ばしてイサンの首筋に触れた。そのままするりと肌を撫でられる。子どもをあやすような手つきではなく、指先で表面だけに触れるような、産毛をくすぐるような仕草で撫でられて、ぞわわ、と痺れが走った。
〈私は……あなたがちゃんと覚えてられるなら、なにかあっても良かったよ〉
「は……」
気の抜けた声が漏れ、直後ダンテの言葉の意味を理解して、ひゅ、と息を呑む。今後期待してもいいのかな、と問われ、心臓が胸を叩く痛みを覚えながらこくこくと頷いた。