いつかまぐろもつりにいく きっかけは葉白衣だった。
「よう」
いつものようにオーバーサイズの白いパーカーを着て、いつものように突然やってきた。
周子舒はにこにこと彼を迎え、温客行は嫌そうな顔をして同居人に肘打ちされる。
しかし、一番剣仙の訪いを喜ぶのは二人の神仙の飼い猫、白米だ。
抱き上げられてすりすりと首元に頭をなする。
「土産を持ってきたぞ、白米」
なん? と小首を傾げる。
「日本のキャットフードだ。魚味だと。美味そうだろ」
「さかなぁ? なんで猫に魚なんだよ。白米はお肉が好きなんだぞ」
「そんなの本人も食ってみなきゃわからんだろう。どうだ? 食うか?」
みゃわう。
「そうかそうか。ほれ、食うと言っておる」
ぽん、と放られた小さな缶を受け取り、周子舒がまじまじと眺める。
「写真から見るに、金枪鱼かな……高級そうだ。取り寄せてくれたんですか?」
「ん? まぁ、気にするな」
「気になるだろ。変なものは入っていないだろうな? うちの子には保存料や着色料は与えないんだからな」
「知り合い、でもない人間のお宅にお邪魔? したら、猫をゴロゴロ飼っていた。皆、毛艶が良くて健康優良だったぞ。そこから奪、いただいて? まぁ、分けてもらってきた」
怪しいがすぎる。
温客行は遠慮なく疑うが、パンツの裾をくいくいと引かれて、早くしろ、と金色の目に催促されると、渋々缶を開けた。
飯皿に入れられたフードを小首を傾げ、頭頂の一部だけ黒い白猫がふんふんと匂う。
「ほらな。うちの子は上品だから簡単に珍しいものに食指を動かさな」
みゃい。
美味しいものに出会った時、白米はそう言う。
温客行がそろりと目線を下げれば、感動の旨さです、とでも言っている顔が客に向けられていた。
「そうか。よかったな」
かつかつと白米はフードをたいらげ、皿の底まで舐め尽くした。
「おっと……これはよほど」
興味深げにそれを眺めていた周子舒が、はっと言葉を切った。
そろりと同居人を振り返れば、悔しげに唇を結んでいるのに、場違いな懐かしさを覚えた。
「甄いぇ……いや、老温」
白米のご飯をせっせと毎日毎食用意しているのは、温客行であった。
「そもそも! なんで猫に魚なのさー!」
「調べてみるとー! 昔の日本の風習などのためらしいぞー! 猫に魚をやるのはー、世界中でも珍しいー!」
よく晴れた初夏。
緩やかな風がさわさわと艶やかな木の葉を揺らす音に、川のせせらぎが混ざる。
なんとも心地の良い日だ。
川の流れは速すぎず、小石の川底に張り付く藻が揺らめくのさえ見えるほど水色は澄んでいる。街からかなり離れた山間で、他に人の気配はない。
平らな大岩に腰掛ける周子舒は、釣り竿を引き上げた。餌がとられている。
離れたところにいる知己は、岩の上に仁王立ちして川面を睨みつけている。
本気だな、老温。
今日のために色違いのマウンテンパーカーを新調した。
温客行は準備から気合いが漲っていた。
周子舒は背後を振り返る。
川から離れた砂地に敷かれたレジャーマットの上に白猫が寝転んでいる。黄色いライフジャケットを着てリードも付けられていた。
本日はレジャーという名の食料調達である。
あの日の剣仙の来訪以来、周子舒の知己は沈んでいた。
「知らなかったよ……白米が魚好きだったなんて」
よほどショックだったらしい。どうしてそこまで、というほど落ち込んでいた。
「私は白米はお肉好きだと決めつけていた……豊かな食生活をと頑張っているつもりだったけど……独りよがりだったんだ」
「そ、そんなことないだろう! 白米はいつもうまいうまいと」
「嘘だね。言われたことないもんねっ! 違うもの食べたいって、ずっと思ってたんだ!」
リビングの隅で膝を抱えて小さくなる白髪の男を、どうしたものかと周子舒はさすがに剣仙を恨んだ。
こうなるとあいつは厄介なんですよ……
心の中で愚痴る。
「老温、前向きに捉えたらどうだ? 魚も食べれると知ったことで、白米の食生活の幅がぐっと広がったじゃないか!」
「そうだね……今まで不幸だった分、償わなきゃね……」
うっぜえぇ。
なんてことは周子舒は思っていない。
現在、白米のご飯は日に三度。日に日に、魚の出番が増えている。
「……今、ため息ついたよね」
「まさか」
ドライフードに茹でたササミを添えたものを出した時、とうとう温客行がそう言った。
「た、食べてるじゃないか! 食いつきも良い……」
「無理してるんじゃない? わ、私だって! 白米の好きなものをたくさん、食べさせてあげたいよ! でも、健康が……!」
いかん。育児に疲れている。
黒髪の神仙は慌てた。
「ら、老温! どこかに遊びに行こう! 買い物か? カフェか!? どこへでも付き合うぞ!」
もーー! おじいちゃんが勝手なことをするから老温が疲れちゃったでしょ!
