「…どうしよう」
「…どうしましょうねえ」
TAKE TWOの重いドアの前。私たち二人はバケツをひっくり返したような雨を降らしている空を、呆然と見上げていた。
※※※
練習の終わったTAKE TWOの中で、沢辺くんはピアノの演奏を続けていた。その後ろのカウンターで、JASSのマネージャーである私もまた、パソコンを開き黙々と授業の課題を消化していた。いつからだっただろうか、沢辺くんにアルバイトがない日や、まだ時間の余裕のある時。私たちは宮本くん、玉田くんの去ったあとのTAKE TWOの店内で、沢辺くんはピアノ、私は課題をすることが習慣になっていた。
沢辺くんは今、ピアノの練習というよりは作曲の方をしているようだった。時々ブツブツと何かを呟きながら、譜面台に乗った楽譜に鉛筆で書き込んでいる。その様子を私は無意識に眺めてしまっていたのか、こっちを向いた沢辺くんに「何か?」と聞かれてしまい、思わず頭を振る。彼はふーん、と小さく言って、またピアノに向き合った。
私は、沢辺くんが好きだ。だから、というのが不純なことと私もわかっているけど、同級生である玉田くんからの、マネージャーをやって欲しい、というお願いも聞き入れたのだ。でも、彼がモテることなんて最初から分かっていた。彼は女の子が理由で練習を休むことなんて全くないけれど、でも、彼からはいつも異性の気配がしている……だから私は、この好意はずっと隠されたままでいいと思っている。もし付き合った後に、好きな人に傷つけられるなんて、嫌に決まっている。
視界の端で沢辺くんが大きく伸びをする。もともと体が大きいから、さらに大きく見えた。私はそれに彼の作業の終わりを感じて、書きかけの課題を保存してパソコンを閉じた。それに気付いたのか、彼が「あ、終わった感じ?」と私に問いかける。
「うん、全然終わった」
本当は、そんなことないんだけどね。
そして最初に戻る。私たちがお店を出ると――外はざんざん降りだった。
「沢辺くん、傘って…持ってる?」
「持ってません」
「うん…荷物少ないもんね…」
いや、確かに私は傘を持っている。でも問題はここに今、一本しか傘がないと言うことだ。もし、私が仮に傘のない沢辺くんを置いてさっさと帰ってしまったら、それは問題だ。だからと言って、私たちはこの店で雨が止むまで待てるほど暇ではない――そうしたら、解決策は…解決策は……
「相合傘、する?」
最悪なことに、彼から答えが出てしまった。そう、私たちはこの小さい折り畳み傘を、二人で共有するしか道はないのだ。私に相合傘を打診する沢辺くんは妙に嬉しそうで、私はその様子に罪悪感すら覚えてしまう。たぶん、彼はとっくに私からの好意になんて、気付いているのだと思う。だから、相合傘なんてこんなに嬉しそうに言うのだ。からかわれているのも確かなのだけど、同時にこれはある種の気遣いなんじゃないかとも思ってしまう。「そう、自分のこと好きなんだ。じゃあ多少はサービスしてやるよ」的な。
とはいえ、その「サービス」に関係なく、私たちは早く帰るために傘を共有しなければいけない。私は渋々、自分の浮かれた花柄の傘を沢辺くんに渡した。
…雨で濡れた道を歩く。スニーカーに雨水が染み込んでくるけど、正直それどころじゃない。狭い傘の中では、どうしても隣の沢辺くんに体が時折ぶつかってしまって、その度に心臓が跳ね上がりそうになる。私はそれを悟られないようにするのに必死だった。
沢辺くんは、そんなこと一切知らないという様子、もしくは気付いてあげていないよ、という様子で私の隣を歩いている――その様子に、憎しみすら感じるほどだった。
どうしてなんだろう。いくら好意に慣れていても、隣を歩く人間の、渦巻くような恋情なんていつでも否定できるのに…どうして、沢辺くんは否定してくれないんだろう…そうやって私の心は靴の中のようにぐちゃぐちゃになっていく。
私たちは駅への道を進んでいく。時間帯のせいか、駅に近付くにつれてどんどん人が増えてきた。
「ひと、おおいね…」
私はそうぽつりと呟いた。沢辺くんはああ、と短く答えようとしたけど、急に何かに気付いて私の肩を思いっきり引き寄せた。
「…っ!、!?」
私が思わず叫びそうになっていると、彼はちょっとため息をつきながら、言った。
「自転車。危ないって」
「あっ…ごめん」
私はなんとかそう答える。でも、心臓はもうばくばくで、顔もきっと赤くなってしまっていたに違いない。
――沢辺くんが、私を触った…大きな手がぐっと私の体に一瞬食いこんだ…私を心配してくれた…手が大きくて、指の力が強かった……
そうやってまたぐちゃぐちゃの心のままで私がいると、私たちはいつの間にか、駅に降りる階段の前にいた。沢辺くんがちょっとだけ傘を振ったあと、私に返した。
「何線だったっけ?ああ…あっちか」
「あっ、うん。そう」
そうとだけ言って、彼はさっさと通路の中に消えてしまった。
傘の柄にはまだ、彼の手のひらの温もりが残ってしまっていた。