くつした事変 洗濯物の係は周子舒だ。
家事一般が全て苦手だった遥か昔。それはもう過去のことだ。
掃除、洗濯は長い生活をへて普通程度にはこなせるようになった。
六合心法を成し、ずっと二人で生きていく。
それを決めたからには、一方に負担がかかり過ぎるのは嫌だ。
周子舒は真面目な性格だ。だから精進した。
ある時、力のぬき方を覚えた。そうしたら、案外あっさりとこなせるようになった。
そうか、今まで力を入れすぎだったのか。
そんな事に気がつくまで随分と時間がかかったな、と自らを笑ったのは確か七百年ほども昔。
まぁ、いまだに料理のほうはからっきしダメなのだが。
「それまで上手になったら私がつまらないだろ?」
白髪の男が満面に笑みをたたえて言うのだから、それは良しとする。
そんなわけで周子舒は乾燥機から出した洗濯物をリビングで仕分けしていた。
文明の発達は有難い。
洗濯機、掃除機、クリーニング。しみじみと思う。
思いながら、洗濯カゴや周囲を見回した。
「おい、老温」
「なに?」
知己は鉢植え植物のメンテナンス中だ。
「靴下、片方ないぞ」
「ええ? なんでだろ……」
ぷらぷらと周子舒が揺らす黒い靴下の片方を見る。
見て、少し怪訝な顔をする。
「え。しかもその靴下? うそー」
「嘘をついてどうする」
共同生活において、個の保全は最重要項目と言える。互いの趣味に干渉し過ぎない。共同スペースを占有しない。などなど。
そして、衣料品の区別は分かりやすく。
靴下はその最たるもので、ブランドマークで二人は自他を区別している。
黒いソックスにはペンギンのブランドマークが刺繍されていた。
「気に入ってたのに……」
それは周子舒も知っている。
「この春の新しい靴下、最高に履きやすくて丈感がちょうど良くて好き」
知己はそう言ってにこにこしていた。
丈感。
たけ、かん? 知らない言葉なので、そうか、と周子舒はただにこにこしていた。
相手のこだわりには疑問など持たず、頷くのが共同生活のコツだと周子舒は思っている。
「洗濯機とか乾燥機の中とか……はないよね」
「ない」
片方だけ取り残された靴下をそういった空間で見つけると、やけに物悲しい気持ちになる。
「……すまん」
洗濯機がまだ珍しかった頃。うっかり取り残された片方のしおしおの靴下に謝る知己を、温客行は物陰から見たことがある。なにがそんなに、と言うほど悲哀に満ちていた。
だから周子舒はそんなミスには気を使う。
「時々、靴下は勝手に片方だけいなくなるけど、あの子たちはどこにいったんだろうねぇ」
「大概はとんでもない隅っことかから見つかるが、本当にいないやついるよな。不思議だよな」
「不思議だねぇ……この子は見つかるかな」
「とりあえず、生き別れボックスに入れておくからな」
繊細な割にそのネーミングはどうなんだ。
温客行は思わないでもないが、ありがとう、と洗濯物を運ぶ知己の背中に声をかける。
時計を見ればもうすぐ正午だった。
「そろそろ白米のご飯の時間だ……うわっ」
キッチンに向かおうとした温客行の肩にどさりと重みが乗る。
おっと! と慌てて手を伸ばして支えると、ふわふわの毛並みが温もりを伝えた。
そのまま、ぽすん、と腕の中に収まる。
「こら。白米」
にゃにー。
白猫が楽しそうに声を上げる。
一週間ほど前、神仙二人が住まうマンションに大きな荷物が届いた。ネットで注文していたキャットタワーだった。同居猫の白米のために二人でせっせと組み立てた。
「ほら! 出来たよ、白米!」
リビングの壁際に設置されたキャットタワーは、最上段は長身の温客行の頭より上にある。造り、安定感、猫の満足感、若干のインテリア性。それらの検討を重ねて購入した逸品だった。
だが、さすが猫というべきか。
出来上がってすぐは白猫は関心を示さなかった。
荷物が入ってきたダンボールにおさまって満足げな顔をしていた。二人も覚悟はあったのでそれほど落胆はしなかった。だが、一日たてばタワーは白米のお気に入りとなった。最上段から一つ下の半円形の布張りハンモックは寝心地が良いらしい。
そして今。
彼女は最上段から同居人に不意打ちで飛びつくのがマイブームである。
身軽に足場を蹴って飛ぶ様はまるで軽功使いである。
「もー。危ないからダメって言ってるのに」
温客行は眉を顰めて怒り顔をするが、持ち上げた白猫は悪い顔をしてニヒャリと歯を見せる。
にゃにににに。
「もー。悪い子だなぁ。そういう顔したらジ……」
きゅ、と温客行は口をつぐんだ。
とある人物に似ている。
それを口にするのが憚られる。ため息を一つついて白猫をまた腕におさめた。
「怪我したら大変なんだからね。病院だよ、病院」
白猫は同居人の肩に顎を乗せてふふん、と鼻を鳴らす。
怪我をしない自信があるし、別に病院は苦手ではない。ワクチンの注射だって微動だにせず、表情も変えずに平然と受ける彼女なのだ。
午後二時。リビングにはクラシック音楽が流れていた。
ダイニングテーブルで読書していた周子舒はほっと息を吐き、本を閉じた。
「老温、買い物……」
ソファに目をやって言葉を切った。
大きなソファに悠々と寝転ぶ知己と目が合う。そして二人でそっと笑い合った。
胸の上に白猫が寝そべりふうふうと小さな寝息を立てている。バルコニーに続く掃き出し窓から入る弱い日の光に、時々首輪についてる金色のいちごの飾りが煌めく。
「私は動けない」
さして困った風でもない白髪の知己に、周子舒は目を細めた。
「仕方がないな。一人で白米のご飯を買いに行くよ。あと何か買うものはあるか?」
「んー……箱ティッシュとトイレットペーパー」
「おまえ。ここぞとばかりに大物を言ってるだろ」
「そんなこと、ないよ?」
そらぞらしく目をきょろりとさせる男を目で叱ってから小さく笑う。
部屋に財布を取りに行ってリビングに戻ると、温客行も寝息をたてていた。
「ただい、ま……」
にゃむにゃごにゃにゃにゃ!!