なんてことを葉白衣に言ってしまいたい、なんて、周子舒は思っていない。
ぐすぐすと鼻を啜る温客行は、しばし考えた。
「……川」
「かわ」
「魚を釣りに行くの! 最高に新鮮で美味しい魚を白米に食べさせる!」
そういうわけだった。
用具を揃えて場所を決め。天気を見極めて今日という日を迎えた。
温客行の好みで買った愛車、カシミアグリーンの古いシトロエン2CVに、釣り道具などとペットキャリー、白米を乗せて早朝からドライブだ。
車の運転が好きな周子舒は、しかし、助手席で古い史記を読み込む相方にちらりと目をやってはため息を吐く。
その史記はもともと武庫にあったもので、古書中の古書、歴史的価値など測ることも難しい。
川に持ってくるか? 少し思う。
「阿絮」
「な、なんだ?」
「太公望呂尚は、釣りがうまかったのかな。少しでも精神を学ぼうかと思ったけど、特に記述がないね?」
「……好きだっただけなのかもな」
「老子を読んだ方が良かったかな」
授人以魚 不如授人以漁。温客行が呟く。
『人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣り方を教えれば一生食べていける』
老子にはそんな格言があるという。あるというが、しかし。
「……別に老子を読んでも……釣りの指南書ではないし」
「やっぱりおとなしく、現代のハウツー本でも買えば良かったかな。釣りなんて随分と久しぶりだからさ。偉人の指南の方が重みがあるかと思ったんだけどねぇ」
こいつ、こういうところあるよな。
そんなドライブの間中、白米はずっとキャリーの中で眠っていた。
「老温! そろそろ正午だ。一度休憩しよう」
午前の釣果はゼロ。しぶしぶと温客行は針を上げた。
白猫を挟むように座る。眠りから醒めて伸びをする猫を周子舒が撫でた。
「白米。ずっと寝ていて暇じゃないか? 散歩に行くか?」
ふと考えた白米は、んー、と気のない返事を返してぺろぺろと肉球を舐めた。特段、暇ではないらしい。
ピクニックトランクからいつもの白米の飯碗を取り出した温客行はドライフードを入れ、保存容器に入れてきた湯がいたキャベツを少量乗せた。
「夜は新鮮なお魚だからね! お昼は野菜にしなさい」
んー。
まくまくと白猫は食事をはじめた。
神仙はボトルに入れて持参した湧水を飲む。
「綺麗な川の水なのにな。昔はこんな川でよく水を飲んだよなぁ」
「そうだねー。綺麗に見えても今の生水は怖いからね。仕方ない」
しみじみと会話する。見てくれは丸切り現代風なのに、ふとした時に長い、本当に長い彼らの歴史が顔を出す。
川で冷やされた風が、周子舒の肩ほどの長さの髪を揺らす。
「心地がいいなぁ。普段、マンション暮らしで不平はないが、こういうところに来るとしみじみ思うな。自然はいいな」
言いながら、腕を伸ばして背後の花を摘む。
今が盛りと咲き競う虎耳草だ。一輪の小さな花の花弁の下二枚がびょん、と長くて白い。残りの花弁は薄紫の模様が入って短い。その花が群れて咲いていると、なにか華麗な蝶の群生のように見える。
それなに? というように白米がふんふんと桃色の鼻を近づける。
「これは虎耳草。丸い葉っぱに毛が生えていて虎の耳見たいだろ? 知ってるか? 虎。この間テレビで見たな。黄色くて縞々の」
うなん……白米は覚えていないらしい。ま、いいや、とでもいうようにまた飯を食い始める。
「懐かしいな、虎耳草。昔はよく薬にしたよ。阿湘がさ、熱を出したり火傷するたびに使った」
懐かしそうに微笑む知己に周子舒を笑みを返した。
「そうだな。九霄もそうだった」
長い年月を過ごしてようやく、朗らかに思い出として故人を思い出す。思い出せば今なおちくりと胸を刺すが、その痛みですら愛おしいと周子舒は思う。
きっと老温も同じだ。
川面を眺める横顔を見やり、それを感じる。
