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    ディルガイ
    ディの記憶喪失ネタ
    展開早すぎたのでここで供養

    全部抱えて 屋敷の外で、何やら賑やかな声がする。しばらくして、階段を駆け上がる軽やかな足音が近づいてきた。
     扉を叩く音に応え、横たわっていた寝台からゆっくりと上半身を持ち上げる。

    「大丈夫か!?ディルックの旦那!」

     パイモンはふよふよと浮かびながら、心配の色を浮かべていた。そんな彼女を見て、ディルックは困ったように眉を下げる。

    「心配をかけてすまない。本調子とは言えないが、かなり回復したよ」
    「本当にびっくりしたんだからな!なぁ、旅人!」
    「うん。ディルックが大きな怪我をするなんて珍しいね」

     旅人はそう言うと、寝台の側にある椅子に腰掛けた。

    「これ、お見舞い。ザイトゥン桃のジュース」
    「気を使わせたね。ありがとう」
    「どういたしまして」

     旅人は膝の上にパイモンを抱え、彼女の頭を軽く撫でた。

    「ガイアも心配してたんじゃない?」

     旅人の問いに、ディルックは首を傾げる。

    「…ガイア?」
    「ディルックの旦那が怪我したなんて聞いたら、『旦那の酒が飲めないなんて、俺の人生の楽しみが無くなっちまったようなもんだぜ』とか言いそうだよな!」

     パイモンは、大袈裟な物真似をして、そう言った。

    「ガイア、という人は見ていないが」

     ディルックの言葉に、旅人とパイモンは目を合わせた。

    「ディルックの旦那、悪い冗談はやめてくれよ〜」

     パイモンは、焦ったように言ったが、ディルックは困惑の表情を浮かべたままだった。

    「ディルック、ガイアのことはわかるよね?」

     旅人はディルックの肩をぐいと掴み、視線を合わせた。
     ディルックの瞳は、不自然なほど澄んでいた。

    「ガイア、という人には心当たりがない」

     旅人はそれを聞いて、弾けるように立ち上がった。

    「ごめん、ちょっと急用ができた。また来るね」

     旅人とパイモンは、風のように去っていった。一人取り残されたディルックは、口元に手を当てて考える。

     …ガイア。

     ガイアという名に、全く心当たりがなかった。旅人とパイモンの焦燥具合から、ディルックに多少近しい人物であると推察できる。しかし、記憶をいくら辿っても、引っかかるものが何一つない。
     記憶が飛んでいるのか?と考えるが、何かを忘れているという感覚は一切なかった。屋敷の者のことも、旅人のことも、かつての騎士団の同僚のことさえも思い出せた。

    ♦♦♦

     あの日、アビス教団から『闇夜の英雄』宛の脅迫状が届いた。脅迫状が届くことは決して珍しいことではなく、このような活動をしていくうえで仕方の無いことだとディルックは割り切っていた。

     いつものように、大剣を携えて夜道を進む。奔狼領周辺は魔物が多く、好んで近づく人間は一部を除いて存在しない。
     静まり返った森の中で、ざり、とブーツと砂利の擦れる音がやけに響いていた。

     突然、ディルックは鋭い殺気を感じた。ディルックは躊躇なく、後方へ炎を放つ。
     ギャっ、という悲鳴が聞こえた後、アビスの魔術師が姿を現した。

    『暇なものだな。態々手紙を寄越すとは』

     ディルックは、グローブを手に馴染ませるように、拳を数回握った。

    『闇夜の英雄、毎回邪魔をしてくれおって』
    『そのセンスのない呼び方はやめてくれ』

     ディルックはいつも通り、灼熱の炎で敵を焼き払う。次々と倒れる敵を眺めながら、軽々と宙を舞った。

    『毎回やられると思うなよ。我々だって無策でここにいる訳じゃない』

     最後の一人となった炎元素の魔術師は、ディルックを見てくすくすと笑った。その瞬間、視界を覆い尽くす程の光と爆風がディルックを襲った。思わず目を固く瞑り、転がるように受身を取る。幸運にも、直撃することは避けられたようだ。しかし、地面に勢い良く打ち付けられた身体は、嫌な音を立てた。肋の数本は折れているだろう。

