「あれ。どこ行くの?」
「えっと…あの、委員会」
私がそう言って机に置いてあった鞄を取ると、さっきまで話していた友人たちが顔を寄せ合って何かひそひそと話し始める。
(ねえ、そういや委員会一緒なのって)
(そう!あの沢辺、あいつ!)
二人はくすくすと笑いながらそんなことを話している。ねえ、聞こえてるよ、と言っても良かったけど、それにさらに反応されるのは嫌だった。私はため息をつきながら教室を出る。
高校2年生に進級した私は、学期始まりのくじ引きで図書委員に任命された。それは別に嫌なことじゃない。問題は私と組むことになったもう一人の生徒が、あの沢辺雪祈ということだ。
沢辺くんは色んな意味で普通の生徒じゃない。ものすごくピアノがうまくて、しかもとても大人びていて、顔立ちが綺麗だ。そんな生徒が学年にいたら、女子は放っておかないし、男子だって彼を話題にする。その沢辺くんと一緒に図書委員をしなければいけない私が委員会の度に、一体どれだけいらない苦労をしているかは察してもらえると思う。廊下を一緒に歩けばすれ違った女子にひそひそと何か噂されるし、私が友達に何気なく委員会の話を振ると、返ってくるのは「そういやあの沢辺雪祈と委員会、一緒なんだよね?」みたいな質問だ。
…私は、もっと目立たずに学校生活を送りたかった。そんなことを思いながら、私は音楽室に繋がる階段を重い足取りで登っていった。
音楽室に近づくにつれて、少しずつピアノの音が大きくなってくる。その音さえ私を憂鬱にさせた。私が沢辺くんのことを苦手なのは、彼といると噂されるからだけじゃない。彼は人生の全てをピアノにつぎ込んでいるようで、ピアノ以外のことや、それに支障が出るようなことをするとき、ものすごくうんざりとした雰囲気になるのだ。正直、最初に沢辺くんと図書委員の仕事をした時、彼があまりにも非協力的な上に不機嫌で、私はもう少しで泣きそうになった。
それに彼のピアノへの姿勢を見ていると、なんだか自分には…彼のように夢中になれることが何もないのを恥ずかしく感じるのだ。沢辺くんは私と同い年なのに、もう何のために生きていくか決めている。私はそんなのも何にもなくて、ただ、なんとなくで人生を送っている。そのことを彼といると突きつけられるようで、いつもほんの少し、苦しい。
音楽室のドアを叩いた後、開けて入る。沢辺くんが一心不乱にピアノを弾いている。…実を言うと、彼のことは苦手だし、聴いてて急に劣等感に包まれることもあるけど、彼のピアノ自体は純粋に好きだと感じる。初めて聞いた時、全然音楽の素人の私でさえ、なんて上手なんだろうと思ったのだ。だから私はいつも音楽室に入った後、気付かない沢辺くんをいいことに毎回少しだけ彼のピアノを聴く。音楽室の中に、沢辺くんの出す音が満ち満ちて、それに呑まれそうな感覚に少しだけなっていく…あっダメだ、時間、あんまりないんだった。
「あの、沢辺くん」
私はピアノに負けないようにできるだけ、でも彼を不機嫌にさせない程度の大きな声で呼びかける。音楽室にさっきまで満ちていた、沢辺くんの手によって並べられてた整然として、綺麗な音たちが途切れる。私はそれに何か悪いことをした気持ちになった。
中断させられた彼は、私を見てため息を吐いてから、口を開いた。
「あー。図書委員?」
「…うん、」
「分かったって…何時から?」
私が時間を伝えると、彼は音楽室の壁掛け時計をチラリと見て、またため息を吐いた。その様子に私もため息をつきたくなる。彼は渋々と言う様子でピアノの前から立ち上がり、私の方に歩いてきた。そして無愛想に行くよ、とだけ言って音楽室のドアから廊下に出ていった。
図書委員の仕事は案外すぐ終わった。この日は返ってきた本の整理くらいしか仕事がなくて、すぐに司書さんに終わっていいよ、と言ってもらえた。
私は、沢辺くんをピアノから引き剥がす、この私にとっても苦痛な時間がさっさと終わったことが嬉しくて、思わず笑顔になりそうになるのを抑えた。私は図書室のソファに置いてあった鞄を引っ張り上げて、帰ろうとした。
「…聴いてかないわけ」
「えっ?」
「ピアノ、聴いてかないの」
彼はあくまでごく普通のことにようにそう言った。…バレていた。沢辺くんは私が音楽室でこっそり彼のピアノを聴いていること、気付いていないと思っていたのに、本当は私のことをしっかり承知で弾いていたのだ。私は思わず恥ずかしさで頬が赤くなりそうになる。
「で、どうしたいの」
「そ、その…私、全然音楽とか、わかんないよ」
「あっそ。でもオレのピアノ、好きなんじゃないの」
そう言われたらうまく返せない。それは確かに事実で、私は彼のピアノならずっと聴いていてもいいとすら思う。私が彼に感じる苦手意識や、妙な劣等感はしっかり存在するのに、それを打ち消すくらい、沢辺くんのピアノはすごいんだと思う。
でも、と思う。私はいつも普通の学校生活を送りたいと思っていて、その中には学校で人気の男子のピアノを二人っきりで聴くなんて大胆なことは含まれない。どうしよう…断ろうか。でも…これを逃したらもう彼が私に聴いていかないの?と問いかけることは、決してないのかもしれない。そう思うと私は首を横に振れなくて、彼に「うん…聴いてく」と答えてしまった。
沢辺くんは少し嬉しそうだった。その証拠に、彼は口の端をちょっとだけ引き上げて、笑った。
(あっ…)
そこで私は気付いた。沢辺くんが笑った顔なんて初めて見たな、と。
沢辺くんが笑った。私はそのことだけでも、彼の演奏を聴く決心をして、良かったなと思った。