なんなん。
周子舒のジーンズの腿を白米の小さな手が揺する。
「どうした?」
川とは逆の林に目をやる。
「ん? トイレか」
地面に刺したペグにかけていたリードを取ると、白米は一目散に草の中に走り出した。
「おい! 白米!」
リードを掴む間もなく姿が消えてしまう。
「追いかけよう」
「気配はたどれるけど、珍しいよね、あの子があんなに急いで」
白猫の駆けていった方に歩んでいくと、お、と微かに驚きを含んだ声を進路の先で聞いた。
二人は顔を見合わせる。戸惑いを含んだ周子舒の表情とは違い、温客行はぎゅっと眉を曇らせて不快を表す。
「お前、白米だな? なぜこんなところにおるのだ?」
そんな声と、なごなごという嬉しそうな同居猫の会話が聞こえてきた。
「やはり貴様らか」
木の向こうからやがて姿を見せたのは白米を抱き上げた剣仙葉白衣だった。
咄嗟に拱手する知己の隣で温客行は遠慮なくそっぽを向く。
「こんなところでなにをしておる?」
「はぁ……今日は、その、釣りに」
「ほお。なかなか良い場所に目をつける。ここの魚は美味いぞ。それによく釣れるしな。いつから来ておる?」
「ええと、早朝から……」
「ではだいぶ釣れたであろう」
「ええと、あの……」
「あ? 別に奪ったりせぬぞ」
言いながら剣仙は白猫を抱いたまま二人の横を抜けてずんずんと歩を進める。
「……おい」
「なんじゃ」
「そのパーカー、なに」
剣仙は相変わらずだぶりとした白いパーカーに、今日は黒いスキニーパンツを合わせている。くるりと振り返るとフードをかぶった。
はあっ! と周子舒が息を飲む。
「ホワイトタイガーパーカーだが?」
フードには丸い二つの耳と、てっぺんにグレーの縞模様が描かれていた。
にゃわ?
白猫が小首を傾げる。
「そうじゃ、虎じゃ。お前のでかい奴だな、白米」
ふうん、とさほど気のない返事をして白猫はうとうとと目を閉じる。
「……阿絮、なにをうっとりしているの? 着たい? 着たいの? 買う? 買っていい?」
「……着たいわけじゃない。そもそも俺が着て似合うものか」
「似合うよ? 買っていい?」
「やめろ」
でも買おうっと。温客行は密かに心のメモ機能に書き込む。隠しておいて、酔っ払った時か何かの時に着させよう、なんて思惑にほくそ笑む。
何パーカーにしようかなぁ、なんて温客行が夢想している間に川に出る。
川縁に置いたバケツを剣仙がどれどれ、と覗く。
くるりと振り返る彼の目線から、神仙二人は揃って目を逸らした。
「ほお」
「……」
「ほお。ほお」
「……ほおほお五月蝿いなっ! 梟かよ! 今日は川に魚がいないんだ!」
「え? そうなのか?」
背後の声に二人はびくりと体を揺らした。剣仙に対峙していたためか、声を聞くまで存在に気づかなかった。
振り返れば背の高い男がのっそりと立っている。釣り竿とバケツを下げているところを見ると釣り客らしい。ジーンズもTシャツも、袖を捲ったジップアップパーカーもくたびれた印象だ。てろりと伸びかけたTシャツの襟にサングラスが引っかかっている。
人の良さそうな細い目をした顔には無精髭がある。誠にのんきそうに口元はにんまりとゆるい。
後ろでひとまとめにしている髪は真っ白だ。顔や、そのほかのとこにも老いたところは見えないのに、ぴよぴよとうねり飛び跳ねる髪だけが真っ白だった。
温客行は瞬間的に目を剥いた。うなじがぞくりと粟立つ。毛が逆立つような気がする。
思わず、いまだに持ち歩く白扇を忍ばせた背中に手をやる。
周子舒はもともと大きな目をまんまるに見開いていた。そのまま瞬きも忘れ、じっと男を見つめる。口は真一文字にきゅっと結ぶ。背中をじんわりと冷たい汗が流れた気がした。
男は細い目をさらに細め、くすくすと笑った。
「なにをしとるんだ、お前たちは」
葉白衣が呆れた声を上げる。
