ごはんを食べよう それは、シノが初めてヒースクリフに「お目通り」した日のことだった。
ほぼ栄養失調、脱水症状、凍傷寸前の指先でなんとかブランシェット領の城の端にたどり着き、ぐったりと倒れていた少年の体を、庭師が拾い上げたのが5日前のこと。魔法使いだと分かり、また、年頃がブランシェットの嫡男、ヒースクリフに近そうだという理由から、シノは汚れを拭われ、腹いっぱいにパンとスープを食べた後、異例の扱いで領主とその妻、その息子に謁見する権利を得た。
突然暴れて、魔法を使うかもしれない。その懸念から、シノの枝のように細い手首には、魔法使いを封じ込める効果があるとされる魔よけの縄が巻かれている。これは、シノが同意して巻かれたものだ。シノも自分で驚いていた。いくら服と食事を与えられたからと言って、自由を奪うような真似を許すなんて。シノは、何度も重い扉を潜り抜けて、ついに一番豪奢な扉へとたどり着いた。謁見の間だ。
「失礼のないように。聞かれたことにだけ答えろ」
「……」
シノはこくりと頷く。そして、扉が二人の使用人により、外開きに開かれた。
シノは、目を見張った。
まず真っ先に目に飛び込んできたのは、威厳のある、それでいてはっとするほど美しい、逞しい男の姿だった。彼こそがブランシェットの現領主であった。そして、その隣に座る妻。シノは、救貧院で何度も聞かされた、自分を救わない女神の話を思い出した。ぼろぼろになった子供向けの教典に、むちむちに太った女神の像が書いてあったことを思い出す。しかし、シノはもし、もし本当に女神がすべての人を救うなら、これほど美しい姿をしているだろうと思った。
そして、その横、子供用の豪奢な椅子に座るのが、ヒースクリフだったのだ。今にも泣いてしまうのではと思うほど不安そうな、下がった眉をしていて、シノがまっすぐな瞳でそれぞれを見つめるのに、ヒースはずっと下を向いていた。高価な布であしらわれたズボンに皺を付けないよう、指先を握りこんでいる。
「初めまして。私がヒンドリー・ブランシェット、ここ、ブランシェット領の領主をしている。君がシノだね」
領主が口を開いた。
「ああ。といっても、ほんとうの名はわからない。俺は40番って呼ばれてた。だから、もじってシノとつけた」
「無駄口を叩くな」
シノを連れてきた使用人が厳しい言葉を向ける。領主は片手で制した。
「かまわない。聞いたのは私だからな。ここにいるのが私の妻、エレンと、一人息子のヒースクリフ。私が君に来てもらったのは、他でもない、私の息子に会わせたかったからなんだ。この子も魔法使いでね、歳の誓い君に、友達になってくれると嬉しい」
「わかった。なってやる」
「おい!わきまえろ!」
使用人が再び怒鳴った。領主はやれやれと首を振った。
「なぜそんな小さい子供に目くじらをたてる。お前は領民の子供にも怒鳴るのか」
「いや、そ、そんなことは……う、上様!?」
領主は妻と頷き合い、おもむろに椅子から降りると、ヒースクリフの手を握ってシノの目の前までやって来た。ヒースクリフは小さな歩幅でおろおろとついてくる。
「ヒース、シノが友達になってくれるそうだ。挨拶を。そして、さっき打ち合わせしたことを」
ヒースは父親に、美しい宝石をはめ込んだような大きな瞳を不安げに向けた。そして、つないだ手を外されて、背中を押される。シノの周りの使用人は皆、座礼をとっていたが、シノは突っ立ったままだった。シノのほうが、幾分か背が低いようだ。シノはむっとした。目の前の、細っこい、何もできなそうな坊ちゃんは、何もできないくせに、同じ年頃の子供に比べて少し大きい気がする。シノがほとんど浴びたことの無い、いい天気の日の太陽みたいなきらきらの髪をしている。
「っ……ヒ、……ヒースクリフ……ブランシェット……です。あ……あの……」
「なんだよ」
使用人がヒッ、と息を呑むのがわかった。
「あの……あの……あ、あの、……嫌いな食べ……もの」
「は?」
「嫌いな…、食べ物や、好きな食べもの、は、ある……?」
ヒースは顔を真っ赤にしながら、やっとそう言い切った。目の前にいるのは、ただ初対面なだけでなく、捕まったその日に暴れまわって庭師を昏倒させた浮浪児だ。そして、同じ魔法使い。まっすぐに自分を見つめてくる大きな瞳は、夕日のように真っ赤だ。にこりともしないし、声が大きいから、本当に怖い。けれど、ヒースはここに来る前に、今日の晩はシノの好きな食事を出したいから、聞いてほしい、と父親に頼まれていたのだ。ヒースは言い切った後、すぐ下を向いたが、そろそろと視線を上げた。シノと、まっすぐに視線がからむ。
