この腕が支えるもの彼女が部屋に入ってきた瞬間、空気が変わった。小声でおしゃべりをしていたメイドたちは背筋を伸ばした後、小さな少女に深々とお辞儀をする。部屋の入り口に立っている兵士も、開いた扉の隙間から敬礼している姿が見えた。この空間の主は今、この金色の髪の少女なのだ。
「あなたが、私を描いてくださる方ですの?」
よく通る凛とした声。真っ直ぐにこちらを見て微かに微笑んでいる。
「その通りです、ナタリア殿下。本日はどうかよろしくお願いします」
「私、あなたが描いたお父様とお母様の絵、大好きですわ!お父様の横顔は凛々しく、お母様は優しそうで」
椅子に座ると、殿下は年相応の屈託のない笑顔を見せた。それでも、揃えた膝の上にきちんと手を乗せた美しい座り方で、絵を描きやすいよう気を遣っているようだ。
「ありがたいお言葉です。あの時は緊張しましたよ。いつもは作品を作る際に援助を与えていただき、自分のアトリエで制作しているので」
「そう、滅多に城には来ないのですね」
宮廷画家である俺がバチカルの城の中に通され現王族の絵を描くのはこれで3度目だ。俺が描いた現国王とその王妃の絵は、今まさにその国王、インゴベルト六世陛下の私室に飾られている。今回の絵もそうなると聞いた。
(王族の、というより、家族の肖像画を描いているようだ)
ナタリア殿下に会うのは今日が初めてだ。椅子に座るランバルディアの一人娘を見ながら、キャンバスに木炭を走らせ形を取っていく。
……しかし似ていない。両親と。俺は王妃殿下を描いた時、彼女から夜のような沈んだ印象を受けた。それは重たく垂れ下がった黒髪からも、見るからに健康とは言いがたい様子からもそう思えたのだった。その表情は国王陛下の自室に飾るのに相応しいとは思えず、かと言って溌剌と描けば嘘だけになり、本人を目の前に描く意味が無い。
そこで、いくぶん穏やかで顔色良く、思慮深く落ち着いた雰囲気に描いた。それが本来の彼女の姿であるように思ったからだ。
反対に、ナタリア殿下からは輝く朝日のような凛とした清廉な印象を受ける。そう、いま目の前にいる少女はあまりにも母親に似ていない。
まさか……嫌な考えをすぐに振り払う。いや、しかし。
彼女の髪の色はキムラスカ王家のそれではない。つまり父王とも異なる。特に髪色についてキムラスカ王室側からは口に出すなとは言われなかったが、彼女の姿を知っている貴族たちの間では噂になっていた。つい気になって、柔らかそうな金色の髪を見つめてしまう。
その視線に気づいたのか、殿下は少し居心地悪そうに自分の髪をふわりとかきあげ肩の後ろへ送った。その髪は動きがあると陽光に反射してきらきらと透き通り、それでいてほのかに薄桃色を溶かしたような美しい金色で、つい見とれてしまった。
いや、余計なことを考えている暇はない。俺は改めて姿勢を正しキャンバスに向き合った。小さな子どもにそう長時間同じ姿勢をさせるのも酷だろう。なるべく早く、シルエットを写し取らなければ。最初は本人とキャンバスを交互に見ながら描いていたが、少し集中して絵のほうを見過ぎたのか、気がつくとナタリア殿下が目の前まで来てキャンバスの裏から絵を覗き込んでいた。
「わっ……」
「あら、驚かせてすみません。どのように描かれているのか気になってしまって」
「そうでしたか。どうぞご覧ください」
「……」
俺が少し体を横へずらして隙間を作ると、王女は猫のような素早さと遠慮のなさでキャンバスの前に入り込んできた。その行動に子どもらしさを感じ微笑ましく思っていると、どうも殿下の様子がおかしい。黙って覗き込んでいるが少し難しい顔をしている。
「何だか……小さくありませんか」
「小さい、ですか」
「手足が小さく思えるのです。これでは国を支えるのに心許ないと思いませんか?」
殿下は腰に手を当てて明らかに不満そうにしている。大人の俺から見れば実際に小さいのだが、本人にしてみれば自分の手足が基準なのでわからないのかもしれない。決して印象を誇張したわけではなく見たままを描いたのだが。まさかこんな可憐な胴体にに力強い手足を描くわけにもいかず、仕方ないので描くのは上半身だけにして足は画角から外し、手は背中で組んでもらい描かないことにした。これで納得してもらえたようだ。座っているポーズではなくなったが。