うなな? 白米が疑問の声を上げると、なぁ? と頷く。
「お前たちは野生か? 縄張りを荒らされた野生動物か?」
「これ、白衣。そのようにいうものではないよ。なんというか……猫のようで愛らしいではないか」
「なーーにが猫か。なーーーーーにが愛らしいか。ここに本物がおるのに。なぁ、白米」
「おお。その子が白米か。はは、たしかにどこか、白衣に似ておるな」
地面に降ろされた白米はさして警戒心もない様子で背の高い男に向かって行く。
だがそれを、背後から温客行が抱き上げる。抱き上げて庇うようにしながら、唸り声でもあげんばかりに男を睨みつける。
「……あんた」
「初めてお目にかかるなぁ。白衣がいつも世話になっている」
「なっとらんぞ」
「これ。二人の元から戻ればいつも食い物の匂いがするではないか」
「人を餌付けでもされているように申すな」
不意に、男と目が合った周子舒はぴりりと全身を震わせた。その仕草に男がまた笑みを深くする。
嫌なものではない、とその笑みを見て周子舒は思う。思うが、体が勝手に緊張してしまう。
「あんた、だれ」
温客行の言葉に、ああ、と朗らかに男は頷いた。
「白衣が口を挟むから自己紹介もできん」
「私のせいにするな」
「俺は容長青と申す」
これが、と周子舒の黒目がちの瞳が焼き付けるように男を映す。
この男が。
「あんたが! 諸悪の根源かっっ!」
「こ、こら! 老温!!」
悪態を吐き付けられたというのに男、容長青はほんわりと目を糸のように細くした。
「そうだなぁ」
誠に呑気に言った。
「あ?」
あまりの呑気さに、温客行の中に沸騰していた感情が霧散してしまう。
周子舒はきょどきょどと容長青を見るしか出来ない。
ただ一人、葉白衣がけたけたと声を上げて背を丸くしている。
「そなたが温客行、だな? ご苦労をかけたなぁ。辛い思いをさせてしまったな」
すまんなぁ。
言葉尻はまことに呑気であった。
川のせせらぎと木の葉の擦れる音と馴染んで大地に溶けてしまうように。
口元には相変わらずな笑みも浮かんでいる。
それなのに、細い目から溢れるのは悲哀と深い慈しみで、温客行はただ、口をつぐんでしまった。
ひょん、と同居人の腕から降りた白米がとことこと歩み、間近で容長青を見上げた。
大きな体でしゃがみ込むと、容長青はそろりと指を伸ばす。ふんふんと鼻を動かした白米は、すぐにすりすりと頭をなすっていった。
「おや。ひとなつこいかわいい子だなぁ。白衣と似てないな」
「なんでじゃ。そこは似ておるだろうが」
うななにゃ、にゃわにゃ。
「ほう、そうか」
うなうなうな、ななんにゃ。
「はは、しかたがないのう」
うなーな。んなーな、にゃわうぇん。
「しょうがない。それが温客行という愚か者だ」
「本人の前で堂々と悪口を言うなよ」
午前、周子舒が腰掛けて釣りをしていた大きな平たい岩にレジャーマットを敷いて寝転び、葉白衣は白米と会話していた。膝までパンツの裾を捲り上げ、足先を水につけて凉しんでいる。
正確な年齢など、もはやわからぬほどに生きているというのに、外見は誰よりも若い。容長青がTシャツの襟に引っ掛けていたサングラスは葉白衣のものであったらしく、それをかけた見てくれは丸切りやんちゃな若者である。
白米は顎を葉白衣の肩に乗せて会話を楽しんでいた。
釣り糸を垂らしながら温客行はむっと剣仙を睨む。
ぱしゃ、と小さな音がして、そろりとそちらに目をやる。
容長青が三〇cmほどの魚を釣り上げていた。
「長青。手加減してやれ。他のお二人はいまだに釣果ゼロなんだからなー」
「うるさいな!」
釣り、午後の部を開始して一時間ほど。容長青は既に五匹以上の魚を釣り上げていた。
「ここの魚は美味いよ。来るたびに天気のいい日は釣りに来て白衣に食わせておるのさ」
「私だけが食っているように言うな」
「九割お前の腹に収まるな」
ななん?
