願望 ちりん、ちりん、と風鈴が鳴る。まんまるのガラスは水色で、遠くから見ると、空の色とほとんど見分けがつかない。
「ふふ、きれいだねえ」
不規則な音を聞いて、小さな灰色がうっとりと呟いた。このところ、シャドーは暇さえあれば窓辺に張りついて、風鈴が鳴るのを待っている。
今日も食後のコーヒーを淹れ終わってからずっと、窓辺で上ばかり見ていた。
――同じ丸であるのに、そいつの方がそんなにいいのか。
ソファでコーヒーを啜りつつ、ダークは少しばかりむすりとしながらそう思った。思いながら、あまりに嫉妬深い自分自身に呆れかえってもいた。
まったくもって無意味な考えだ。シャドーが自分以外を選ぶわけがない。そもそも、自分と風鈴では、シャドーの中の好きの基準があまりに違い過ぎている。
本当に、本当に、詮無い考えだ。
だが、わかっていても、感情は勝手に湧き出て来る。風鈴の音に聞き惚れるシャドーを振り向かせるには、どうしたらいいか。
そう、例えば、今ここで、盛大に割れるとか。
――悪趣味の極みだな。
ダークはコーヒーを一口含んだ。苦みが増している。
割れた後に何が起こるかを、ダークは身をもって知っている。
シャドーは振り向き、自分のことだけを考えるようになるだろう。言葉通り、この世の森羅万象に背を向けて、シャドー自身の命の維持すらも顧みず、一心に割れた自分を組み立ててくれる。
今のダークは、そうして形を取り戻した。黒い体を繋ぎ合わせているのは、シャドーの命そのものだ。目覚めた後、ふた回りも小さくなったシャドーを抱きしめて、もう二度とこんなことはさせまいと強く誓った。
けれども、この想像は、どうしようもなくダークを昂らせるのだ。
自分にもう一度会うことを夢見、絶望と孤独に押しつぶされ、膨大な作業時間に自我すら失いかけ、それでも止めないシャドーの姿。一度であれだけ消耗したのだから、二度目は最後まで持たないだろう。それでも、シャドーは必ずやる。自分達は離れて生きることはできなくなってしまったから。
シャドーは存在の全てを捧げて自分を求める。魂の欠片の一片まで余さずに。そして、シャドーの命を食いつくすことで生まれた自分が後に残る。正真正銘、シャドーとひとつになった自分が。あのちっぽけで、やわこく、暖かで愛しい存在が、永遠に身の内にあるのだ。
これ以上ないほどの高揚に、ダークの全身がぞくぞくと粟だった。強者と剣を交えた時だって、こんな風になることはない。平時においてはまったく波風立たない心の内が、熱くじわじわと侵されていく。
あまりにも下衆な絵空事だというのに、何度も、何度も考えてしまう。シャドーが、自分の体の中心にあることを。
「……ダーク」
呼ばれて、ダークは静かにシャドーの方を向いた。
強い風が吹きこんで、風鈴がうるさくちりりと鳴っている。舌の上にはまだ苦みがあった。
「ねえ、ダーク」
シャドーは少し間をおいて、遠慮がちに尋ねる。
「どこか、遠くに行くの?」
確信がない心細そうな声を聞いて、ダークはすぐに立ち上がった。
遠く、という言い方は、察しのいいシャドーにしては抽象的な言葉だった。いくら聡いといえども、心が読めるわけではない。自分が考え込む姿を見て、選んだ言葉がそれならば、シャドーにはそう見えたということだろう。
シャドーの聡さにはいつも助けられているが、まっとうでない自分の中身を見透かしてしまうのは不憫だとも思う。
「どこにも行かない」
淀みなく答えると、ダークは灰色の頭を撫でた。シャドーはすぐに溶けるように顔を綻ばせる。
他のすべてのことが、最早どうでもよくなった。割れてしまったら、これも見ることができない。そんなことは耐えられない。
「お出かけしないなら、ダークも一緒に風鈴の音を聞こうよ」
「……まあ、いいか」
シャドーとくっついて、窓の下で風を待つ。そうすると、今度はこのまま風が吹かなければ、ずっと二人で待っていられると考えてしまう。
結局、自身はどうしようもなく利己的なのだと思い知る。だが、割れる妄想をするよりもよほど健全なのだから、許されてもいいだろう。