たべる のむ おどらない「ほお……」
隣に座る男の、その微かな感嘆の声を温客行は聞き逃さなかった。
「老温。何をずっと膨れているんだ?」
こきりと首を傾げて、周子舒は同居人の顔を伺った。
今日はひと月に一度の特別な日。
ご飯を食べる日だ。
はるか昔に六合心法で神仙になってから、ずっと二人は氷雪を食べる生活を守ってきた。規則正しく。
だが唯一、その日だけは普通の食事を楽しむ。
チートデイ、と呼ぶには不老長寿を賭けたやんちゃな日だ。
特別は温客行の大好物だ。その日のためにひと月情報を仕入れ、特別な日に相応しい特別を演出する。
本場のジェラートを食べるためだけにイタリアに行ったこともあった。話題のsushiを食べるためにわざわざアメリカを旅先に選んだこともある。
逆に「やっぱりこれだよねー」と言って、特に決まり事を設けずに地元の屋台を巡ったり。
温客行はひと月、わくわくと計画を練っている。
同居人を楽しませること、満たすこと。
それが彼の一番のたのしみなのだ。
それなのに。
なんだか機嫌が悪い。
むっすりと黙りこくり、周子舒が顔を覗き込めば、ぷくりと頬を膨らませていた。
「どうしたんだ?」
「……べつに、たいしたことじゃない」
そう言って、くるりと背を向けてキッチンに行ってしまう。
その後ろ姿を見送ってから、うーむ、と周子舒は腕を組んだ。
今日のディナーは温客行が腕を振るうと、朝に発表があった。
実は何より、周子舒はそれが好きだ。
どんなに高いコース料理より、話題のメニューより。手間暇かけて温客行が作ってくれた料理が美味しい。
「じゃあ、とっておきの酒を開けるか!」
そんなことを言ってしまうほど、好きなのだ。
「いいねー! 今日はねー……メニュー、知りたい?」
「んー、知りたい」
「教えない!」
そんなじゃれ合いをしたのが朝のこと。二人で笑って平和な始まりだった。
どこで同居人の機嫌が悪くなったのか。
周子舒はダイニングテーブルに一人残されたまま考える。すでに五缶目のビールに口をつけながら。
朝はそのまま、老温はキッチンに篭ったな。今日の掃除当番は阿絮だからね、なんて言われて……なにか壊したか?
腕組みして周子舒は記憶をたどる。
いや、粗相はしていない、と一人で頷く。
風呂掃除まで朝に終わらせたのだ。カビ取りまでした。カビ取り業務に燃えて、洗濯機の洗浄剤を試したりもした。
あ、あれか? ふと周子舒は思い出した。
「老温!」
「わ! なに!?」
料理途中の温客行を大声で呼んだ。脱衣所に。
「見てみろ……洗濯機のドラムが輝いている」
それを見せたくて。
料理の途中で呼んだのが悪かったのだろうか。
ビールを傾けながら考える。
「ほんとだぁ……汚れてるなんて思ってなかったけど、なんか、きれいになってる!?」
違うな。老温も興奮して嬉しそうだった。新品みたい! と二人で興奮して、意味もなくシーツを洗ってしまった。二人分。昨日変えたばかりだと言うのに。
「あ!」
気がついた。
シーツを乾燥機に入れたままだった! それか! それが原因か! 最後まで家事をやり切ってないから!
