夏の儚さの隙間に、いつだってあなたを想うよ ふくらはぎの中ほどまで水につけた女は、つめて、と小さく呟いた。夏の海と言えど、水という液体は総じて冷たいものである。
砂浜に脱がれたスニーカーの中に丸まったハイソックスがいかにも、という感じがする。ローファーの中で几帳面に畳まれた自分の靴下と並んでいたのが、遠い過去のようだった。
潔は、伸びた髪を潮風で揺らしながら小さく鼻歌をこぼしていた。随分と調子外れで、原曲に辿り着いた時にはサビまで来ていた。数年前に流行した曲だった。
この女は、とんと現世に興味が無い。サッカーという競技、そしてそれに付随するものにしか興味が無いのである。それを羨ましいと思うのは、自分がサッカーをしている側の人間で、彼女の目に映り込める人間だからこそ思える贅沢なことである。そういうものらしい。最近のことわかんないから曖昧に笑って流しちゃうんだよな、なんて困ったように頬をかいていた女は、今楽しそうにパシャリと水を跳ねさせてはしゃいでいる。その姿を知るのは俺だけ。そういうことに優越感を抱いた自分がいる。それを認めたくなくて、小さく漏れた溜息に、潔はどしたん、なんて気が抜ける声を出しながらこちらを向いた。
「……別に」
「そう?」
すぅ、と息を吸い込んだ潔は、潮の匂いに少し噎せた。海無し県育ちの女には慣れない匂いらしかった。干潮で、随分と陸から離れてしまっている。二足の靴がすっかり薄暗くなった周囲のせいでどうにも見にくい。そろそろ、と手を引けば、潔は不思議そうに緩慢な仕草で瞬きをした。
「戻るぞ、そろそろ水戻ってくる」
「えぇ、そうなんだ。ずっと浅い海が続いてるって思ってた」
「なわけあるか。今日引き潮なんだよ。……ほら、転ぶなよ」
手を握った。いつの間にか太ももまで濡れている。生真面目にスカートの丈をそのままにしていたら重たくなったであろう制服に嫌気がさしていたかもしれない。重い水を掻き分けて進んでいると、潔はくすくす笑った。
「こういうのが、青春ってやつ?」
「……知らねーよ、ンなもん」
「花火も後でやろうね」
「ん」
コンビニで買った、家族が時間をかけてやるような花火の詰め合わせ。一緒に買ったアイスはとっくに食べ切って、ゴミ箱に捨てられている。段々と足が外気に触れて、陸に上がった人魚もこんな感じだったのか、なんて思った。
水の中では浮力の影響で体重がおよそ十分の一になるらしい。つまり、陸へ戻ればそれだけの負荷が帰ってくる。潔は、堪らずぺしゃりと砂浜へ転がった。
「うお、」
「そりゃそうなるだろ、海初心者」
「泳いでないのにー!」
よろよろとバッグまで近づいて、タオルを取り出した潔はペットボトルの水を足にかけてタオルで包み込んだ。
「うぇー、砂落ちてるかわかんねー……凛、スマホで照らしてくんない?」
「充電無い」
「動画見るためにモバイルバッテリー持ってきてんの知ってんだからな!?」
はやくー、なんて言う声に渋々スマホの懐中電灯機能を使って照らしてやる。潔の瞳孔が、きゅうっと縮まったのが見えた。
日が落ちてからもずっと浸かっていた足はふやけていた。水平線に消えていく夕陽をぼんやりと眺めていた潔の顔が忘れられなかった。こちらを振り返って、楽しそうに笑うその表情を太陽が照らすものだから、いつもより表情が読めないのがいけなかった。
いつか、泡になって消えてしまうんじゃないか、なんて。
サッカーをしていない潔なんて想像ができない。だけど、終わりなんてものは設定したくなくたって勝手に我が物顔で来るのだ。冷えた手で、ヘラヘラと靴下を履いた女を掴んだ。潔は、何もかもを見透かしたみたいな顔をして笑った。
「どっちかがぶっ壊れたら、夜の海にこうやってまた来ような」
ぱしゃり、俺の足に水をかけた女が、自分の足を拭いていた時よりも丁寧に俺の足を濡らしてはタオルで拭っていくのを、俺はただ見ていた。サッカーが出来なくなった俺たちに、先なんてないのか。わからないだろ。冷えた唇を押し付ける。しおからい、まずいキスだった。
「どっちもが壊れたら、だ。独り占め期間、あったっていいだろうが」
潔は少し驚いた顔をした。おとめ座がロマンチストって本当なんだ、なんて舐めたことを言って、いいよ、なんて笑って俺にローファーを履かせると立ち上がって砂を払う。不確かな未来の約束なんて下らないことをさせた女がにくらしくて、伸ばされた手を掴んでわざと体重をかけて引っ張ってやる。再度砂浜に転げた女はもうっ、と拗ねたように言って、上から俺にキスをした。長い髪の隙間から見えた星が、やけにちかちかと眩しく見えた。
○◎○
