朝、目覚まし時計より早く目が覚めると、窓から差し込む光で室内に舞う埃が見えた。ベッドから這い出して窓を開ければ、窓の向こう側は手入れのされていない庭木が見える。それでも、埃っぽい空気が少しマシになったように感じる。
ルームメイトを起こさぬように、タオルと歯ブラシを持ったボクは、ハーツラビュル本館2階にある洗面室に向かった。
昨日は精神的に疲れていたのもあってあまり良く見ていなかった洗面室は、まるで小人になって野原に放おり出されたかのような気分になる内容だった。花の中央に埋め込まれた鏡を見れば、なんだかひどい顔をしたボクが映っている。まだ幼かった頃、お母様に言いつけられた範囲まで進めることが出来ず、深夜まで参考書を解いていたあの頃も、翌朝よくこんな顔になっていた。
これではいけないと、しっかり顔を洗い、部屋に戻れは身の回りの掃除だ。生活魔法は幼少期より気絶するまで繰り返し体に叩き込んだ、音を立てず、そっと掃除するなど造作もない。そよ風がダンスをし、室内の埃をそっと風のヴェールで包むように包み込む。ずいぶんホコリが溜まっていたのか、備え付けのゴミ箱を半分ほど埋めてしまった。
次は身だしなみだ。髪にほんの少しついた寝癖はしっかりと撫でつけてきたし、シャツにはいつものようにアイロンを掛けた。うん、やっぱりピシリとしたシャツに腕を通すのは気分がいい。
次は、朝食の始まる時間まで、お母様が指定された範囲の勉強だ。すでに3年生で習う部分も終りが見え、これが終われば、1年、2年と再度復習しつつ、大学で学ぶ範囲の勉強が始まる。きっとお母様がしっかりと組まれた予定表が送られてくるだろう。重ねて明日から授業も始まる、気を抜かないようにしなければならない。
ボクが朝の勉強を終えれば、ルームメイトの大きなあくびが聞こえた。
「ふわぁぁぁ……おはよう。あれ、なんか昨日と空気が違うな」
「ほんとだ……なんでだ??」
ルームメイト3人のうち1人が、先に起きていたボクをちらりと見た。
「もしかして、おまえがやってくれたの?」
「お前とは、失礼な呼び方だね。ボクにはリドル・ローズハートという名前があるんだけれど」
「ごめん! でも掃除してる音とかしなかったけど……もしかして魔法使ったのか?」
「そうだよ、実践魔法は全般得意なんだ、埃を集める程度だけれど、それだけでもだいぶマシにはなったね」
「お前、ものすごく真面目だな」と、ルームメイトたちはカラカラと笑っていた。
朝早く起きて掃除や身支度、朝の勉強までしたボクにそう言ったルームメイトは、ボクにならって顔を洗いに行くよとゾロゾロと部屋を出た。
ボクの方は、もうすぐ食堂が開く時間だと食事に向かうことにした。
明るい日の下で見ればさらに酷いハーツラビュルの寮を後にし、鏡舎を出たその時だ。
「そこの君、ちょっといいか?」
「はい、何でしょうか?」と呼び止められた声に振り返れば、そこには背の高い、見るからに上級生と分かる出で立ちの男が立っていた。上級生がボクに何の用なんだと顔を見上げれば、アイビーグリーンの髪と、マスタードカラーの瞳になんだか懐かしさが込み上げる。見覚えのあるその顔は、6年前に一瞬、ほんの少しの時を過ごした彼のものだ。
そう、6年経っても決して忘れない彼は……
「もしかして、トレイなのかい!?」
「あぁ! やっぱりリドルだ!! 本当に久しぶりだな」
ボクが彼の名を呼べば、人違いじゃなかったことと、ボクがトレイを覚えていたことにホッと安堵した彼は、昔の面影のある表情で微笑んだ。
「キミがナイトレイブンカレッジにいるなんて、思いもよらなかった……チェーニャも元気にしてる?」
「あぁ、あいつは今、ロイヤルソードアカデミーにいるんだ。今度の休みにでも3人で会おう、あいつもリドルの顔を見たら喜ぶよ」
彼——トレイ・クローバーと、アルチェーミ・アルチェーミエヴィチ・ビンカー——チェーニャとは、ボクが8歳の時、まだボクの部屋が裏庭に面した1階にあった時、お母様に与えられた自習中、こっそり庭に忍び込んだ2人と一緒に部屋を抜け出して遊ぶようになった。
それは、本当に短い瞬間で……同時にきっと、2人にとって深い傷になってしまっただろう別れ……けれどもボクの記憶の中でお母様以外にここまで深く、記憶にあるのはこの2人だけだ。ボクの友人……失ってしまったと思っていた友がこうして再会を喜んでくれる姿は純粋に嬉しい。
こうしてトレイと6年ぶりの再会を喜び合っていると、トレイの後ろ、オレンジの前髪を後ろに上げた上級生と目が合う。リーフグリーンの少し垂れた目尻のその人は、ボクと目が合うとニコリと笑った。
「トレイくん、トレイくん! そろそろ、けーくんにも紹介してくれないかな?」
「ああ、すまないケイト! リドル、あいつは俺の1年からのルームメイトでケイト・ダイヤモンドだ」
トレイから紹介されたケイト・ダイヤモンド先輩は、明るく人懐っこそうな表情でニコリと笑い、ボクの目の前に手を差し出した。
「はじめましてケイト・ダイヤモンド先輩、リドル・ローズハートです」
「うん! よろしく!! うわぁ〜、リドルちゃんってば、近くで見てもホントかわいいね!」
よろしく、かわいいと言いながら、ボクと握手を交わす先輩の言う“かわいい”という言葉に、ボクは目を大きく見開く。かわいいだなんて、まるで小さな子供に対しての表現だ。馬鹿にされているのかとも思ったが、トレイの友人が人を馬鹿にして楽しむような性格をしているとは思えない。こんなボクの気持ちを瞬時に察したのか、ケイト先輩は困った表情を浮かべる。
「あ、ゴメンね! もしかしてかわいいって言われるの嫌だった?」
「いえ……ハーツラビュルでは、上級生の方だ他の言葉が“ルール”なんですよね? でしたらボクに、反論する権利はありません」
きっぱり言い放てば、2人はなんだか難しい表情をしている。ボクは何か、ルールに反した事を口にしてしまったんだろうか?
「まぁいい、リドルもしよかったら、3人で朝飯を食いにいかないか? 久しぶりで話したいこともたくさんあるし」
「オレも、リドルちゃんの話し、色々聞きたいな!」
2人が朝食に誘ってくれて、ボクはなんだか胸がじんわりと嬉しさに包まれた。
今までずっと、食事はお母様と2人だけだった。そのお母様も、ボクがミドルスクールに入ってからは、朝早くから仕事に向かわれたり、午後診や当直勤務で夜居られないこともあり、ダイニングテーブルで1人だけで食事する事が多かった。
ナイトレイブンカレッジに来て、こうして懐かしい友人と再会し、彼や彼の友人と一緒に食事ができるなんて……1人で食事するあの物悲しさを知っているボクは、この誘いが本当に嬉しかった。
「うん! ぜひともご一緒させておくれ!!」
そう言ったボクの顔を見た2人は、一瞬驚いて、そして嬉しそうに「喜んで!」と返事した。