My Way 日頃、誰よりも態度の大きな葉白衣が躊躇いがちな仕草で戸を開けた。
「帰ったか、白衣」
居室の真ん中、卓に向かい本を開いていた容長青が笑みを浮かべて顔を上げた。
おや? と眉を軽く不思議そうにする。
六合心法の果てに髪は白くなったが、眉は黒々としている。そのためか老いては見えない。どちらかと言うと、男が好んで着る灰色の衣が全体を落ち着きさせすぎると葉白衣は時に言う。
「白衣。水を飲むか」
「……ああ」
下界は雪解けがすすむ。
さほど高くない場所に建てられてはいるが、しかし長明山の二人が住む屋敷の周りは雪に包まれている。家の中に置いた甕の水は、薄氷が張るほどに冷え切っていた。
腕に汲まれた水を一息で飲み干し、葉白衣はほっと吐息をつく。
その瞬間、気難しい彼の心はゆるみ、同じくして皮肉屋な口元もほわりと溶ける。
長青はそれを見るのが好きだ。
だから、彼が帰宅すればいつも最初に水を差し出す。
「なんだ?」
「ん?」
「人の顔を見てへらへらしおって。なにかついているか?」
葉白衣は口元を指でこする。
長青は声を上げて笑った。
「白衣。どこぞで何か喰ろうたのか?」
「あ? 食うわけ」
言いかけて葉白衣も気がついた様子で己が手を見やる。誤魔化すようにむっと眉が顰められたが、やがて彼も腹を揺する。
「食わぬようになって何十年となるのに、この癖はぬけん」
「……貪嘴だからな、白衣は」
罪悪感が男の言葉に薄い陰りを呼ぶ。
葉白衣はそれをちらりと横目して、ふん、と意地悪く鼻を鳴らす。
「食いたくなったら腹が開きになるほど食うてやるわ。そしてじっくり天日で干からびてやる」
「よせよせ。剣仙の干物など煮ても焼いても食えぬ」
「ぬかせ」
二人で卓に向かい合い、近くに置いた火鉢の炭を長青は混ぜる。
法を成して体は人を超えて強くなった。寒さなど、ほとんど感じない。
それでも小さな火を見るとほっと心根が穏やかになるのはかつてと同じだ。
「なにか気に病むことでもあったか? 剣仙殿。なんだか晴れぬ顔であるが」
言いながら、もしや、と長青は真白い衣をまとった同居人の顔をうかがい見る。
かつてこの家にはもう二人の同居人が居た。長青の妻と息子の容炫だ。
妻はもう十年ほども前に「生活に疲れた」と山を降りた。
炫は、父親や師父の、己への教えが気に入らぬと六合心法を持って出奔し、どこへ行ったものかわからない。その気になれば見つけられるはずだが「これも男の成長であろう」と父親は笑って探そうとはしない。
このたび葉白衣は気ままな一人旅に出かけていたのだ。
何処へ出かけていたのか。もしや旅先で息子の噂でも聞いたのかと、長青はふと思う。
「あのな、長青……無名を、譲りたい者がいる」
細い目を見開き、長青は改めて友を眺めた。
やけに居心地の悪い様子で、いつも尊大な彼がもさもさと袖の端を遊んでいる。時々ちらりと同居人を見やり、表情を伺う。
くふ、と長青はたまらず吹き出してしまった。
「な! なにを笑うのだ!?」
「お、お前があまりに、落ち着かぬ様子であるからだ」
ふん、とそっぽをむく葉白衣の顔は不機嫌だ。だが微かに突き出した唇などは、彼を幼い頃より知る長青には懐かしさを呼ぶ。いつまで経っても幼けないと思う。
年だけを言えば翁と呼ばれる頃だというのに、見た目と同じく中身も年を経ない。
「白衣がそう思ったなら、よほどの人物か」
我が意を得たりと葉白衣の顔が晴れる。膨れた様は弾けたように消えた。
「そうなのだ。昆州の者なのだがな」
「お前はこのたび昆州に出向いたのか? なぜ」
「ただの思いつきだ。寒いのには飽きたからな。暖かい所へ行きたくなった。そこでたまたま四季山荘の荘主と時期荘主と知り合ってな」
「あの四季山荘か。四季花在常、九州事尽知、だったか」
「ああ。噂に違わぬ様子であった。武術の腕も確かであるし、頭のほうも悪くない」
空になった腕に水を注いでやりながら、長青はほう、と感心した声を上げた。
「白衣がそれほど認めるとはめずらしい」
水をぐびりと一口飲んで葉白衣はいたずらめいた顔をする。
「初っ端で長明剣仙を名乗ってやった」