両手に荷物を下げて玄関の扉を開けると、すぐに激昂した白猫の声が聞こえてきた。
珍しい。
彼女は激しく怒りを表すタイプではない。
廊下の途中にある物入れにペーパー類を納めてリビングの扉を開けた。
「どうしたん、うわっ!」
一歩踏み込むかどうかの淡いで白猫がタワーの最上段を蹴って飛んだ。
フード入りのエコバッグを床に落とし、顔面に飛び込む勢いのぐにゃりと柔らかな体を受け止めた。
周子舒は同居猫を叱ろうと眉を顰めた。
「はくま」
あにゃにゃにゃにゃ! にゃごにゃ! にゃおうぇん! にゃにゃな!
「なに? 老温が悪いことをしたって?」
「濡れ衣です」
にゃおにゃ!
「とった?」
「とってません」
にゃおなーなーなー! にゃおーにゃ!
白猫の興奮はおさまらない。よしよし、とあやしながら周子舒は白猫を連れてソファに腰掛けた。彼女の言い分に耳を傾ける。傾けて、結局最後、首を傾げた。
「老温、何をとったって?」
はぁ、とため息をつく白髪を後ろで束ねた男は、よく見れば靴下の片方を履いていない奇妙な格好をしていた。
なんだかもぞもぞとくすぐったい。
ふと目覚めた温客行はそろりと首だけを微かに起こして足先を眺めた。
白猫が頑張っていた。
頑張って、彼の靴下を脱がせようとしている。
日々寝てばかりの猫らしい同居猫は、時々同居人に絡んで悪戯まがいの遊びをする。
腕に絡みついてみたり。髪の毛をじゃらしたり。
そして、足先に挑んでみたり。付き合って足の指をぴこぴこ動かしてやれば盛り上がる。
その時も、そんな遊びかな? と温客行は思い、静かにバレないように眺めていた。
しかし、なんとなくいつもの遊びと違う。
じゃれるのではなく、明らかに靴下を脱がすことに集中している。
いたずらかなぁ。
微笑ましく眺めていた。
とうとう、彼女は靴下を脱がせることに成功した。爪を立てることなく、器用にやり遂げた。
満足げな彼女は、次に靴下を咥えた。ずるずると引きずりながらうかれた足取りでとことこと歩いていく。
そしてそのまま、ひょいひょいとタワーを登って行った。
えーと。
静かにその光景を見つめていた温客行の頭に、とある方程式が描かれた。
靴下。片方。持ち去られる。
そろりと起き上がり、そろりと歩んだ。久しぶりに軽功を使い、身を軽くしたほどだ。
最上段付近のハンモックから白猫が満足そうに顔を出した。出して、金色の瞳を丸くした。
彼女の予想もしない至近距離に同居人の秀麗な顔があったのだ。
「白米。何をしているの?」
やめて! ひどい! ばか!
暴言と肉球の平手打ちを浴びながらハンモック内を捜索した。
「そうしてみつかったのがこの靴下です」
二枚、種類の違う靴下だった。
一枚は今現在温客行が履いているもの。もう一枚は朝、片割れが「生き別れボックス」に入れられた物のもう一方としれた。
まいにゃ! まいにゃ!
「白米の、じゃ、ないでしょ」
髪の黒い方の腕の中で白猫が暴れて所有を主張していた。
並んで座る白い方から靴下を奪おうと試みる。
うーむ、と周子舒がしみじみとする。
「……なんていうか、そんな事態でも、爪を出さなくて偉いな、白米」
褒めるところじゃない。
師弟は、そんな師兄のズレにきゅ、と目と口をしぶく閉じた。
「白米。どうして靴下を隠したりしたんだ? 洗濯前の靴下はばっちいだろ」
「ばっちくないよ!」
やわやわと体を撫でられて白猫はいくらか落ち着いたらしい。膨れながらもぽつりと言った。
……みゃういん。
「……ペンギン?」
まいにゃみゃういん……にゃおうぇん、みゃおにゃ!
