むかしむかし 五百年前まで、この大陸は「テイワット」と呼ばれていたそうだ。巨龍が空を飛び、魔物がそこらを歩き、人々は「元素力」と呼ばれる力を操った。まるで魔法のようなその力は、今となっては伝説のような、御伽噺のような扱いを受けている。
「だーかーら、そんなのただの作り話だって」
目の前に座るこの男は、真剣に歴史書を読み漁る俺を咎めるように言った。
「人が自由に火を出したり、氷を出したりするなんて、普通に考えて有り得ないでしょ」
「でも、確かに記録は残っているんだ」
俺がなぜこれほどテイワットの歴史にこだわるのか。その理由は、幼い頃に読んだ、ある絵本にある。
その絵本の舞台はとある村で、とある英雄について語っていた。英雄は、神から授かった炎の力で悪者を倒し、民を守った。
まあ、ありきたりな御伽噺である。しかし、その絵本は、やけに生々しく彼の心を描いていた。子どもに読ませる本にしては重く、どろりとした生臭い感情を、俺は成人した今でも忘れられないでいる。
勿論、俺はその作者について調べた。しかし、その人に関する情報は見つかっていない。わかるのは、この本の作者は匿名であり、この話が書かれたのは相当昔ということだ。
俺が幼少期に読んだそれは、十回ほど改訂されたものだった。その本の過去を遡っていくと、初版はおよそ五百年前に発行されていることがわかった。ただ、その初版は入手困難であり、今現存しているのかすら不明だ。
テイワットの歴史を知るにつれて、あの英雄の力はきっと「元素力」によるものだと確信した。絵本の発行時期、神から授かった炎の力、悪者、その全てがテイワットの歴史とリンクする。
俺は、どうしてもその作者について知りたかった。だからこうして今、必死にテイワットの歴史について調べているのである。
「今日も収穫なし、か」
「いつ終わるんだよお前のそれは…卒論のテーマもそれで行くつもりか?」
「当たり前だ」
俺は立ち上がり、手の中の本を元の場所に返す。大学の中にある歴史書を数年かけて読み漁っているが、何一つ、作者についての手がかりは見つかっていない。
「相当行き詰まっているようだね」
教授は頭を抱える俺を見てそう言った。
「なかなか手がかりが見つからなくて…」
「テイワットの歴史、と言っていたね。なぜそのテーマにしたのかな」
俺はおもむろに絵本を取り出した。
「この絵本について知りたいんです。どうしても」
「おや、その絵本は私も読んだことがある。懐かしいねぇ」
俺は勢いよく顔を上げた。
「教授!この本の初版って持ってたりしませんか!」
そんな俺を見て、教授は思わず笑ったようだった。
「初版、はさすがに持っていないが、第二版なら持っているよ。入手にはとても苦労したがね。恐らく、君の読んだものとは文体も内容も若干異なるだろう。比べてみると面白いかもしれない」
教授はそう言って、ごそごそと本棚を漁り始めた。そして彼は、一冊の古い絵本を手に取る。
その表紙には、一人の男の後ろ姿が描かれていた。経年劣化により所々色落ちしているが、その男の髪が赤いことはわかる。
「…赤髪?」
俺が読んでいた絵本と異なる容姿に少し驚いた。俺の記憶にある英雄は、茶髪で黒い目をしていた。
「まあ、伝言ゲームのようなものだ。改訂を重ねる度、本というものは変化していくからね」
ぱら、と本の表紙を捲ると、そこには豊かな自然と何らかの巨大な像、赤い屋根の家、たわわに実った葡萄が繊細に描かれていた。
「…モンドだ」
「よくわかったね」
「なんでもっと早くこれを…」
涙目になった俺に向かって教授は言う。
「だって君、一度も私に聞かなかったじゃないか。この絵本を持っているかって」