白猫の小さな頭を撫でながら葉白衣は首を振る。
「濡れ衣じゃ」
周子舒は、はぁー、と惚けた声を上げながら容長青の大きな手が動く様を見ている。それに気がついた男が笑み浮かべれば、つられたように、ぎこちないながらもほやほやと笑みを返す。
「そこらへんに、川の流れが逆さになっているところがある。わかるか?」
「へ? あ、ああ、はあ、ありますね」
「そういったところは魚が良く掛かるよ」
「へえ! ほほう……」
「あとは大きな岩の近くとかな」
「そうでしたか! ありがとうございます」
むっと、面白くない心持ちを隠さず温客行が唇を尖らせる。
「阿絮」
「……ん? な、なんだ? 老温」
「なんでその男に懐いてんの!? 私は許したわけじゃないぞ!」
「な、なんだと!? べつ、別に、懐いているわけでは」
「はは、そうかぁ。許してはもらえんのかぁ」
容長青の呑気な風情に温客行はペースを乱され続け、なんとも居心地が悪い。
葉白衣はその様をニヤニヤと眺めている。
「周子舒は師兄ぶっておるから、弟のように扱われるのが慣れぬし案外嬉しいのだろう」
酔ったような顔色をして周子舒が微かに困惑する。
「温客行など、頼り甲斐のない男であるが故に仕方がないのう」
「なんだと!?」
「秦懷章もおちゃらけた男であったし、そなたは大師兄。出会った中に兄のように慕うべき者はいなかったか」
冷静に自分の性根を見透かされるのは楽しくはない。周子舒は軽く唇を突き出すものの、素直に自分の半生を振り返る。
兄のような存在……四季山荘の叔父達はずっと年上が多かった。同年代がいたにはいたが、わずか十六で荘主と呼ばれるようになって、ましてや天窗の首領となれば周囲と気安く交わり下に見られるなどあってはならないと気を張っていた。
年上は敬えど慕うのではなかった。
景北淵や晋国で親しくしていた者たちは年上が多かったが、やはり、兄というよりは友であった。
あ、一人いたか。兄的ポジション。
表哥……
「いませんでしたね」
きっぱりと言い切る周子舒に、岩の上の男は、そうであろうそうであろう! とけたけたと笑った。
「白衣も違ったということだなぁ」
人の声が止む中に、また一匹釣り上げられた魚の水を弾く音が響いた。
ぐふぉ、と盛大に吹き出した温客行に向かって葉白衣が水を蹴り上げて飛ばす。白髪の男が二人、やめろ! と怒鳴ったり、足癖が悪いのぅ、と呑気に嗜めたりする。
反論が咄嗟に出ない様子の剣仙に、ほお……と周子舒は感嘆する。
葉白衣の悪態はもはや脊髄反射だ。
今だって、きっと言ったのが温客行なら雷鳴の如き速さと鋭さで言い返す。
だが、容長青にはそれをしないでいいらしい。
自分たちに対する葉白衣の態度がなにか薄皮の纏ったものとは思えぬが、馴染みの男に対しては気を抜いていられるのだろう。
周子舒は、なんだか己の中に野の花でも咲いたような心持ちになる。
なるが、サングラスをずり下げた「見てくれ若人」に半眼して睨まれればさっと視線を逸らす。
ふん、と鼻を鳴らして葉白衣は虎耳パーカーを被り、また寝そべる。
その虎耳を白米がつつく。
うなうなにゃうなうな。
「なに? 虎の耳の葉っぱ? ……ああ、虎耳草か。この耳と似ておるか?」
にゃうな。
「ふふ、そうか。そういえばな、白米。この川には蟹がおるのだぞ」
にゃな?
「蟹だ。両手がハサミになった……こういう」
顔の横で両手をピースしてちょきちょきと動かす。
白猫は、んん? と大きく首を捻った。ぷふ、と白髪の大きな男が笑う。
伝わらぬかな、と呟きながら起き上がった葉白衣は乾いた岩に濡らした指先で絵を描く。
「こう……足が沢山あって、一番上がハサミだな。そして横向きに歩くんだ」
容長青が背後の雑草から稲科らしい、艶やかな穂が出たばかりの草を摘み取り、ひょい、と友に投げた。
「釣って見せてやれ」
「釣れるかのぅ」
「なんだ! 剣仙サマも釣りは不得手か!」
「お前と一緒にするな間抜けめ。蟹は水温が低い方が釣れるのだ馬鹿め。蟹の好きな餌も持って来ておらぬしな阿呆め」
「うるさいな!! 私も蟹釣りにする! 見てろ! 絶対釣ってやるぞ! 待ってなさい! 白米!!」
雑多に釣り竿を片付けた温客行が草をむしりとる。眼光鋭く、岩場に這いつくばうようにして川の中を睨む。
「本当に愚かじゃ」
言いながら葉白衣も岩に腹這いになり、白米と共に水面を覗き込む。
「この辺りかのぅ」
んなう。