「白米のペンギン……? ああ、これか」
靴下は両方同じブランドのものだ。ペンギンが刺繍されていた。
「ペンギンって、ペンギン? テレビの?」
みゃおにゃ!
「とってないの。ああ、でも、そういうことかぁ」
白米はテレビで動物番組を見るのが好きだ。
主にアフリカのネコ科がお気に入りだ。
数日前、たまたま入れたネイチャーチャンネルはペンギン特集だった。
最初、白米はつまらなそうだった。なに、これ? そんな目をして猫ベッドに寝そべって眺めていた。
だが、ペンギンが海中を泳ぐシーンで跳ね起きた。
ほう、と一息吐いた後、瞬きも忘れた様子で見つめていた。
「……陸地の様子とのギャップ萌えかな」
そんなことを呟いた温客行は静かに! と怒られた。シャチに追われるシーンでは、まさに手に汗握る、と言った風情でさえあった。
それから何度もねだられてペンギンの番組を見ている。
彼女は今、ペンギンに夢中だ。
まいにゃみゃういん。
言いながらじとりと温客行を睨む。温客行を、と言うより彼の持つ靴下を狙っている。
「白米」
膝の上に白猫を座らせた周子舒が穏やかに彼女の背を撫でる。
「どんなに欲しくても、人のものを取ってはだめだぞ」
猫に対しても理路整然としてるなぁ。
知己はしみじみと思う。
そして、穏やかな物言いは猫の小さな体にも染みるらしい。
白米はむっとしながらもしょんぼりとする。
「う……罪悪感が……」
「老温、負けるんじゃない」
しゃんぼりした白猫は同居人の胸に額をつけて、みゃう、と小さく鳴いた。
「偉いな。よし、偉い白米にお土産だぞ」
マウンテンパーカーのポケットから出された物に白猫は目を丸めた。
みゃういん!!
ペンギンの小さなぬいぐるみだった。
「どうしたの、それ」
「ペットショップに売ってた。猫のおもちゃ」
白猫はぬいぐるみを抱えてソファの上を転げ回っている。うにゃうにゃと言いながら、喜びが爆発している。
「もー。阿絮ばっかり良いところ持っていくよねぇ、いつも」
「なんだそれ」
「白米、靴下はもういいの?」
ふりふりと揺らされる靴下を一瞥した白米は、ふん、とそっぽを向いた。そして後ろ足で砂をかける仕草をする。
「あ、ひどい」
ふふん、と楽しそうに鼻を鳴らし、白米はぬいぐるみを温客行の膝の上に運んで行った。
「かわいいねぇ」
まいにゃ。
「はいはい。白米の、だねぇ」
神仙は二人、笑みを交わし合った。
「ありがとうね、阿絮」
「ん?」
「あのままなら、私が白米に嫌われ尽くしている所だったよ……お父さん」
「誰がお父さんだ」
パーカーを脱ぎながら周子舒は娘を愛しげに見やる。
「そのうち、本物のペンギンを見にいくか!」
ぴくりと耳をそばだてた白米が目を丸くして周子舒を見やった。
「あ」
「あ?」
これは……うっかりだなぁ。阿絮は詰めが甘いねぇ。
白猫の目はキラキラと輝き、その眩しさに周子舒はたじたじとする。
「は、白米?」
みゃむにゃ!?
「明日……では、ない……かな」
む、と途端に白猫の目がじとりと半眼された。
これは……「適当なことを言って子どもに期待させて約束を破った」って信用を失うお父さん。
むう、と怒り顔の白猫に困り顔で謝罪とご機嫌取りを繰り返す同居人を眺め、温客行はひそかに吹き出すのを堪えていた。
あにゅ、やうやうなうな!
「ごめん、ごめんな、白米。あしゅが言ったな……すまん」
みゃういん!
「ペンギンな! ペンギン……老温、動物園とかは、猫も行けるのか?」
「え……どう、かな……?」
むむむう、とさらに白猫の眉間の皺が深くなる。
みゃうな! みゃいーにゃうなうにゃ!
「え? いやいやいや、葉先輩と一緒に行く、って」
あ。
「いいもん! パパがだめならおじいちゃんに頼むもん!」だ。
うーむ、と温客行は腕組みした。
どうやら同居猫の中では、同居人よりたまに来襲する厄介な剣仙の方が頼りになるものと思われているらしい。
おもしろくない。
おもしろくないが、それ以上に。
「こらこら……だめだよ、君たち……ジジイの噂をしてはいけない。噂なんかしたら明日にも来やが」
チャイムが鳴る。
思わず真顔を見合わせる同居人をさしおいて、白猫が玄関に走っていく。
【おわり】