『わりぃ。スバルが真んちの住所瀬名先輩に教えちまった』
時間を確認しようと携帯を見れば、見たかったデジタル時計よりも一番上の通知が目に入った。
『なんで衣更くんが謝るの?』
『止められなかったから、本当にすまん!』
かわいいくまが土下座しているスタンプが送られてくる。特に意味を持たない猿のスタンプを送って画面を閉じた。
どうしようか。家に確実に泉が来てしまう。だが長い間片付けも掃除もしておらず、とても泉を上げられる部屋ではない。でもきっと、追い返すのも忍びない様子でやってくる。
……せめてリビングだけでも片付けるか。そう思いながらも身体は鉛のように重く、あと10数えたら、あと30数えたら……と目を瞑って先延ばしにする。一度目を開けるともう一度スマホを見る。何やらまた真緒からメッセージが来ていたけれども、もう目が霞んできてロックを解除する気力もなかった。今は18時42分。……よし、18時45分になったら起き上がって片付けをしようと心に決めて真は目を瞑った。
ぱちりと目を開けた。随分スッキリと目が覚めたと思いながら時間を確認しようとして、携帯が振動していることに気づく。
『瀬名泉』
その文字を見て慌てて電話に出ようとした瞬間、たちまちロック画面に切り替わる。『瀬名泉 不在着信』の通知が3個ほど並んでいた。
勢いよく起き上がり玄関まで走って、チェーンをガチャガチャと外してドアを開ける。
エレベーターのある方を見ると泉が目を丸くしながらこっちを見ていた。
両手にレジ袋を持った泉が少しよろめきながら戻ってくる。
「どうしたの?」
問いかけの意味がわからずに首を傾げる。
「……電話出ないから、迷惑だったのかと思ったのに今出てきてくれたから。」
「あ、ごめんね……寝てて気づかなかったんだ」
「そう……」
目が合った瞬間、泉の目にはみるみる涙が浮かんで、頬に流れ落ちたそれはマスクに染みていった。
「顔、やつれてるよぉ……」
俯きながら震えて弱々しく泣く泉が可哀想になって、でも泣いている理由は真が慰められるものでは無い。
「ごめんね……」
とりあえず謝ることしかできなかった。泉に対して何も悪いことはしていないけれど、あまりにも長い沈黙に耐えられなかったのと、小さくなって泣いている姿が痛々しくて申し訳なくなったからだ。
ふう、と息を吐くと抜けては力まで抜けてしまって、よろけてドアに頭をぶつけた。泉が青ざめていく。真の横をすり抜けて、床にスーパーの袋を置くと真を抱きしめる。
「部屋まで連れていってあげるから早く寝て!」
少し低いところからくしゃくしゃと頭を撫でられるのが心地よくて、ここでこのまま寝てしまいたいなぁなんて思った。
「寒っ……」
そう呟いた泉に「ごめんね」と謝ると「なんでそんなに謝ってばっかりなの」と怒られる。何も考えられなくてまた「ごめんね」と謝ると、隣から「謝らないでよぉ……」なんて啜り泣きが聞こえた。
寝室につくと泉は真をベッドに寝かせ毛布をかけてから何度かぽんぽんと布団を叩いた。すぐに部屋を出ていって、少しするとパタパタと走ってくる音が聞こえる。
同じくらいの背丈の真を寝室まで連れてきたのが大変だったのか、泉は顔を真っ赤にして少し息を切らしながらテキパキと冷えピタの箱を開けた。
「ちょっとヒヤッとするよぉ」
真の前髪を優しく横に流してから、額にシートを貼る。
「ふふ、つめたぁい……」
くすくすと笑うと、泉は涙を浮かべながら困ったように笑った。
「早く元気になってねぇ……」
真の頬を両手で包んでおでこをこつん、と合わせてくる。涙を含んで少し束になった睫毛もキラキラしていて綺麗だなぁとぼんやり思う。
暫くして離れた泉が「よし」と呟くとまた布団を何度かぽんぽんと叩いた。
「キッチン借りるねぇ、おかゆとかなら食べられそう?」
「あんまり食欲ないかも……」
また新しい涙がじわりとターコイズブルーを濡らしたのが見えて慌てて「いや、やっぱりお腹すいてるかも」と付け足した。
「もう、どっちなのぉ」
そうすると安堵したように泉が笑うものだから、真も胸を撫で下ろした。
「じゃあおかゆ作ってくるからねぇ、出来たら起こしてあげるからちょっとでも寝るんだよ」
真の頭を撫でた後、少し名残惜しそうに泉は部屋を出ていった。
泉とは随分と前から疎遠になっていた。
特に何かあったわけではない。絵文字だらけのメッセージは、返事の必要が無い内容のものは
読んでそのまま何も返さずに終わっていた。
そうしたら、いつの間にか来なくなった。
SNSを見る限り元気そうで、海の向こうでの活動も軌道に乗り始めているようだった。
そこから数年経ったけれど機会がないため話もせず、テレビや雑誌、SNSでたまに見かける程度。
でも久しぶりに話した泉は、泣いてばかりであのでれでれした顔こそしないけれど相変わらずだった。
「変なの……」
目を瞑ると、制服を着たあの頃の泉が笑っているのが浮かぶ。
のそのそと起き上がると少し捲れた冷えピタを貼り直してリビングへ向かった。
「えっ?ゆうくん?」
小皿で味見をしていた泉が目を丸くしている。
「喉乾いちゃった?ごめんね、スポーツドリンク寝室に置いてけばよかったねぇ」
火を止め、しゃがんでレジ袋の中を漁る泉の近くに真もしゃがむ。
「な、なに?どうしたの?そんなに喉乾いてるの?」
「うんー……」
その言葉を聞くとすぐにペットボトルの蓋を開けて真に渡す。しかし真は受け取ったペットボトルの蓋を締め、そのまま床に置いた。
「コップとかの方が飲みやすい?」
泉は立ち上がって棚の中からちょうどいいサイズのコップを探す。真もつられたように立ちあがり、そのまま無言で泉の横に並んだ。
「……ねぇ、本当にどうしたのぉ?」
肩にもたれかかってきた真は何も喋らず、ただ泉の肩に頭を擦り付ける。
「寂しいのぉ?甘えた?」
「……違うよ」
「じゃあちゃんとお部屋で寝てて、おかゆできたら持って行ってあげるから」
「うんー……」
真は動かないどころか、寝息のような呼吸音まで聞こえてくる始末で泉はため息をついた。手を引いてソファまで連れていく。
「毛布持ってくるからここで寝てて」
寝室から戻った泉は真に毛布をかけ、暖房をつけると部屋の電気を消した。
シンクのライトがついて、またコンロの火をつける音が聞こえる。ソファの背もたれで明かりは直接目に届かず、寝るにはちょうどいい薄暗さだった。
コトコトとおかゆを煮る音に、真はまた目を閉じた。
「ゆうくん、おかゆできたよぉ」
揺すられる感覚に目を開ける。