お腹が空いた仙の話 風呂場の湿った熱気は先に使っていた人間の存在を直に感じさせる。あまり得意ではないのだが、今は嫌ではない。頭からシャワーを浴びて、身体に張り付いた汗と余韻を洗い流していく。掻き消すような水音で冷静になっていく頭が、くうと空腹感を覚えた。
「なー、越野もカップ麺食う?」
風呂上がり、最低限のパンツだけ履いて、濡れた頭をタオルで拭きながら俺の部屋にいる恋人に声を掛ける。下着を除けば俺のTシャツ一枚の彼はベッドに丸まっていた。一瞬こちらを見たかと思えば、すぐにシーツに視線を落とす。
「んー、いらね」
「そう? じゃあ俺だけ食っちまうよ?」
越野が頷くのを確認して、台所に向かいコンロにやかんをセットする。そして戸棚から白地に赤の文字が映えるカップ麺を一つ取り出してから、髪を乾かしに洗面台に戻った。目の端に入った時計はすっかり深夜を指していた。
沸かしたての湯を注いだ縦長の器を、傾けないように注意しながら部屋に持ち帰る。まだベッドの上でダルそうな越野がこちらを見て「おかえり」と迎えてくれた。
ベッドを背に、ローテーブルにカップ麺を置いて座る。まだ完成には少し早いはずだがフタを取ると、白い湯気が立ち上った。
スープと麺を混ぜるといっそう湯気が元気になる。持ち上げた麺をふーふーと冷まし、湯気が落ち着いてきたところで口に入れた。熱いが、美味い。何で出来てるのか分からない肉もアクセントになっている。しょうゆ味のスープを飲めば、ジャンクな塩気が身体に沁みた。
食欲に促されて食べ進めていると、静かに背中に視線を感じる。
「どうした? やっぱ食う?」
視線の元に振り向くと、ベッドに横向きに転がったまま越野が首を横に振る。そして唇を突き出しながら答えた。
「腹減ってねーから」
……あれだけ動いたのに? 先程から気にはなっていた。細い割によく食べる越野がそんなことあるだろうか。
「本当に?」
疑問がそのまま口に出ていた。
「そんなツッコむところか?」
溜め息混じりに呟く越野は無言でしばらく考えていたが、クロスした足をずらしながら口を開いた。
「……お前の、まだ腹ん中残ってる気ぃするんだよ」
思わず箸が止まる。口に含んだ麺が喉に詰まりかけた。
「お前のデカすぎるからさ。こう、ずっと中から押されてる感じ? だから腹一杯。食う気しない」
仰向けになって腹の下の方に手を当てる越野はなんてことないように言う。でも俺にはその手の下がとてつもなく気になって、食い入るように見てしまった。
自然と腰回りも視界に入る。寝返りを打った時に捲れたTシャツがギリギリのところで下着を隠している。それが逆にマズくて、伸びる素足が途端にイケナイものに見えてきた。
「へぇー、そういうことあるんだ」
平静を装って相槌を打つが、
「つーか、いつもそう」
「そ、そっかぁ」
さらに爆弾が返ってきただけだった。
知らなかった。けど深掘りする勇気もなく、テーブルに向き直る。カップ麺を啜る音だけがする部屋は、むずむずした。さっきまで呑気に美味いと思っていたのに、雑念を飛ばすためのものになってしまった。
「…………」
黙々と食べ進めていたら、後ろから小さく息の洩れる音がした。それから布が擦れる音にスプリングの軋む音。
音の主はベッドから降りてきて、胡座をかく俺の隣にぺたんと座った。そして頬っぺたを肩に乗せてもたれ掛かってくる。
「どした?」
昂る気持ちを収め、努めて穏やかな声で聞くが、「んー」と頭を押し付けてくるばかりである。
肌に感じる越野の体温が、せっかくシャワーで流した余韻を思い出させる。オーバーサイズのTシャツから覗く鎖骨も目の毒だった。
越野がどういうつもりなのかは分からないが、どうするにもまずはカップ麺をテーブルに置かねばと手を伸ばす。
「やっぱ、一口ちょうだい?」
視線を下に落としたままの越野がようやく口をきいた。
「……もちろん」
期待を飲み込んで、答える。そのままカップ麺を手渡すつもりでいたら、
「あ」
越野は俺の肩に顎を乗せて口を開いた。雛鳥みたいで可愛らしいのに、ツヤのある赤い粘膜は生々しく見えた。
「自分で食った方が食べやすくない?」
そう言いながらも食べやすい量だけ箸に取ると、口を開けたままの越野はノーと言うようにもう一度「あ」と鳴く。
「ほら、気ぃつけろよ」
箸を器ごと口の前に近づけると、越野は首を伸ばして箸の先を口に含んだ。
ちゅるると、麺が吸い込まれていく。
少し前には俺のモノを咥えていた薄い唇に。
すぼめた血色の良い唇にはスープの雫が滴り、艶やかに濡らす。センター分けの前髪の隙間から見える、まつ毛の伸びた節目がちな瞳も色っぽかった。
「…………」
咀嚼するところまで穴が開くくらい見つめながら、無意識に生唾を飲み込んでいた。
越野の喉仏が上下する。食べ終わったらしい。スープの付いた唇をペロリと舐めた越野は何か納得した様子で言った。
「何か、一口食ったら腹減ってきた」
ベッドで転がっていた時とは打って変わって、随分とケロッとしている。
「もっと食べる?」
「ん」
越野は寄りかかっていた体を起こし、胡座に座り直した。「はい」と笑顔を作って残りの少ないカップ麺を器ごと渡す。
「もう一つ作ってくるから、全部食べていいよ」
「おう」
早速食べながら頷く越野は、すっかりいつも通り溌剌としていた。
やかんに残っていた湯はもう冷めていた。改めてコンロのスイッチを入れる。
そしてシンクに両手を付き、恋人の前で押し留めていた感情を深い息と共にようやく吐き出す。
あの感じじゃあ“もう一回”は期待できなさそうだな。
青く揺れるコンロの炎を無意味に見つめながら、一人苦笑いを溢した。