ドクターがソーンズの髪を切る話「ドクター、少しいいか」
執務室の扉が滑らかにスライドしてソーンズが顔をのぞかせる。
「やあソーンズ。どうかした?」
ドクターは手にしていたペンをデスクに置いて、来客を迎え入れる。
「人事部から通りすがりに書類を受け取った。これにサインを」
必要事項だけを述べて、ソーンズは薄いファイルをドクターに手渡す。
「ああ、さっき連絡を受けたよ。ありがとう。……うん、問題なし」
中の書類を取り出し、事前にメールで読んだ文章を軽く目で追うと、さっとペンを走らせた。
「それにしても……」
視線を上げて、目の前のオペレーターの髪を眺める。ドクターの視線が自分の顔からわずかに逸れていることにソーンズは首をかしげた。
「どうした、何か気になるのか」
「いやあ、君は相変わらず髪が焦げてるなと思って」ふふっ、とマスク越しに目を細める。
「いつもの事だ」
今更何を言い出すのかと呆れ顔で鼻をフンと軽く鳴らす。
「そうだね、ソーンズが髪を焦がしてる間は元気な証拠とも言える」
「……元気? ドクターからすれば俺は子供扱い、という訳か」
「え?」
「別に」
ふい、と視線を逸らされた。
明らかに不服、と思われる態度。
──どうして。
ドクターは軽くまばたきをした。
初めて見たような気がする。トン、と軽く突き放されたような感覚。
感情をあらわにせず、落ち着いていて、穏やかで、自分にとって居心地が良い。たまに羽目を外して悪ふざけが過ぎたのか、おしおきとして甲板に干されていたりもするけれど。そんなかわいいところも……いや、まあ、そこはいいとして。
ふいに訪れた空白の時間が重く感じられる。
──何か、話さなければ。
無駄を嫌う彼のことだ。用事を終えて、今すぐにでも踵をかえすだろう。
「そうだ、髪! その焦がした髪、私に整えさせてくれないか?」
口をついて出た提案は自分でも突飛なものだったが、出てしまったものはもう戻せない。
「ドクターが? 俺の髪を?」黄金の瞳がきらり、と揺らめく。うまく興味を引いたらしい。
「あ、ああ。良かったら、だけど」
「……分かった、頼む」
思いの外あっさりと承諾したソーンズは、空いている椅子を引き寄せドクターの目の前に座る。
「準備するからちょっと待ってくれ」
──確か、そこそこ切れ味の良いハサミがあったはず。それと、大きめの布……。
ドクターは執務室をぐるっと見回し、作業台に置かれたシーツに目を留めた。アーミヤがドクターの自室まで運ぶと言ったので、自分で持ち帰るからと置いていってもらったものだ。几帳面に折り畳まれたそれをパラリと広げる。ふうわりと、優しげな良い香りがした。
──アーミヤごめん。ちゃんと自分で洗うから。
この艦内のどこかで忙しくしているだろう少女を思いながら軽く目を閉じ、心の中で謝罪する。
「ちょっと失礼するよ」
ソーンズの頭上で、ばさり、と白布を浮かせて身体を覆い、襟首の端でキュッと結ぶ。即席ケープの出来上がりだ。
「切った髪を受け止められるように、はじっこをちょっと持って、そう」
言われるがままにソーンズが布の端をつかんで軽く持ち上げると、簡易的な受け皿ができた。ドクターはデスクの引き出しを開けると、ハサミを取り出す。
「それじゃあ始めようか」
「ドクター」
「何?」
シャキシャキ鳴らしながらハサミの切れ味を確かめて、いざソーンズの前髪をつまもうとした時だった。
「マスクのつばが邪魔だ」
「ああ、ごめん。確かにこのままだとぶつかっちゃいそうだね。緊張してて気が付かなかった」
「緊張? ドクターが?」
怪訝な顔でマスクを覗き込もうとするソーンズをドクターは慌てて遮る。
「マスクを外すからちょっと待って……って、あれ、固く縛ったのかな……取れない」
後ろ手にフードを留めていた紐を引っ張るが、逆に固く結ばれてしまったらしい。少し様子を伺っていたソーンズが、やがてドクターに覆いかぶさるように両腕を伸ばす。
「手を下ろせ、俺が外す」
「あ、りがとう」
大人しく膝に手を乗せ、ソーンズが動きやすいように頭を少し下げる。ソーンズからわずかに漂うどこか尖りのある匂いで距離の近さを感じる。こういう時、香水とか石鹸の香りじゃなくて薬品臭というのがソーンズっぽいなと思うと口元が緩んだ。
「ほどけた」
そう言うと、ソーンズはテキパキとフードを下げて、マスクを外す。視界が急に明るくなったのに耐えられずドクターは目を瞬かせた。
「助かったよ」