友と猫の声に容長青はゆるりと笑った。
ぐるりを見回し、周子舒も笑みを浮かべずにはいられなかった。
四時。
まだまだ日の高い時節とはいえ、川でのレジャーは終わりの時間だ。
「はぁーーー。私は存じ上げなかったぞ。長青は釣りの名手であられたか」
「……一方を持ち上げるふりをしてこちらを蹴落とすな」
温客行の口は苦々しい。彼の両手にはピクニックバスケットと空のキャリーバッグが握られている。
「……事実だ、老温」
周子舒は釣り道具と魚の入ったバケツを手にしている。だが、釣ったのは容長青一人だ。
自分の釣り道具と、これまた魚入りバケツを下げて容長青は笑う。
「川魚はなかなか警戒心が強いゆえなぁ」
「そうなのか? お前はこの川で最初から入れ食い状態ではなかったか」
これ、白衣。やれやれと嗜められたパーカーの男を、白猫がリードで先導する。
「なんだよ。あんただって蟹釣れなかったじゃないか!」
「だから最初から言ったであろう。難しいのだと。魚釣りならお前などに負ける気はせんな」
「あんたみたいな傍若無人に魚が釣れるかっ!」
なんだ、それは。葉白衣が呆れ返った顔で肩をすくめる。容長青一人が楽しそうにしている。
「で? あんたらの別荘とやらは本当に近いのか?」
「もう見えておるだろ。ほれ、あれじゃ」
「あれ……まさかと思いましたが」
木々の合間からずっと白亜の豪邸が見えている。煉瓦造りの塀がぐるりを囲っている様子だが、敷地も果てしない。
「あんたらは何で生計を立てているんだ? 怪しい事をしでかしているのか」
「何……一言では難しいなぁ。いろいろだし、説明がし難い」
「怪しい」
「こら、老温」
「だって阿絮〜」
ふうむ、と容長青が無精髭の生えた顎をさする。
「老温、阿絮、か。俺もそう呼んでよいか?」
え。
猫がびっくりしたように周子舒がすくんだ。
「駄目か」
「い、いや、駄目というか、なんていうか」
「駄目だね!」
「こら、老温」
「阿絮を阿絮と呼べるのは私だけだ!」
「どこのお子さんだ、貴様は。いい年をして、このおじさんは」
「おじさんじゃない!」
ぎゃいぎゃいとやかましい人間達を無視して白米は頑丈そうな鉄製の門扉を嗅ぐ。
容長青がポケットから出したスマートフォンを操作すると、かちゃりと鍵の開く音がした。
「それでは周公子、温公子。どうぞ」
「公子……」
「懐かしい」
「なーーーにが公子か。長青、リップサービスが過ぎるぞ」
門扉をくぐると、葉白衣は白米のライフジャケットを脱がせて温客行に放った。
「もう危ない所はないからな。来い、白米。良い物を見せてやる」
飼い主を放ってさっさと猫を先導して歩き出す。肩をすくめて容長青が母屋を示した。
「荷物を置いてこよう。白衣は温室に行ったのだ」
かなり巨大な温室だった。
延べ床面積はうちより広いかも、とマンション暮らしの周子舒はきょろきょろと中を見回す。
蒸し暑いという温度ではなく、程よく快適に保たれているらしい室内に、多種多様な植物が植えられている。鉢植えも多く、周子舒達の住まう場所に近い公園併設の植物園より種類は多そうだ。
土に葉のあおい匂いと、なにかの花の甘い香りが混ざりあたりに漂っていた。
「見ろ、白米。これはマンゴーだ。毎年なかなかうまい実がなる」
なー。
「うむ。もう少しで実がなるだろうな。こっちのトゲトゲはパインだ。実がなるまで三年ほどもかかることがあるが、美味いのだ」
うにゃ。
「そうだ、美味い。あれは枇杷だな。今年はもう終わった。美味かったぞ」
「ここは果物ばかり育てているのか? さすが食い意地のはった剣仙殿だな」
「馬鹿を申せ。育てているのは長青だ。私が植物の世話などをこまめにすると思うな」
「威張るな」
「あ、そちらに行ってはならぬぞ、白米。サボテンコーナーだ。刺さるからな。痛いぞ」
岩で囲んだ一角を一瞥すると、白米は後ろ足で砂をかけた。とことこと先を行く。
小さな畑とプランターや鉢がいくつも置かれていた。どうやら家庭菜園コーナーであるらしい。
ガーデンチェアとテーブル、籐製の大きなハンギングチェアがあった。
「お。長青、トマトが赤くなっているぞ」
「あー今年の初物だな。早速食うか。きゅうりもなっているなぁ」
この人は、本当にあの鬼谷などというものを創生した男なのだろうか。
周子舒は収穫を喜ぶ男のほのぼのとした横顔を眺めてそう思わずにはいられなかった。
「見ろ、白米。これを見せたかったのだ」
うな?