細い紐に小さな炎の先端をくっつけると、じ、ジジ……っと微かな雑音がした。火が伝う。オレンジ色の光が、和紙を焦がして中の火薬を爆ぜさせる。
ふつふつと丸まった火が、やがてばち、と音を立てて花開いていく。ぱちぱちと火花が周囲を照らす。まぶしく燃えるそれが、ゆったりとやわらかで静かなひかりへと移り変わって、そんな様子をただ見ていた。
線香花火は、人生に例えられる。俺の手で火を付けたそれが、静かに終わる瞬間をただ待っていた。先程までと打って変わって随分と静かだ。手持ち花火を振り回していた余韻で残る煙が薄ぼんやりと視界を覆う。鼻につく、燃えカスの匂い。ただの炎色反応で感動できる人間って単純だ。火薬を燃やして遊ぼうって最初に考えたのは、どんな奴だったんだろう。
燃え尽きて、落ちるのを待つばかりだった。とん、と軽い衝撃に細いこよりが揺れる。ぽたり、落ちる。
「…………あ」
「おちた」
「りーんー?」
「火、消えた」
安っぽい作りのロウソクは風避けもないから簡単に消える。凛は不満げに線香花火を持って、早くしろと視線でせっついた。
かち、と百均で買った押すだけで着くライターでどうにか火を灯す。誰だ、海岸で花火やろうとか言い出したバカ。浜風に煽られて消える火に、イライラしたのか凛は直接ライターで花火の先端を炙り始めた。だけど、火の玉ができては重たすぎてすぐにぽたりと落ちる。チッと舌打ちをした凛は、諦めたのか他の手持ち花火を漁り始めた。
凛が放った、細い紙を手繰り寄せる。浜風を遮るように座ってロウソクに火を灯した。頼りなく揺れる橙色は、夜のなかでもぼうっと光る。先の、ちろちろと細い部分に紙を潜らせれば、また溶けるように火が玉になってぷくぷくと膨れ上がった。
今度こそ最後まで見届けよう。そんなことを思うのに、また凛はとん、と俺にぶつかる。どこか咎めるように、機嫌悪そうに唇を尖らせて、手持ち花火を渡してくるのだ。
「……自分が上手くいかないからってさぁ」
「別に、そういうんじゃねぇ」
ススキのように勢いよく噴出する火の根元に凛は紙筒を押し付け、引火させた。俺の方は火を奪われてしまって、途端に勢いを無くす。鮮やかなみどりの火花を気まぐれにくるくると回し、凛はどこか得意げにした。もうすっかり黒ばかりの水面へ、人工的な色をした火花が落ちていく。落ちて、見えなくなる。流星のように空気の中で消えてしまうその命は、ひどく儚く見えた。
「……二本まとめてやってみたら?」
「ばーか、重くなって落ちやすくなるだろうが」
そんな答えに、ああ、とっくにやったことがあったんだな、なんて思った。
言動の隙間から過去を垣間見ると、凛はどこまでも普通な、一般的な子だったんだなぁ、なんて思う。普段からは想像もつかないくらいに普通の女の子だ。どうしてこうなったのだろう。これから、どうなるのだろう。わからないまま、俺はもう一本に火をつける。やっぱり、軽く肩にぶつかった凛に火の玉は落とされて、湿った砂浜の上で惨めに消えていった。
「……冴、上手かった?」
返事はない。ただ、肩にちょっとだけ強くぶつかってきた。凛にしてはわかりやすい答え合わせ。ぷっくりとふくれた火の玉が、ばちばちと揺れる。どこか不安げに見つめる凛の瞳が、ぱっと広がる火花の動きに合わせて揺れた。
途中まで育てたそれを、そっと凛に手渡した。凛は恐る恐る持ち手をつまみ上げると、風を避けるようにゆったりと空いた手を立てた。はぜて、萎んで、やがて火薬が尽きて紙に火が吸い込まれるように消えるのを、ただじっと二人で見ていた。
「…………」
凛は何も言わないで、静かに次を待っていた。やがて、強く風が吹く。一瞬で暗くなり、月明かりばかりが鮮明だった。
波の音に紛れて、凛はちいさく俺の名前を呼んだ。火が消えた。わざわざ口にしなくても分かることを音にした凛は、ポケットにしまわれたままだった安物のライターを指で弄ぶ。かちり、火を灯して、二本ほどまとめて手にした花火に火をつける。赤だとか、黄色の火花が音を立てて飛び散っていった。最初からこうすればよかったのに、しなかった理由を問おうとして、やめた。きっと深い意味なんてなかったのだ。そう、思い込んだ。
「凛」
爆ぜる青色に、先端の和紙をもぎった花火をくっつける。すぐに吐き出された白色の眩しい火花と鬱陶しいくらいに飛び出してきた煙に噎せて、そんなことがおかしくて笑った。バケツの中の残骸は煤まみれだ。もっと薄汚れるであろう数時間後のことなんて考えないでいよう。ぶんぶんと子供のように振り回して、もっと続けばいいのに、なんて思いながら複数本を手に取る。そんな矛盾だらけのいきものたちがつけた足跡を、波は幾度となくさらっては消していった。