アズールを背中に背負いながら、ボクは足早に薄暗い廊下を進んだ。
ここに連れられてきてから……いや、あのダーハム・グレイソンが家に来たときから、あまりにも状況が目まぐるしく変わり、ずっと悪夢を見ているんじゃないかって、そんな気さえしてしまう。
本当のボクは、リビングのソファーでうたた寝をしてしまって、そこで今見ている夢なんじゃ……
なら早く夢から覚めて、夕食の準備をしなきゃならない。アズールにフロイド、子供たちやフェデーレさんやジュリオ、リーチファミリーの護衛の人たちの分も料理を作って、みんなに食べてもらって……おいしいって、喜ぶ皆の笑顔が見たい。
そんな事を考えていると、足がもつれて地面に盛大に転んでしまった。
「かあさん!? ダイジョウブかあさん!??」
「ケガしてない? イタイところない??」
駆け寄って安否を気遣ってくれるアスターとサミュエルに「大丈夫だよ」と安心させようと微笑むが、上手く笑えていなかったのか、二人がさらに心配そうな表情になる。
……そうだ、現実逃避をしている場合じゃない。ボクは早くフレドたちと合流しなければならない。合流して、二人を安全な場所に連れ出してもらい、アズールの治療や、怪我をしたフロイドを探しに行かなくてはならない。
「アズール、転んでしまってごめん、さぁ行こう」
アズールを背負い直そうとするも、ピクリとも動かないアズールにゾッと血の気が引いた。口元に手を近づけ呼吸を確認するも、それもない。胸元に手を置けば、心臓の音すら感じなかった。
「アズール……ねぇ、アズール……目を覚まして、お願いだから……!」
体を揺さぶって目を開けてくれと声を掛けるも、だらりとした体からは何の反応もかえらない。
急いで心臓マッサージを繰り返し、口から息を吹き込む。一分、二分とそれを続けて、どうにか帰って来てくれと祈るように必死に呼びかけ数度目、意識の無いアズールの口元から血がたらりと溢れ垂れた。
あの時、ダーハム・グレイソンの持った銃口より飛び出たエネルギーの塊をまともに浴びた彼の内蔵を皮膚越しに触ると、それだけで臓器の損傷の深さが分かる。
どうしてこんな事になった?
幼く愚かなボクが、呪石を知らずに拾って、願ってしまったせい?
男でありながらフロイドを好きになって、彼を呪石で操ったから?
周りに堕ろすように言われても、受け入れられず。アズールと契約してでも彼らを産みたいと願ってしまったから?
色んな人を巻き込んで、守られることに安心しきって、そして……欲張りになっていったボクが、アスターとサミュエルと一緒にいる幸せ以上を望んだ。アズールとフロイド……二人とずっと一緒にいたいと、そう願ってしまった。
二人のことを、愛してしまったから——!!!
呪石に願う力が、ボクの欲のせいで削がれ。それが今、この最悪な状況を作り出した。悔やんでも悔やみきれない状況に打ちのめされたボクは、体から力が抜け、震える手で顔を覆った。
「かあさん! はやくにげなきゃ!!」
「あいつらがきちゃうよ!!」
アスターとサミュエルの焦る声が聞こえる。ボクの服をひっぱり、どうにか立たせようと必死だ。
そうだ、逃げなければいけない。なのにどうして、体に力が入らないんだ……!?
「「かあさんッ!!!」」
ひときわ強く、二人がボクを呼んだ。
同時に響く銃声に、ボクの目の前……アスターとサミュエルが折り重なって倒れている。
じわりと服に染み出る赤い色に、ボクの呼吸が早くなる。
「何をしてるんだ貴様!?」
駆けつけたダーハム・グレイソンが、発砲した警備兵を殴りつけ、なぜ撃ったんだと怒鳴り散らし、慌てた声で医療班を呼び、絶対に死なせるなと喚いている。
しぬ? 誰が??