六合心法を成したのは五十年ほども昔。当時の姿のままを保つが故に、見た目が年若い剣仙葉白衣の名を聞き、だがそれを信じる者はとんとない。
葉白衣はどこかでそれを面白がり、呆れ半分に対峙するものの性質を断じる遊びをする。
「珍しいこと、あやつらはすぐに信じて剣仙サマと拱手してよこしたわ」
思い出したふうに葉白衣は口元を綻ばせる。
「そこいらの名ばかりの一流門派の者らとは比べものにならぬほど頭が柔らかい。それに私の気配に並々ならぬものを感じると。よく鍛錬をしている」
「手合わせはしなかったのか」
「したぞ。時期荘主の若造とな。是非にとうるさくしつこいやつでな」
口ではそう言いながら、なかなかに楽しい出会いであったのだと長青は友の顔からそれを読む。向かい合えばつられそうになるほど、葉白衣の表情は普段の皮肉を隠して朗らかだった。
「その若様の腕はいかがであった? 剣仙殿のめがねにかなったか」
「悪くはない。まだまだ完成には程遠いがな。やけに陽気で人懐こい若造であるのだが、見どころがある」
「年の頃は?」
「炫と、変わらぬ頃かな……」
世に名高い長明剣仙が、唯一の弟子の名を口にする。柔かに笑みを浮かべながらも、もの寂しさが薄寒い室の空気に溶けた。
「そうか。若いな」
「ああ。若い。なんとも晴れやかな若さよ」
「なんだ、随分と年老いたもの言いではないか。剣仙殿。年に追いつかれたか」
「お前じゃあるまいし」
くすりくすりと二人が揺する空気に惑わされたように、火鉢の炭が爆ぜて崩れた。
「その若様に無名を譲りたいか」
「ああ……何故だかわからぬ。なにか、勘が働いたというのか、あの者にこの剣を委ねなければならぬような、そんな気がしたのだ」
葉白衣は己の腹を撫でた。
そこには革の帯が巻かれている。帯に見えて、軟剣無名を納める鞘でもある。剣とともに長青が作った。
鞘に納められた白銀の柄を葉白衣の細い指がくすぐる。
愛おしそうに。大切そうに。
その仕草に長青は目を細めた。
「お前の好きにすれば良い」
「いいのか?」
伺う友に白髪の男は笑みを深くする。
「良いよ。それはお前の剣であるし、なにより、お前の勘に間違いがあるとも思えぬしなぁ、仙殿」
鼻を鳴らして笑いながら葉白衣が傍に置いた荷包みを取り上げた。竹と薄皮を組み上げた包みを長青に差し出す。
「ん? 土産か?」
「まあ……そんなものだ」
丹念に結ばれた紐をほどいてゆけば、甘い香りが徐々に鼻をくすぐる。
「おや、これは美しい水仙だ」
濃い緑の茎葉のすくりと伸びた先に、純白の花が重たげに首を傾げている。溢れそうに咲き誇る一輪のそばに蕾がすずなりだ。
「八重咲きか。珍しいな。色も混じりのない白一色。これは見事だ」
部屋の隅にあった手桶を持ち出し水仙を立てた。土の乾いた根に温くした水をかけてやる。
「明日、植えてやろう。たしか良い鉢があったはず。ご機嫌取りに花を取ってきてくれたのか?」
「なに? べつに、そんなわけでは」
「違うのか? 俺が一番好きな花だぞ、水仙は。剣仙殿は花を愛でるご趣味がおありだったか」
「花くらい、私だって見るさ」
そうだったか? 素っ気なく二人で言い合いながら、やがて同時に笑い出した。
居室に鉢植えはいくつもあるが、凍らぬようにすべての世話をしているのは長青だ。彼は植物が好きで、だが彼らの棲家は寒さが過ぎる。友は各所で寒さに強いという珍しい植物を見つけては、大事に持ち帰ってくる。
すらりと葉白衣が鞘から無名剣を抜いた。卓の上にそっと置く。
「この名剣を手放すのに、作り手殿に手ぶらというわけにはゆくまい」
「殊勝だな。良いよ。この水仙で手を打とう」
「ところで長青。譲るのは良いが、無名というのはなんとも素っ気なくないか? せっかくだから名をつけてからくれてやりたい」
ああ……と、眉を情けなくして細い目をさらに細める白髪の男に、葉白衣は腕を組んで鼻を鳴らす。
「お前は自分で使う剣には大層な名前を付ける。大荒に龍背。なのにこの葉白衣の剣に名前をつけぬとは!」
「好きでつけぬのではないというに。大荒は俺、無名はお前を模して作った。名付けるなら、お前を表す言葉でなければな。お前をなんと言い表せばよいものか……どんな言葉も今ひとつ満たぬ。難しいのだ、白衣」