たん! とビールの六本目の缶を置いて慌ててパタパタと乾燥機を見に行った。
……入ったままだった。老温も忘れてたな。
気がついてよかった、と思いながらシーツを几帳面に畳んだ。自分の部屋のクローゼットに一枚をしまい、一枚は温客行のベッドに置いた。いつものように。
またもそもそとダイニングに戻り、記憶の洗い直しを続ける。
そのあとは……夜にミュージカルを見るから、それまでは買い物しよう、と出かけた。
出かける時、温客行は嬉しそうに笑った。
「どうした?」
「やっぱり、そのマフラー似合うなって、思ってさ」
先日、温客行がネットで選んだマフラーだった。
「……クマだ」
「クマだよ」
ネイビーのケーブル編みのマフラーに、ブランドのアイコンであるクマが刺繍されている。箱を開けて周子舒はきょとんとそれを見たのだった。
可愛いクマだ、と周子舒は思いながらも、これは俺がしてもいいやつか? と無言で尋ねた。周子舒は生き続ける中で一度も、ファッションに詳しくなろうと思ったことはない。それは温客行の領分と、最初から放棄している。
「ちゃんと男女兼用だよ。ついでに年齢も問わない。阿絮の服はシンプルが基本でしょ。そのくらいの面白みがあっても浮かないよ」
「そういうもんか」
「そういうもんだよ」
そんな会話をしたのだ、貰った時に。そして今日、初めてつけて外に出た。
ジーンズにグレーのダウンコート。白いスニーカーに、新しいマフラー。
「これでいいか?」
洒落者の同居人のおめがねにかなうかな? おどけて聞けば、満面の笑みが返ってきた。
「もちろん!」
うん。変な服で機嫌を損ねたわけじゃない。時々、やらかすからな……と周子舒は九本目のビールを開ける。こくこくと喉を苛めて、くはぁ! と唸る。最高だ。
ん? 飲み物……か?
はたと思い出す。
「ねー阿絮。カフェでも入らない? あそこ、雰囲気いいよ」
買い物も済まし、開演までまだ少し、時間がある。
温客行の指差す店を見て、周子舒は眉を顰めた。テラス席付きのオープンな作りの小洒落たカフェだ。客もなんとなくみんなおしゃれ、女性客が多い。
「ふ、そんなに、困った顔しないでよ」
くふくふと耐えきれぬ様子で温客行は背を丸める。
「知ってるなら、聞くな」
「だってさ」
目立つことが周子舒は好きではない。テラス席は大の苦手だ。なぜ通行人の視線を浴びながら飲み食いしなければならない。自意識過剰だろうか? でも、隠れる壁が無い時点で周子舒は落ち着かない。
女性客が多いのも苦手だ。
注目を浴びるから。
つれが。
不思議なもので、どんな時代でも温客行は美男子だ。服装も、流行り廃りも移り変わると言うのに、だ。いや、あなたも……と温客行は言うが、茶化すな、と周子舒は真面目に首を振る。
「……まぁ、なんていうか、時代が変わってもさ、その時に流行ってる服装にそって、眉や髪型を整えて、清潔感に気をつければ……大概、溶け込めるよね」
馬鹿を言うな正気かそんなわけないだろうそれだけで美男子になるなら誰も苦労しないし多くの人間に蹴られまくるぞお前はその覚悟があるのか馬鹿野郎。
心中で早口で罵ったが、ほおん、とよくわからない返事をして周子舒は頷いておいた。
結局カフェには入らず、劇場に早めに向かった。近くに公園があり、ベンチで道すがら買ったホットドリンクを開けた。
「美味いか?」
「んー……これはまずい!」
温客行の返事に周子舒はげらげら笑った。周子舒は無難にブラックコーヒーを買ったが、なにこれ! 気になる! そう言って温客行が選んだのは「メロンショコラモカ生姜入りホット!」という、珍妙な一品だった。
買った責任でほとんどを温客行が飲み、周子舒も少し手伝い。ブラックコーヒーで口直しして二人で笑った。
「なんだよ。どこまでも平和じゃねーか」
カフェに付き合わなかったのが原因とも思えない。
周子舒はむっすりと十三本目のビールの缶を潰した。
その後のミュージカルは評判通りに良かったし。
「なんであいつは不機嫌なんだ?」
腕を組んでまた考える。考えるうちに、だんだん腹が立ってきた。
「まったく、わからん!」
十四缶目を半分ほど一気に飲み、テーブルに置いた。ふらりと立ち上がる。
目が座っている。
歩みかけ、気を取り直してビールを持ち、くぴくぴと飲みながら歩を進める。
「らおうぇん!!」
「わ! なに!? 阿絮、あ! それ何本目なの!? 普段飲まないからビールでも酔いやすいのに!」
「らんで」
「え!?」
「らんでおこってるん、だっ! いってみなさい!」
「……阿絮?」
いいなさいよぉ。いいなさいよぉ。
歌でも歌うように周子舒は繰り返す。ゆらゆらと揺れる。なんだか楽しそうに見える。温客行の眉間がむっとした。
「阿絮が悪いんでしょ!?」
「やっぱりおれか! すまんな! なんでだ!?」
いいなさいよぉ。いいなさいよぉ。
また周子舒は囀る。
「阿絮が」
「おれが!」
「ほめた」
「ほめたか! すまんな! なに?」
「ダンサーの背中を褒めたっ」
おおぉ。唸り声をあげて周子舒は満足げに頷いた。理由がわかって嬉しかったのだ。
嬉しかったが、理由はわからんな、と気がついた。
「なんて?」
「最後のさぁ!」
「さいごな! さいご」
「ジーザスがさ!」
「じーざす!」
「磔になったでしょ!」
「なったなぁ! なった。なった」
「その、一番ラストのシーンで、こう、真っ暗なステージで、ジーザスにだけライトが当たってさ!」
「ほほう。さいごなぁ!」
こう! こう!