「いちごだ」
いちご、の単語に白米の目が見開かれた。いちごは彼女の大好物だ。うにゃうにゃと喜びを告げる。
「そうだろう、そうだろう。お前が初めて食ったいちごもな、長青が育てたものだったのだぞ」
容長青を見上げる白猫の顔に尊敬がともる。
あまりに熱心な視線を浴びて、容長青は気まずげに白い後頭部を撫でた。
「白衣、こんなに期待させて。もういちごは終わりだ。食べれるものはないのではないか?」
「探せばあるぞ。昼間に食った」
「お前。俺に分けなかったな」
ふい、と明後日の方を見て剣仙は素知らぬ顔をする。
「いちごなら、我が家にもあるぞ。私が育てているからな! 白米のために!」
「老温、対抗心を燃やすな……」
「ほら、白米。探してみよ。あるはずだ」
剣仙は言いながらハンギングチェアに沈み込んだ。
にゃわうぇん!
「もー。なんでこういう時は私を呼ぶの?」
にゃわうぇん!
はいはい、と肩をすくめながらも、下僕は嬉しそうに姫に呼ばれていちごを探す。
そして下僕の頑張りにより、五粒発見、一人一つずつありつくことができた。
「泊まってゆけばよいのになぁ」
日が沈みかけ、薄闇の迫る頃。
今日は月に一度のご飯を食べる日、ということで招かれた神仙たちも夕飯を馳走になった。作ったのは容長青と温客行だ。
「白衣から温公子の魚の汁は美味いとよく聞いておるよ」
ほのぼのと言われ、悪い気はしないと汁当番になったが、なにか上手くあしらわれている気もすると、広いキッチンで温客行は不機嫌を装っていた。葉白衣が選んだという容長青のエプロンはよくサイズがあったな? というくまさん柄だの大変愛らしいハート柄などだったので借用を拒否した。
葉白衣は周子舒と白米を相手に食前酒を楽しんだ。白米はしっかり蒸した川魚の旨さに夢中で夕飯を平らげた。
「お誘いは有難いのですが、明日は朝から白米の健康診断の予約が入っておりまして」
「それは仕方がないな」
「また来いよ、白米。いや、今度は私が勝手にお前を連れに行ってやろう」
「やめろ、誘拐犯」
ああ、そうだ、と容長青がくまさん柄のエプロンのポケットからカードキーを取り出した。
「この別荘の鍵だ」
差し出された周子舒が、え、と目を丸くする。
「我らは毎週ここに来るが、そなたらも好きに使うと良いよ。温室の物を食っても良いし、裏の湧き水も綺麗だから好きにしていい。屋敷も好きな部屋に泊まると良い」
「そんな、それは申し訳がない」
「いやいや。そうだなぁ……ならばこれは、温公子への詫びだと思ってくれたらありがたい」
男の細い目は象を思わせる。
ふん、と鼻を鳴らし、温客行は横からカードキーを取った。
「そういうことなら、せいぜい便利に使ってやろう。受け取ってやる。有り難く思え」
「老温……」
同居人は呆れて額を押さえるが、白髪に無精髭の男は心から嬉しそうにする。
「白米もどこでも出入り可だぞ」
葉白衣に抱かれている白猫につげる。猫はきょとりと小首を傾げたが、無骨な指で顎をくすぐられるとごろごろと喉を鳴らした。
「また会おうな」
黒髪の同居人に抱かれて白米は、白い頭の大男と細身の葉白衣が見えなくなるまでずっと別れの言葉を呟いていた。
「帰ってしまった」
葉白衣がつまらなそうに言う。
「今度は泊まって貰えばいい」
「白米だけで良いのだ」
ふ、と容長青は小さく笑う。
「俺はあの二人に初めて会えて嬉しかったぞ。想像していたより、可愛らしい男たちであったな」
「なにが可愛いものか。融通が利かないのと生意気な馬鹿者だわ」
「そんなことを言いながらとっておきの酒まで出したくせに」
「まだ飲み足らん。食い足りないしな。長青、なにかつまみを作ってくれ。こってりとした、腹に溜まるものがよい」
「はいはい……そうだ。たしか美味い蟹缶があったな。あれでクリームパスタでも作るか」
「かに」
母屋に向かう葉白衣の足取りが軽い。かに、かに、と歌うように呟く。
「白衣、蟹をやってみろ」
「あ? かに?」
「蟹のマネだ」
くるりと振り返った葉白衣は怪訝に眉間に皺を寄せる。
その顔のまま、両手をピースして顔の隣でちょきちょきする。
ぷふー、と容長青は吹き出してしゃがみ込む。
「知っておったが、お前は変な男だ。長青」
「お、お前も大概だぞ、蟹剣仙」
かに剣仙?
いぶかしく言いながら、葉白衣は知己を覗き込みかにかにしてやる。
後日、葉白衣には両手のハサミで剣を持つなんともゆるい蟹のイラストと「蟹剣仙」の文字が踊るパーカーが贈られた。
「作ったのか?」
「作ったな」
やはり変な男だ。
葉白衣はしみじみ思いながらパーカーに袖を通した。
昨夜から降り出した雨が静かに降り続いている。
畳んだ洗濯物をそれぞれの部屋に置いた周子舒がリビングに戻ろうとした時、バルコニーに続く大きな掃き出し窓の前にしゃがみ込む男の背中が見えた。膝を抱えて小さくなっている。
またなにか、ショックなことでもあったのか……?