ソーンズを見上げて微笑むと、細くて長い指がスッとドクターの髪を梳く。すぐに終わるだろうとされるがままにしていたが、止む気配はなかった。
「……あの、ソーンズ。もうそろそろ君の髪を整えたいんだけど」
「ああ、そう言えばそうだったな」
名残惜しそうに、そっと指が遠のいていく。正直、髪を梳かれているのは心地良く、撫でられている猫ってこんな気分なのだろうかなどとドクターは思っていた。
──もう少しこうしていたかったけど。
うっかり呟いてしまいそうになり、慌てて頭をブンブンと振る。その不審な様子にソーンズが首を傾げた。
「ドクター、何か……」
「ええっと! じゃあ始めるね」
遮るように自分の言葉を被せた。自分の奇行に何か尋ねられても困る。自分でも良く分かっていないのだから。
シャキンシャキン、ぱらぱらぱら。
ドクターは覚束ない手つきで、しかし間違えないようにと慎重に焦げた毛先をつまんでは切り、ハサミを進めてまたチョキンと切る。ドクターの心音がいつもより大きく聞こえるのは慣れないことをしているからだけではない。
──ソーンズの視線を感じる。
明らかにずっと見られている。至近距離で。表情自体はいつもと変わらない。ただその眼差しは熱を帯びている、ようにドクターには見える。そんなに自分は稀有なことをしているのだろうか。いや、実験をするときに見せる好奇心というよりはおそらく──自意識過剰でなければ──それは……。
「ソーンズ、目、閉じていた方がいいんじゃないかな。ほら、髪が目に入るといけないし」
こんな言葉、役には立たないのだろうなとわずかに目を伏せて、そろりそろりと視線を戻す。変わらずソーンズはドクターを見つめていた。
「今はお前を見ていたいんだ、ドクター」
「そ、そう」
──頬が、熱い。
最後の一束をつまんで、ハサミを通す。
「勘違いしちゃいそうだよ。そんなこと言われたら」
──勘違いしちゃいけない。
あはは、とわざとらしく笑って、毛先を切り落とした。ハサミをデスクに置き、ソーンズの肩や胸にこぼれ落ちた髪をポンポンと払う。
「構わない」
そう言って、ソーンズは散らばる髪がこぼれないようにゆっくりとシーツを剥ぎ、くるくると丸めて小脇に抱えた。
「それってどうい……っ!」
間近に金の眼差し。唇が触れてしまいそうな程の距離。
ドクターは体を強張らせ、反射的に目をつむる。
「そのほうが都合がいいからな、俺は」
その悪戯な唇はドクターの耳元で、そう囁いて離れていった。
「ソーンズっ?!」
まるで熱そのものを植え付けられたような左耳を抑えながらドクターがそう叫ぶと、ソーンズは僅かに口元を緩ませる。
「もっとそういうドクターを見せてくれ。コレは洗って返す」
抱えたシーツに視線を移しながら話す、その声はどこか満足げだ。
「じゃあな。ありがとう、ドクター」
ドクターは扉の向こうに消えゆくソーンズを呆然と見届けることしかできなかった。
ソーンズがドクターの耳元で放った熱は今や身体中に駆け巡っていく勢いだ。
──あんな喋り方、ズルいよ……!
いくら鈍感な自分でも、イヤでも意識させられてしまう。恐ろしく甘さと艶を帯びたあの声が今でも耳から離れてくれない。そんなソーンズは知らない。いや、自分が知らないだけで、他の誰かにもそんな声で囁くことがあるのか。
──それはちょっとイヤかな……?
イヤ……なのか、自分は。それはつまり、えーと……。ああそうだ、午後からの作戦会議、ソーンズもメンバーに入れていたはずだ。どういう顔をして会えばいいのだろう。その前にまた艦内でばったり会うかもしれない。どうすれば……。
ドクターは一人脳内会議を開催しながらデスクのそばで立ち尽くす。
「ドクター?」
「ぅわああっ! ……って、アーミヤか。びっくりした」
両手いっぱいの書類を携えて、コータスの少女が執務室に入ってきた。手が塞がっていてノックはできなかったようだ。
「すみません、驚かせてしまって。あれ、マスク外されてるんですね?」
「ああ、ちょっと色々あってね」
「それに……お顔が真っ赤ですよ?」
アーミヤが心配そうに顔を覗き込むのをドクターは両手で抑えた。
「大丈夫、体調不良とかじゃないから……それも、まあ、色々あって」
こうして会話している間にも脳内会議は続行中だ。最適解はまだ導き出せない。予測できうるパターンをシミュレーションしてはまた別なパターンを考える。
結局のところ、それはソーンズの思う壺でしかないのだが、今のドクターは全く気づきもせずに頭の中をその青年のことでいっぱいにしたまま、午後の作戦会議を迎えることになった。