はたと、長青が細い目を見ひらいた。
それからひとり、納得したように頷いてみせる。
「ああ、そうか」
長青は幼子にするような顔つきで汞のように潤い煌めく刀身を覗き込んだ。
「白衣」
「あ?」
「白衣、だな。こやつの名は」
ぽかん、と口を開けた葉白衣ににこりと男は微笑んだ。
「お前を表す言葉など、この世に唯一、それしかないわ」
咄嗟に言を紡ごうとした葉白衣は、しかしなんの言葉も持たずはくはくと唇を魚のようにした。
先に笑い出してのは長青だった。
葉白衣はむっとなおも嫌味を吐こうとして、だが吹き出してしまった。
ひとしきり二人で笑った。
「明日にでも名を刻んでやろう」
「はあ……わざわざ勿体ぶって剣に自分の名を刻んでくれてやるとは……私は随分と恥知らずの愚か者ではないか!?」
「何故だ。そんなことはない。唯一不二の長明剣仙葉白衣だぞ? それぐらいせねば」
「たわけめっ」
けたけたと腹が引き攣るほどに笑う声は空気に混じり、水仙の花をふるわせた。部屋にまた濃い香りが漂う。根の土の香りも。
春のにおいだ。
卓に立て掛けていた剣を長青が抜いた。
いつまでも水から引き上げたままのような、生まれたばかりの艶を放つ無名、白衣剣とは違い、どこか錆びた風情の龍背剣だ。
ほう、と頬杖をついた葉白衣が、うっとりと龍背を見つめた。
「見事よな……刀工に似ず静かで、どこか厭世とした侘しさのある剣だ。いつ見ても」
「何を言う。俺に似た良い男ではないか、この龍背は」
「なにが良い男じゃ。厚かましい。なんだ? 無名の代わりにくれるのか」
「白衣剣、だ。やらんぞ、龍背は」
さほど期待もしていなかった様子で葉白衣は肩をすくめた。
「長青、己のために作る、か。ふん。いつ見ても大層な文句よな」
「そう言うてくれるな。白衣、俺はな。そのうち……龍背は炫に譲りたいと思うておる」
「ああ……ま、そうであろうな。見事な剣だ。子に譲るのにこれほどの財はない……ん? ならば何故、己のために、などと」
薄い唇を引き、長青は無骨な指で刀身の文字を撫でた。
「俺はなぁ、守る剣を作りたかったのさ。龍背が守ってくれたら……それ以上、俺のためはない」
「ほう……そういうわけか」
「ああ」
細い目の奥で、真白い衣を纏った友の姿を、ひたりと長青は見やった。
「ゆくゆくこの剣を握る者を、守ってくれたら良いと思うておるよ」
長青は笑みを滲ませながら願いを込めるかの如く、一度強く剣の柄を握りなおした。
白衣剣の隣に並べて置く。
細身の白衣剣がさらにか細く見える。それでいて幼子の魂のように、溌剌と内から放つものが見える。
真白い衣をかさりと鳴らし、葉白衣は腕組みした。
細い月のように、彼も唇をにんまりとした。
「この葉白衣もおるしな。お前の子々孫々、安泰は決まり事よ」
「ほほう、そうか」
「そうとも」
「あ」
「ん? なんだ?」
つくつくと、厚い指先が白い花をつついた。
「水仙もよかったかのう」
「あ? 何がだ?」
「無名の名さ。白衣、お前は水仙に似ておるからな」
「はあ?」
「すくりと堂々と立ち、強く、幸運を運ぶ」
葉白衣のきりりとした眉が、訝しく曲がった。
「なんじゃ。なにか悪事でも働いたか。そのように浮ついたことを申して」
「ひどいな」
「日頃のせいだ」
肩をすくめて長くため息を吐き、唇を尖らせた長青が閉じた紙窓に目をやった。
見えるはずのない空を眺める。
「明日は雪が降る。この冬最後の雪であろうよ」
「ん? そうなのか」
「ああ。たぶんな。その後はずっと暖かいな。どうだ白衣。共に昆州へ行かぬか。俺も四季山荘の者に会ってみたい」
「そうするか。お前の勘こそよう当たるからな。ならば天気もよかろう。行くか……だが一つ、言うておくぞ」
「なんだ?」
「途中で女と遊んだらお前を置いていくからな」
そらぞらしく白髪の男はきょろりと周囲を見回した。
それから観念したように長く息を吐いた。
「仕方ない。水仙殿に従おう」
二人揃って頬杖をつき、揃ってむっすりと互いを見やる。
やがて堪え切れず、同時に笑い出した。
【終わり】