周子舒は眉を軽く顰めた。
だがやがて、にゃごにゃごという声が聞こえてきた。見れば、知己の隣には白猫が座り込み、二人でバルコニーを眺めているらしい。
なわにゃわなうなうにゃう。
「仕方ないじゃないか。雨でお日様がささなかったからさ」
にゃごなごにゃわにゃわなうあう。
「いや、そんなこと言っても……」
なうあうなうにゃわうぇん。
「まあ、確かに私が言ったけども……明日には赤くなるって……」
盛大に笑いたいのを必死で口を押さえて堪え、周子舒は廊下にしゃがみ込んだ。
どうやら同居人は、鉢植えのいちごの最後の一粒が食べ頃にならないと、白猫に責められているらしい。
長い尾でぱしりぱしりと背中まで打たれている。
白米はそれほどわがままな性格の姫ではない。だが、何故だか温客行はよく怒られている。
扱い方が巧みだ、と周子舒は感心さえする。
部屋のチャイムが鳴った。
くるりと振り返った温客行と目が合う。
情けない困り顔に周子舒がたまらず笑い出すと、むっと膨れた後で温客行も笑い出した。
「俺が出てくるよ」
同居人を見送ってから温客行はおもねるように白猫の背を撫でた。
「いつか、ちゃんと赤くなるから待とうね」
にゃわう?
「……いや……明日か、どうかは……」
またぺしり、と尻尾で打たれた。
「老温。葉先輩と容殿から小包だ」
「はぁ?」
とたとたと白米が駆けて周子舒を見上げる。
みゃいー?
「そうだ。白衣先輩だ」
床に座り込んだ同居人の黒い方が箱を開けるのを、白猫はわくわくと見つめている。
「……お。これは白米に、だそうだぞ」
真白な小箱に『白米』と達筆で黒々としたためられている。どう見ても葉白衣の筆跡である。
「なにかな……うわ……」
箱を開けて周子舒は言葉をのむ。
中身は金色の飾りがついた、可愛らしい小さな首輪であった。
「うぇ。むずむずするほどジジイの気配がする。まぁ、虫除けにはなりそうだ」
嫌そうな顔をして温客行がつまみ上げた。
「この飾りは……いちご? このいちごからは容ジジイの気配がするな。作ったのかな」
「老温……その呼び名はどうなんだ?」
「ジジイの相方なんだからジジイでしょ。構わないさ」
「構うぞ……しかし、随分と美しい金色だな……まさかと思うが、本物の金では、ないだろうな?」
「……まさか」
神仙は二人、まじまじと飾りを見つめる。そんなことはお構いなく、白米はちょいちょいと前足で金色のいちごをつついた。
「つけるか? 白米」
こくりと頷くので温客行がつけてやった。真っ白な首元に、首輪本体の深い青色もよく映えて美しい。
「似合うな」
「うん。うちの子はなんでも似合う」
褒められて白米はふふん、と鼻を鳴らした。
「まだ入っている……温、だそうだ」
手渡された紙包みを嫌そうな顔をして温客行が受け取る。
「開けたら呪われたりするやつ?」
「そんなわけあるか。お、最後の包は俺にだ」
二人で揃って包みをひらいた。
途端に温客行の顔が不審気に歪んだ。中身を取り出してこれ以上ないほどうんざりとする。
「あのジジイは本当に馬鹿愚かだ」
「なに? あ、おお……」
鮮やかな黄色地に、大きないちごがたくさんプリントされたエプロンだった。
「可愛い、な……」
「私はさほど自分に可愛さは求めていない。これはそのうち容ジジイにくれてや」
ななん。
小さな白い手がぽんぽんと温客行の膝を打った。
「……白米?」
小さな顔全体に期待が溢れている。
つけて、と金色の目が真っ直ぐに白髪の男に訴えかける。
「……ジジイ、いつか殴る」
白猫に急かされ、誠に情けなく項垂れながらエプロンをつける。
「にあ、似合うぞ!? 老温!」
「励ましているつもりなら失敗だからね!? 阿絮のはなに!? この流れならいちご……」
戸惑いながら周子舒が広げて見せたのは白いTシャツだった。
「…………蟹剣仙?」
「蟹剣仙…………?」
蟹剣仙Tシャツだった。
にゃに?
みんなで首をひねった。
雨の日。
【おわり】