(というか殿下は先ほど何と。国を、支える、か。この小さな少女が)
しかし、俺が思いにふけるより先に、当の本人が別の話題を挟んできた。
「気になっていたのですが、描いているその布は何ですの?」
俺が絵を描いている布が気になっているらしい。
「これは帆布です。船のマストに使われているものですよ。今、バチカルは港の開拓をしているでしょう。それに合わせてシェリダンで船も作っている。それで、このような布がたくさん出回っているのです」
「なるほど。船のマストなのですね」
また不意に、空気が変わった。正確に言うと、彼女の纏う雰囲気が。風格と言っても良い。
「港の開拓事業は大規模かつ長期にわたるものですから、雇用の創出に繋がりますわ。でも、それ以外に物の流通にも影響しますのね。教えていただきありがとうございます」
何かを教えたつもりはないのだが、彼女には学ぶところがあったらしい。何だか王女の家庭教師にでもなったようだ。
そうだ、王女だ。やはり彼女は。国民のことをいつも気にかける王女。今も俺の、動かしている方とは逆の手を見て何か言いたげにしている。
「その傷」
我慢できなかったようだ。やはり切り出してきた。
「これはまだ私が平民だった頃のものです。今は痛みませんのでお気になさらず」
「つまり宮廷画家として貴族の地位を与えられる前は、満足に治療を受けられなかったと」
殿下の目つきが鋭くなる。険しい表情は描きたくないので落ち着いて欲しい。
「やはり誰でも利用できる治療院が足りませんわね。整備しなければ。高齢の方々向けの療養所も必要ですし。私自身も治癒士の学問を一刻も早く修めて、もっと、もっと早く……」
今日一番の圧を感じる。この小さな子どもは、一体何を。
「……早く大人になって、この国を変えなければ」
少女の足元に譜陣が現れ、第七音素の暖かな光が俺を包んだ。
それから年月が経ち、戦争が始まった。物価は高騰し、帆布の値段もかなり厳しいものになった。顔料は国内のベルケンド付近でも採れるのでまだましな値段だったが、帆布の原料である綿花はフーブラス川より北で多く採れる。つまりマルクト領だ。だからそれ相応の価格となっていた。食料品もそうだが、やはり自国の資源の乏しさを痛感する。この国は、なぜ戦争など起こしたのだろう。
ただでさえそのような陰鬱な日々の中、ローレライ教団の大詠師モースがバチカルへやって来たと聞いた。彼はこれまでも、キムラスカの政治に口出しをしてきたのだ。今回はなんと、ナタリア王女が偽物であると告げたらしい。何でも本物の姫は死産で、平民の子がそれに成り変わっていたとか。やはりな。俺には初めから分かっていたよ。
彼女が、
この国を支える本物の覚悟を持つ人間だってな。
王女は、アクゼリュス崩落の首謀者とされるファブレ家の息子と共に処刑されると聞いた。俺はイーゼルで地面を叩き、バラバラになった木の部品の中で一番長いものを持って、城への道を走った。
貴族街を抜けて城が見えた時、ちょうど天空客車で誰かが降りて行ったところだった。城の前の広場では、大勢のキムラスカ兵士と、ファブレ家の私設兵団である白光騎士団が激しく揉み合っている。間違いなく降りて行ったのは王女たちだろう。どさくさに紛れて俺は客車を使い下層へ降りた。
いた。
まばゆい金の髪。あの時とは見違えるほど背も高く、本人の望み通り伸びた手足。間違いなく彼女がナタリア殿下だ。なぜかマルクトの軍服を着た男性や神託の盾の制服姿の女性たちも一緒のようだが、ファブレ家の息子らしき赤い髪の青年もいるので彼女が王女に間違いないだろう。
彼らはキムラスカ兵に囲まれて逃げ場を無くしているようだった。助けなければ。今度は俺が。あの国民思いの少女を。俺は、長い木の棒を握り直し、兵士に飛び掛かっていった。あの日ナタリア殿下に気遣ってもらった腕に、ありったけの力を込めて。彼女の未来を願って。