「好きな食べ物は、食べられるもの」
ヒースが、肩をびくりと震わせた。
「嫌いな食べ物は、虫、革靴、ネズミだ」
シノは、こともなげにそう言い放った。
「む……むし……くつ……」
ヒースはぶるぶる震え始める。(まずい!)使用人はみな一様に汗をかいた。
ヒースは真っ青な顔で、ぽろぽろと泣き出した。天使のようにととのった顔立ちが、驚きと恐怖で涙にぬれていく。
「うっ……ううう……うえーん……」
「ヒース!まったく……すまないね、シノ。この子は少し、泣きむしなところがあってね。驚いただけだともうから、気にしないでほしい。さあ、今日の晩さんではそういったものは出さないから、安心してくれ。それでは、もう下がって良い」
領主とその妻は、申し訳なさそうな顔でシノを促した。使用人たちは汗だくになりながら、ヒースの悲痛な泣き声が響く謁見室から下がっていく。
(せっかく綺麗な服と美味い飯にありつけたのに、もう終わりか……)
シノは、自分が「まずいことをした」ことがわかったので、再び始まる虫、革靴、ネズミの日々を思い、肩を落とした。
「なんてことをしたんだ!ヒースクリフ様にあんな失礼なことを申し上げるなど……!まったく、だから私たちは反対したのに……」
使用人に首根っこを掴まれながら、城の出口へといざなわれていく。このまま、追い出されてしまうのだろうとシノは思った。悔しくて涙が出そうだった。それなのに、シノの想像とは裏腹に、城を出た使用人は領地のさらに奥へと歩を進めていく。そして、不思議なことを口にした。
「晩餐の時間は午後6時だ。近くなったら、謁見の間の先にある食堂に来い。お前の歓迎会がある」
「は?」
さっきの自分の行動で、この領地を追い出されたのではなかったか。
「なんでだ」
「お前、先ほど領主さまがおっしゃったことを忘れたのか?ヒースクリフ様がお前に、好きなものと嫌いなものを聞いてくださっただろうが。まあ、意味が無かったがな。お前、時計は読めるのか」
「読めない」
「……。私の懐中時計がある。この針と、この針がまっすぐ一本線になったら、食事が始まる。そうなる前に、食堂に来るんだ。いいな」
それだけ言って、使用人は去ってしまった。
シノはひとりぽつんと、小屋の前に残された。気になってドアノブを回して中を開けると、沢山の使用人たちが休憩している。シノに対して向けられる視線はあたたかいものばかりではなかったが、シノが空いている椅子に座っても殴ったり、出て行けと怒鳴る者はいなかった。
(なんだ、ここ。おかしいぞ。あいつらも、なんでおれを追い出さないんだ)
シノは手に持たされた懐中時計をじっと見つめる。シノの小さな心臓が、どくどくと早鐘を打ち始めた。どうしてだろう。心臓がどきどきするのなんて、殺されそうになったりしたときだけなのに。自分が期待に胸をふくらませているのも知らずに、シノは手元を見つめ続けた。
シノの手の中には、ヒースクリフの懐中時計がある。懐中時計を見ていると、自分が初めて豪華な晩餐にありついた日の晩のことを思い出す。みすぼらしい格好のままのシノをいとわず、領主も妻も、その息子も自分と共に食卓を囲んでくれた。その次の日は腹を壊して、苦しむ羽目になったが、それでもシノにとっては、一番幸せな食事の記憶だった。
ヒースクリフは懐中時計を机に置いたまま、自分も突っ伏して眠っていた。機械を修理している途中に寝落ちてしまったらしい。ネロに頼まれて、ヒースクリフのことを起こしに来たのだ。夜ご飯の時間だった。
それを一瞬忘れて、ヒースクリフの寝顔に見入ってしまうほど、彼は美しかった。今は、自分と話すときにおどおどすることもない。泣き出すこともなくなった。それが嬉しいような、少しもったいないような。ヒースクリフの涙はとても美しいから。
「ヒース、飯だ」
シノはヒースクリフの肩をゆする。彼は長い睫毛をゆっくりと持ち上げて、花の綻ぶようにシノに微笑んだ。
「懐かしい夢見てた。シノと一緒に初めてご飯を食べた晩のこと……」
「俺も、ちょうどそのこと考えてた」
「あはは、うつったのかも」
ヒースクリフは椅子から立ち上がって、シノと共に食堂に降りて行った。どの場所にいても、一緒に温かい食卓を囲める。その幸せをかみしめながら。