そこからは早かった。俺は調査対象をモンドに絞り、これまで触れてこなかった過去の些細な出来事まで綿密に調査した。テイワットという大きな括りで調べていたのが良くなかったのか、モンドに絞った途端ボロボロと手がかりが出てきた。
赤髪、炎、モンド、英雄。そこまで絞ると、一人の人物に行き着いた。
ディルック・ラグウィンド。ワイナリーのオーナーであり、炎を操るモンドの守護者。彼についての記述は、数多の記録を読み漁ってもほんの数行しか得られなかった。しかし、それでも大きな進展である。
ラグウィンド家の経営するワイナリーは、とうの昔に無くなっていた。モンドの経済の大半を担っていたにもかかわらず、ディルック・ラグウィンドが終わらせたそうだ。ただ、そのワインを醸造する技術はモンドで受け継がれ、現在も飲むことができる。
「…行くしかない」
思い立ったらすぐ行動、である。俺は、かつてのモンド(今は異なる名で呼ばれている)を単身で訪れた。
「確か、この辺り…」
草木を掻き分けて進む。人の手を離れたそこは、雑草が生い茂る無法地帯となっていた。噂では、学生達が肝試しをする心霊スポットになっているらしい。
「おお……」
植物の蔓が張り付いた、赤い屋根の屋敷がそこにはあった。確かに、何かが出そうな雰囲気はある。中心都市から離れているからだろうか。屋敷は潰されることなく、何百年も放置されたままであることに俺は感謝した。
無秩序に広がった人の足跡がある。恐らく、その辺の学生が冷やかしにでも来たのだろう。何となくやるせない気持ちになって、俺は息をついた。
大きな屋敷は今ではこんな様子だが、当時はかなり立派なものだったのだろう。丁寧に施された装飾は、土を払えば今でも輝きそうだった。
玄関の扉に手をかけようとしたとき、心臓がばくばくと音を立てた。しかしそれに反して、その扉はギィ、と音を立ててあっさりと開く。
「広いな…」
相当裕福だったのだろう。大きなシャンデリアに、重厚なテーブルと椅子。ただ、テーブルに残されたカップは、人の生活を生々しく残していて気味が悪かった。
ぐるりと周りを見渡すと、一つの花瓶が目に入った。優雅な屋敷に似合わないそれは、一際異彩を放っていた。
「なんだこれ」
それに触れようとしたとき、すぐ側で人の気配がした。勢いよく振り返ると、そこには男が立っているではないか。俺は思わず腰を抜かして、床に尻をつく。
「ひ、い」
しかしその男は、俺には気づいていないようだった。半透明の彼は、虚ろな目で花瓶を見つめている。
『ぁ、す、な、ぃ』
何と言っているのか、全く分からない。乱れた赤髪は、より一層彼の悲壮感を強調しているように見えた。
恐らく、今の人物はディルック・ラグウィンドで間違いないだろう。しかし、彼があの絵本の主人公だとしたら、あまりにも英雄とは程遠いような気がする。
『すま、ない』
今度ははっきりと聞こえた。誰かに謝っている?何故。彼は英雄と呼ばれ、数行ほどだが後世にまで記録として残されているのに。
そうこうしていると、彼の姿は消えた。俺は詰まっていた息を吐き、尻の埃を払って立ち上がった。
無理、怖い、帰りたい。でも、ここまで来て引き返すというのは嫌だった。今まで追いかけてきたものが、すぐそこにある。
階段を上がり、一番手前の扉を開ける。書斎だろうか。棚にはぎっしりと本が並んでいる。部屋の奥には、机と椅子がぽつんと置かれていた。
巻貝だろうか、机の上に小さな貝殻が乗っている。時間から取り残されたように、その貝殻だけは埃を被っていなかった。俺は意を決してそれに触れる。するとまた、人の気配がした。