温客行は言いながら周子舒に背中を向けて両腕を広げる。
「ライトが全部消える前の一瞬、すごく綺麗だったでしょ! 肉体美っていうか、ダンサーの細すぎない筋肉がしまった体でさ! 背中が綺麗だった!」
おぉぉう。こくこくと周子舒は頷いた。確かに記憶がある。
へー、こういうストーリーなんだなぁ、となんの前知識もなく初めて見たミュージカルだった。観劇の経験さえそこまで多くない。ずっと見てみたかったんだ。そう言う同居人に付き合っただけのことだ。案外面白いものだなぁ、と呑気に見ていた。
そして件のラストシーン。
確かに、美しかった。
ラストシーンに向けて静まり返る会場内で、一斉にほわりと歓声が上がるほどに。
「ほお、って阿絮が言った! なんか、なんかそれが」
そこまで言って、温客行は俯いてしまった。
周子舒は首を捻って続きを待つが、その後がない。再現VTRのために背中も向けられていたので、表情がまったく見えない。
ぐびぐびとビールを飲み干し、シンクに缶を置く。とことこと歩んで前に回り込み、温客行の顔を覗き込んだ。
「……私、かっこわるい……」
呟く温客行の顔が真っ赤だった。両手でそれを覆って隠してしまう。
「かっこわるいのも、いいとおもうぞぉ、あしゅわぁ!」
周子舒がくふくふと笑いながら言う。
「……うるさいよ、よっぱらい。もう! どうするの!? そんなに酔っちゃって。ごはん」
「たべるにきまってるだよぉ! はらぺこ、だっ!」
言いながら周子舒はぎゅっと温客行を抱きしめた。抱きしめて、ぺたぺたと背中を探る。
「らおうぇのせなかもわるくない!」
「悪くない!? やめてよ! 私だけを絶賛してよ!」
おおぅ。そうか、そうかと周子舒は頷く。
「らおうぇ、きょうは、なにたべる?」
「餃子」
「いいな! やいてくれーたくさん! にて? たべる! たべる! おまえはぁ、ぬいでせなかをみせてみろ!」
「えっっ!? いやだよ!」
「なんでだよぉ。みせろよぉ。そうだ! ぬいでやけばいい!」
ぐいぐいと温客行のセーターを脱がそうとする。
「やめてよ! 油が飛んだら熱いでしょ!」
「がまんしろよぉぉ。あしゅもぬぐからぁ! きょうははだかぎょうざだっ」
「は!? なに、その謎の儀式!?」
なにそれ!
温客行の怪訝な叫び声を聞いて、耐えきれない様子で周子舒は笑い出した。
やがて温客行もつられて笑い出した。
「はー、馬鹿みたい」
「ばかもいいだろぉ。ばかでもはだかでもよっぱらいでも! あしゅだぞ!」
「阿絮だねぇ。阿絮だからしかたない」
「しかたない、なぁ!」
はだかぎょうざをした。
【おわりっ】