朝未だき虞美人草 夫は、齢二十五歳にしてこの世を去った。花曇りの三月のことだった。奇しくもその日は、結婚して一年目だったのをよくよく覚えている。義父母まで亡くなり、夫の親類で残ったのは義弟とその祖父母だけだった。
制服を着た人たちが、夫がいるという空っぽの棺桶を前に焼香を上げる。妻として、喪主として黒の群れを捌きながら、美帆は酷く空虚な思いを噛み締めた。災害派遣中に殉職し、部隊で葬送をしたと聞かせてくれた夫の上官の顔も上手く思い出せない。泣き腫らす義理の祖父母と横について回る幼い義弟がいるから、なんとかそこで踏ん張っていた。
「美帆」
横から降る声に、じっと前だけを見つめていた。今そちらへ向けば何かが壊れてあふれ出てしまう気がして、じっと、ただじっとしていた。傍に添う義弟は涙声で「りゅーじくん」と溢したきり、美帆の黒い着物の裾を掴んでしゃくりあげ続けている。その人は、美帆やその夫、義弟にとってあまりにも思い出深い人だった。
「佐竹くん」
「いいよ、前向いたままで」
「……ごめんね」
いいよ、とやや強い語気で述べたあとに、佐竹はばつが悪そうに謝罪した。昔から佐竹という男は他人に気を使わせるのが苦手だった。謝るよりありがとうがいい、と学生の折に言われたことを思い出すと、ふと美帆の胸の澱が透き通るような気がした。
「ありがとう。佐竹くん来てくれてほっとしたよ」
「当然だろ。親友の葬式なんだ」
「まだ被災地の支援で忙しいでしょう」
「いや、支援による死傷者が出すぎた。再編の必要があるから今は一時的に帰投した」
「そう……」
口ぶりにはやや影があり佐竹も疲れ切っているのが分かる。並んで立ちながら、そっと佐竹を見上げるとその目元には隈ができていた。
労わるようにそっと隈に触れる。それだけで、佐竹の色白な顔は堪えるように力がこもり、目元を赤く染めた。心に空いた穴は同じ形をしていて、大きな虚みたいに二人を呑み込んでしまうのではないかと思う。それほどに、二人にとって故人の存在は大切だった。
秒針が一回りする沈黙が二人の間に流れたあと、おもむろに佐竹は義弟を祖父母のところへやって美帆と二人きりになった。伝えねばならないことがあると言って。
「俺、あいつの遺言預かってる」
「勝くんの、遺言」
「ああ……変な話だ。なんで任務前に、メールなんて寄越したかな」
他人事みたく言う佐竹に美帆は困惑した。普段の佐竹らしくない、心ここにあらずと言った面持ちで携帯電話を片手に握りしめている。恐る恐る美帆は、真意を確かめるために口を開こうとした。けれどもそれは佐竹の突飛な一言で閉口することとなった。
「美帆、俺の妻になってくれ」
美帆を見つめる男の目は、冴え冴えとして感情が読み取れなかった。
「どういうこと」
憤りとも困惑ともつかない美帆の顔を佐竹はじっと見つめた。それは佐竹自身が責務から逃げないようにするためのまじないめいた行動でもあった。
美帆は、佐竹にとって大切な幼馴染で、愛していて、愛していたからこそ最も信頼の置ける親友─碧に託した。こんな形で彼女を守る役目を引き継ぐことになるとはとんだ皮肉だと言わざるを得ない。
心中そのように自嘲しながら、にわかにざわつきはじめた斎場を見やる。当たり前だ。時代錯誤も甚だしいもらい婚めいた申し出はどう考えたって参列者の悪感情を掻き立てる。だから佐竹はわざとらしく、通る声を潜めもせずに美帆へ語り掛けた。
「なにかあったらお前と弟の勇を頼むと、そう言われた。勇の祖父母だって色々と不安だろう。俺にはこんな風にしか、お前たちを支えることができない」
「ちょっと待ってよ、どうしてそれで結婚なんて話になるの」
「お前たちを独りにしないために。法的に認められる形で援助するためには、結婚が必要だからだ。なあ、わかるだろう……今の美帆じゃあ、里親になれない」
華奢な肩が揺らぎ、俯いた顔をみてやはりなと佐竹は思った。
勇の両親と兄─勝が亡くなった報せを受けた時、佐竹は真っ先に誰が勇を養育するのかということを気にしていた。祖父母はすでに年金生活だと聞いていたから、これからが一番金銭的にも肉体的にも手のかかる子どもを育てることは難しい。では姻族になる美帆はどうか。彼女もまた定職に就けてはおらず、非常勤の教師として婚前から働いているのを佐竹は知っている。
しかし美帆が里親になることを望んで研修を受けていることは聞き及んでいた。いつかは勝と美帆の二人で、養子縁組した子を育てたいとも話していたのを覚えている。確かに、夫婦のうちの片方さえ適格であれば里親になれるのは道理にかなっている。そうして偶然にも今、近しい場所で仮の親を求める子がいるのだ。美帆がその手段を考えないはずがない。
であるなら、佐竹にできることは金銭的な援助と後ろ盾のない女子どもの支えになることくらいだろう。
「俺と美帆で手を取り合えば、少なくとも成人までは勇を養育できる。それだけの覚悟と、実現のために必要なものは持ってるつもりだ」
「佐竹くん……」
厳しい現実が横たわっていることを、美帆は重々承知していた。けれどもその口から出たのは、考えさせてほしいという一言だった。
佐竹はそれに静かに頷き、美帆の決断を待つことを暗に伝えた。それを見守っていた参列者たちも、遠巻きにしながらほっとしたようにそれぞれの輪へ戻っていく。
なにも嘘は言っていない。両親と兄を喪った勇を支えたいのも、愛していた幼馴染を支えたいのも佐竹の本心だ。けれど外堀を埋めるような一芝居を打つことで、美帆を囲ったのもまた佐竹の思惑だ。そこに介在する欲は、佐竹自身認めるほかない。
罪悪感を覚えるには、先の派遣で心をすり減らしすぎたのかもしれないと思う。それでも佐竹は手の内に残っている幽かな光を大切に守り抜きたいと願った。ただそれだけだった。
夜が更けても減らない参列者と近づく雨の匂いは感傷だけを育てていく。遠くで泣きつかれた子どもの、喘ぐような息遣いが響いたような気がした。