子どもだ。赤髪と青髪の子どもが、自慢げに貝殻を誰かに見せている。視線の先には、父親だろうか。赤髪の優しそうな男性が立っていた。
『僕と▋▊▉で見つけたんだよ』
赤髪の少年は言う。それに対して、青髪の少年はこう言った。
『それは、にいさんが見つけたんだよ』
それを聞いた父親は笑って、二人の頭を優しく撫でた。にこやかな、穏やかな家族のワンシーンだった。
ただ、ひとつ引っかかるのは、青髪の少年だ。父と兄は似ているが、その子は正直全く似ていない。髪の色も肌の色も、彼らとは正反対だった。
「にいさん」と呼んでいたから、兄弟ではあるのだろう。何か複雑な事情がありそうだ。
貝殻から手を離し、ここを出ようと扉に手をかける。そのとき、ゆっくりと扉がひとりでに開いた。
青年だ。青髪の青年がその瞳を揺らしながら、書斎に入ってきた。俺は半透明の彼を避け、部屋の隅に立つ。恐らく彼は、あの青髪の少年だ。数年の時が経ち、このように成長したのだろう。
そのとき、パタパタと雨が窓を叩く音がした。先程まで雨なんか降っていなかったはずなのに、外から入る光が弱まって、激しい雨が降り出したのだ。
青髪の彼が見ている方へ視線をやる。するとそこには、先程まで居なかったはずの、赤髪の彼がいた。しかし、先程花瓶に触れたときに見た彼よりも若い。十八かそこらだろうか。彼の赤い瞳にはまだ光がある。
『すまな、い。俺は…ず、っ、に、のこと、だ、ぁ、す、』
ノイズがかかったように、青髪の彼の声は聞こえない。ただ、深刻そうな顔をして、何かをディルックに告げている。
その後、ディルックが彼の胸ぐらを掴んで叫んだ。
『君は、ずっと、』
また、聞こえない。ただディルックは怒りに震え、青髪の彼はそれを見て寂しげに笑っていた。
半透明の二人は再び姿を消した。俺は書斎を出て、静かにその扉を閉める。見てはいけないものを、見てしまったような気がした。俺が見ているものは、恐らく非科学的なものだ。ここに留まった記憶のようなものが、物を拠り所にしてここで再現されている。
次の部屋に進む。また、俺は薄汚れた扉を開いた。そして、目を見張った。その部屋には、何も無かった。テーブルも、椅子も、寝台も、絨毯も、何も無かったのだ。高級感溢れる屋敷としては不自然なほど、本当に物が置かれていなかった。窓には蜘蛛の巣が張り付き、月の光は霞んで見えない。
ふ、と視線を下にずらす。そこには一つ、硝子玉のようなものが落ちていた。赤色のそれは輝きを失って濁っている。俺は膝を折り、それに触れようとした。すると、驚いたことに、火傷しそうなほどその硝子玉が熱を放ったのだ。触れるなと、これだけには触れてくれるなと、そう言われたような気がして手を引く。
すると、突然現れた半透明の手がその硝子玉を拾い上げた。顔を上げると、また、青髪の青年がそこにいた。彼は硝子玉を大事そうに胸に抱く。そしてそのままずるずるとしゃがみこんで、自身の膝に顔を埋めた。
ディルックは、どこへ行ったのだろう。今まで見た記憶の全てに彼は居たのに、今回は彼の姿が見えない。…彼は、ここを去ってしまったのだろうか。
これ以上この部屋にいても、何も進展は無さそうだ。一度下に降りよう。
俺は部屋を出て、階段を下った。かなり時間が経っていたようで、窓からは橙色の光が差し込んでいる。
結局、彼が英雄と呼ばれた所以は、未だ分かっていない。分かったのは、彼には弟がいたこと、ある日を境に彼らは決別したこと、そして彼がここを去ってしまったことだけだ。
一階の広間を、ぐるりと歩く。すると、西側の出窓が僅かに開いていることに気がついた。そこから入る風に吹かれ、手前に置かれた紙が揺れている。
