アズールと共に部屋に戻されたボクは、ベッドの縁に座り、ぐちゃぐちゃになった頭をどうすることも出来ず、ただ床を睨みつけていた。そんなボクの視界に、この施設で配給されたサンダルを履いたアズールのつま先が見え顔を上げると、ボクを心配する彼の顔に見下ろされた。
「どうしてあんな事を言ったんです。あの男にとっては、自分がこうと決めたことに関して全て決定事項なんです。それに逆らえば、以前のように強引にリドルさんを追い詰める行動に出るにきまってる」
「そうだね……そのとおりだと思う」
先ほど、サインするか考えれば良いと言ったダーハム・グレイソンの表情は、口元に大きくシワを作り極端な笑みを浮かべていた。あの男のああいう部分は、この世のものでない、まるで亡霊のようにさえ見える。ただ欲望だけを詰め込まれた、そのためだけの亡霊……その亡霊は残酷で、自分の目的のためならボクたちを殺してでも欲しいものを奪おうとするだろう。
あの男にとって、ボクもアズールも研究のための素材——モルモットでしかない。それこそ、逃げられないようにするために手足をもぎ取って、奴らにとって永続的に研究の素材を提供するための孕み袋にされたっておかしくない。だから、だからこそ——
「ボクは、あんなやつにボクの子を渡したくないんだ」
「……よく考えてください。あなたは男で、呪いによって擬似的子宮を手に入れた。そんな状態で産む子供がまともな訳が無い事ぐらい、リドルさんならおわかりでしょう? 人間でも、人魚でも……ましてや人の子なのかすら怪しい存在が産まれてくる可能性のほうが高い。そんなものにこだわるより、奴らの要望通りに子供を渡し、こんな場所から一刻も早く開放されるべきなんだ。僕も、あなたも……!」
アズールの言っていることは正しい。こんな怪しい組織に囚われていれば、いつしかボクもアズールも、人ではなくなってしまうかもしれない。あの並んだ試験管や瓶に詰められ、人としての全てを失いかねない。けれど……
「この子は、呪子でも実験動物でもない……キミとボクの子だ……ボクたちの間に愛はないけれど、それでもこの子はボクたちのところにやってきてくれたんだ。なのに、死ぬために産まれてくるなんて、あまりにも酷い」
たとえ細い命であっても、せめて最後の瞬間まで側にいて抱きしめてあげたい……過去の世界でそうしてあげられなかったからこそ、この数千世界を巡ったボクの心には、それだけの決意が心にあった。
「……僕との子供……ですよ?」
「そうだね、キミとボクの子だ」
「子供も、人の形をしていないかもしれない」
「そうだね、きっとその可能性のほうが高い」
「ならッ! どうしてそこまで言えるんです!! 実際に産まれてきた子供を見て、愛せなかったらどうするんだ!? 僕との子供なんて産まなければよかったと、きっとおまえは、絶対後悔することに——」
信じられるものかと、怒りを滲ませて疑うアズールにまっすぐ、「しないよ」と「後悔なんてしない」と、ボクはアズールに今あるボクの気持ちを真正面からぶつけた。ボクはこの子を産んで愛すると、もう心に決めたんだ。
ぶつけた視線に、アズールが「信じられるか」と喉奥から声を絞り出す。視線を下げ、こうしてボクから目を逸らす時、きっとアズールの中では隠した本音で溢れかえっているのかもしれない。
未だ本心の大部分を隠す男だけれど、まずはボクがこの彼に対して本音を話さなければ、疑って思い込んで隠したがりのアズールは一生本音なんて言ってくれそうにない。
「……こんな場所から、簡単には逃げれないことぐらいわかっていますよね?」
部屋は四六時中監視され、逃げ道すら分からない。最初、輸送機に乗せられて連れてこられたあの場所以外、出入り口があるかもわからない。それでももう、産まれてくる子供を渡さないと決めたボクには、足掻く以外のの選択肢はなかった。
「そうだね、でも……それでもこの子のために、可能性を諦めたくないんだ」
爪が手のひらに食い込むほど固く握られたアズールの手を取り、その指を外す。こうやって何かをグッと耐える時のアズールが、ここ最近のボクにはどうしても彼を幼く見せた。
その日は結局、これ以上の本音を聞き出せないままに終わってしまったけれど、子供が出来たことでアズールとのセックスが無くなったおかげで、ボクたちは暇を紛らわせるように互いの話をする様になった。
子供の時の話から、学園や寮での話。ほんの少しずつ紐解かれるアズールの本音、まるでタルタロスでの延長のように思える会話なのに、ボクのお腹にアズールとの子がいるせいか、どこか空気が違ってみえた。
このままお腹が大きくなり、この子が産まれるまで、少しずつでもアズールと理解し合える部分が増えていけばいいと、そう考えていた矢先——
彼と眠るベッドの上で、ボクは破水した。
隣で眠るボクが、強烈な痛みでお腹を抑える姿に、驚いたアズールがシーツをめくると。眠る寸前までとは打って変わり、ボクの張り出たお腹の大きさに、すぐさまカメラに向かって職員を呼んでくれた。その呼びかけに、ものの数分で部屋に機材を持ち込んだ職員は、ボクの検査着にハサミを入れて切り脱がし身体の状態を隅々までチェックした。
本来の女性の出産とは違い、明らかに異質とされる光景は、ここの職員にとってとても良いデータだったのだろう。苦しむボクを無視し、データばかりに熱心な職員にアズールの怒号が響く。
「何をしてるんです!? 早くリドルを助けてください!!」
訴えは虚しく、部屋の隅に追いやられたアズールは、そこからずっと苦しむボクを数時間見守るしかなかった。
何度も意識が低下するボクが、それでも必死に男の身体で子を産もうとする壮絶な姿……それを数時間見守ったアズールが見たものは、ボクが今までの世界で産んだ子達と同じ、人の形が崩れた肉色の塊だった。
職員は、この産まれた子をずっと前の世界と同じく銀トレーに乗せて運び出そうとした。これは興味深い素材だとモルモットを見る目で……きっとボクの子を切り刻んでオモチャにするつもりだ。
嫌だと、この子を取り返そうとしても、指一本動かせないことに気づいたときには、心拍数の低下に、けたたましく鳴り響いた心電図モニターのアラームに研究員がまたボクを取り囲む。
ここの職員にこれ以上身体を触られるのも、ボクの子があの銀のトレーに乗せられてどこかに連れられていくのも、全部、嫌で嫌でしかたない気持ちが、ボクの胸に渦巻いた。
連れて行かないで、ボクの大切な子なんだ……お願い、だれか、だれか——助けて……とそう、この数千回繰り返した世界でも決して言わなかった言葉を、ボクは無意識に呟いていた。
きっともう声なんて出ていなかっただろう呟きは、本来なら誰に拾われることもなく、宙に消えただろう。
なのにこの時のキミだけが、そのボクの声を拾い上げた。
「これ以上僕のリドルに触るなッ!!」
怒鳴り声とともに職員に振り下ろされた拳は、簡単にボクを取り囲んだ男を殴り、蹴りつけ、ベッド脇に沈ませた。周りにいた職員も次々に鎮圧してしまったアズールは、銀トレーに乗せられた子をボクの胸に抱かせ、ボクごと抱え抱き上げ、この部屋から飛び出した。