まるでボクをかばうように、折り重なったアスターとサミュエル。二人を中心にじわじわと広がるその赤が、二人の体から漏れ出た命だと……そう理解したボクの喉が、ヒュッと音を立てた。バクバクと大きく鳴る心臓の音が聴覚を埋め尽くしそして——
ボクの頭上空高く、赤いインクがボクめがけて降り注がれた。
* * *
「父さん、それはなんですか?」
珊瑚の海を仕切るギャングスターが、母さんの前以外では見せないような顔で、真っ白い便箋に書かれた文字を目で追って、クスリと笑顔を見せた。
正直、自分の父親ながらその顔は気持ちが悪いと思ったら、どうやら口に出ていたようで、父さんはいつものように目を吊り上げて、下唇を突き出し「ぶん殴んぞ」とひと言、そのドスの利いた声に、「こんなにも可愛い息子に……ヒドイ!」と嘘泣きをすれば、いつものように舌打ちが返る。
「リドル・ローズハートからの招待状だ」
「リドルさんから?」
父さんが手渡したその便箋を受け取り、ナイトレイブンカレッジで二年弱隣で見たお手本のような字で綴られた手紙には、ディナーのお誘いだったようだ。ご丁寧にあの子供たちに描かせたイラスト付きの招待チケットまで三枚入っている、宛名は父さんと母さん、そして僕の分まで用意されていた。
「今度飯でも食いに来いってたけど、まさかこんな招待状まで手作りして、ホント、変わったやつだな」
この父親は、自分の番とファミリー以外に興味を持たない人だった。その人に、こんな顔をさせるなんて、リドルさんは天性の〝人魚たらし〟なのかもしれない。
「スケジュールの方、調整しておきましょうか?」
「あぁ、任せた」
あんなにもリドルさんには『俺はまだジジィになるつもりはねぇ』とカッコつけて言っていたくせに、既に媳婦に甘い父さんは、きっとあと数回会えば、あの子供たちにとって立派な〝おじいちゃん〟になっているかもしれない。
そんな父さんの姿を想像して思わず吹き出すと、急にドンッ! と、地面が突き上げた。
「!?」
「地震か!?」
縦揺れの地震に、テーブルの上の小物や、部屋を飾る調度品が次々に床に落ちて、時間にして一分弱で揺れは収まった。
陽光の国には、英雄の国と陽光の国を隔てるように一二〇〇キロメートルに渡り半島を横貫する山岳地帯があった。その中のひとつに確か休火山があったはずだ。それが噴火したような、それほどの揺れだった。
ポケットからスマートフォンを取り出しマジカメのタイムラインから情報を探れば、一枚の写真を皮切りに、同じ様な写真が次々にアップされる。
急いで壁掛けの大型テレビのスイッチを入れれば、陽光の国の国営放送局が、社屋の屋上から緊急ニュースと称した映像が映し出されている。
——ただいま、番組を変更しまして、今起きた地震に関係するニュースをお伝えしております。今起きました地震ですが、原因はプレートのひずみによる地震や、休火山の噴火ではありません。わたくしの背後にある山々を御覧ください!
カメラがズームされ、ニュースキャスターの背後、大きく抉れた山が映る。
——この様に何らかしらの衝撃で、山が内部より吹き飛んだ振動で地震が起こったものかと思われます。
現状を説明するニュースキャスターの指差す方に、一本のはしごが架かる。それはどんどん長くなり、「なんだよこれ」と呟くカメラマンがさらにズームすれば、その梯子が首のない人の体であることが発覚する。
その階段を、黒と赤に彩られたドレスを纏い、真っ白い肌をした赤い髪の長い女が登っていく。僕には、その女性——いや、彼が何者か分かってしまった。
「おい……ジェイド、これって」
テレビを見つめる父さんが指差す先に、あの赤毛を取り戻し、その髪を長く長く伸ばしたリドルさんの、オーバーブロットした姿が映し出されていた。
この事件は後に、今世紀最悪のオーバーブロットによる大量虐殺として歴史書に記されることとなる。
血の女王——
薔薇の断頭台——
呪われたリドル・ローズハート……
それが、彼がたどり着いた、リドル・ローズハートの終焉だった。