──手紙だ。
筒状に丸められたそれは、風に吹かれて床に転がった。一度既に読まれているのか、落ちた拍子に結ばれていた紐が解けた。ただ、さすがにこれを読むのは気が引けた。ここまで土足で踏み込んでおいて、とは思うが、その領域には触れてはいけない気がした。
ぱち、と瞬きを一度した後、隣にはまた人影があった。慣れてしまったのか、もう驚かなかった。
ディルックだ。前回よりも成長した彼が手紙を大切そうに開く。
彼はここに戻ってきたのか。いや、わからない。俺が見ているのは記憶の破片だから、その間で何が起こったのかは不明のままだ。
ディルックは黙って手紙を読んだ後、ふわりと微かに笑った。その手紙の送り主は、言わずともわかった。きっと、弟だ。なぜなら、ここには青髪の彼がいない。そしてディルックは、恐らくこの手紙を何度も読み返している。
ここの記憶を見続けるにつれて、彼らの関係が分からなくなっていく。複雑に交差した記憶と、その間の空白が、より一層俺を混乱させていた。
屋敷の中はもう十分見ただろう。少し外を見てから帰ろう。あまり長居しすぎるのも、ここの主に失礼な気がした。
屋敷を出て、石畳の階段を下りる。とっくに日は暮れ、月が高く昇っていた。後ろを振り返り、屋敷を見上げる。暁色の屋根は、月の光を受けて鮮やかに見えた。
屋敷の門をくぐり、そこを離れる。暗い森の中、道の真ん中に、淡く光る青色の花が一輪生えていた。
──イグサだ。今ではもう見られない、絶滅した花がそこで咲いていた。俺は駆け寄り、その花弁に触れる。
風に吹かれて赤髪が揺れている。その腕の中にいるのは彼の弟で、彼らの周りは文字通り血の海だった。青髪の彼から流れるそれは止まる様子がなく、側で揺れるイグサの花を赤く染めた。彼は腹から血を流して言う。
『ありがとう、にいさん』
綺麗だったはずの青い髪は、血で固まってしまったのか風に吹かれても揺れない。彼は今にも息絶えそうだというのに、ひどく満足げだった。
はっとして周りを見渡す。彼ら二人を囲むように、何百人もの人々が立っていた。彼らの上げる声は、歓喜だ。歓声だった。
ああ、そういうことか。この赤髪の英雄は、弟にとどめを刺したのだ。絵本で登場した悪者は弟で、英雄は兄だったのだ。
バラバラになっていた点が、線となって繋がった。あの雨の日弟が告げたのは、自分が悪者だという真実なのだろう。でも、それでも、二人の間には捨てきれない情があった。だから弟は手紙を出して、兄はそれを何度も読み返していたのだ。
自分の大好きな絵本が、正義のヒーローの話だと思って読んでいた物語がこんな悲劇だったなんで誰が思うだろうか。
ぼろぼろと零れる涙が止まらない。部外者のくせに、勝手に屋敷に入って、人の記憶を覗いたくせに。
どうにかして、この二人を幸せにしてやりたかった。いや、もうこれは過去の話で、俺が何をしたって決して変わらない。それでも、この真実を知ってしまったから、その責任は果たさなければならないと思った。
半透明の彼らが消える。そこに残ったのは、水色の硝子玉だった。
俺はそれを咄嗟に掴んで、屋敷の方へ駆ける。扉を開け、階段を上がり、赤い硝子玉のあった部屋に入る。ころん、と転がっている赤色の隣に、水色のそれを添えた。
「それで、何かわかったかい?」
教授は問う。
「いいえ、特に何も」
俺はそう答えた。あの屋敷であったことは、誰にも話していない。また事実として、あの絵本の「作者」については依然不明である。
「それで、卒論の方は進みそうかね」
最初からやり直しだ。
だって、あの話を論文にするなんて、あまりにも野暮だと思うから。