     ディルックは目を開き、視線だけで周囲を確認する。炎の魔術師も、爆風に撃たれて呻き声を上げていた。ディルックと心中でもする気だったのだろうか。健気なものだ。

    『くっそ、』

     強い衝撃を受けた身体は、全く言うことを聞かなかった。ぶれる視界に舌打ちをし、ディルックは瞼を下ろす。起き上がらなくてはならないのに、意識は遠くに引っ張られていった。最後に残った聴覚だけが、遠くの足音を捉えていた。

     目が覚めたとき、見慣れた天井がディルックを迎えた。上質な寝具が、ディルックの身体を優しく包んでいる。
     意識を取り戻したディルックを見て、アデリンは瞳を揺らした。

    『無理はなさらないでください』
    『すまない、僕の不注意だ』
    『騎士団の方が見つけていなければ、本当に危なかったんですからね』

     ディルックはそれからしばらく、寝台の上での生活を余儀なくされた。

    ♦♦♦

     そんな回想をしていると、再び部屋の扉が叩かれた。入室の許可を出すと、ジンとバーバラが部屋に入ってきた。そして少し遅れて、旅人が慌てたように駆けてくる。旅人は、見慣れない青年の手を引いていた。

    「ディルック先輩、ご無事で何よりだ」
    「騎士団には迷惑をかけた。感謝する」
    「いや、騎士団というよりは、」

     ジンの言葉を遮るように、旅人の後ろにいた青年がディルックに近づいた。

    「君が、ガイアか」

     ディルックが呟くようにそう言うと、青年は一瞬動きを止めた。

    「あぁ、俺がガイアだ。本当に記憶が飛んでいるんだな、旦那様」

     ガイアはわざとらしく肩を竦める。それを見たディルックは、場違いにも彼をきれいな人だと思った。一度見れば忘れないだろう彼の風貌は、ディルックに対して記憶を失った事実を突きつけた。

    「……すまない。君のことを、何一つ思い出せないんだ」

     ディルックの言葉を聞いて、ガイアは弾けるように笑った。

    「はっは、あまり気にするな。大したことじゃない。日常生活は問題ないんだろう?」

     視線は交わっているのに、目は合っていない。ディルックは微かに違和感を覚えたが、それはすぐに脳の片隅へ追いやられてしまった。

    「大したことだ。周りの反応を見ればわかるが、君と僕は親しかったんだろう。忘れたままでいいはずがない」
    「ディルックの旦那は何を勘違いしているんだ。そんな大それた関係じゃない。俺はお前の酒場の常連だったんだ。カウンター越しに軽い冗談を交わすぐらいだったよ」

     沈黙が流れる。沈んでしまった空気を振り払うように、パイモンが声を張り上げた。

    「そっ、そうだ!しばらくの間、ガイアがディルックの旦那の近くにいればいいんじゃないか!?」

     それを聞いた旅人は、間髪入れずに頷いた。

    「いいんじゃない。何か思い出すきっかけになるかもしれないし」

     ガイアは慌てたように口を挟む。

    「いや、俺には仕事がある。ずっと旦那様の近くにいるなんて無理だ」
    「ガイア、君はずっと休みを取っていなかった。ディルック先輩の怪我が完治するまで、休んでくれて構わない」

     ジンはガイアを説得するように見つめる。

    「ほ、ほら!怪我が完治するまであと少し時間が必要ですし、近くに頼れる人がいればディルックさんも助かるのでは!」

     バーバラは祈るように両手を組んでそう言った。

    「うう…」

     ガイアは珍しく、困り果てた表情をしていた。
     黙り込んでいたディルックがようやく口を開く。

    「怪我が治るまでで構わない。側にいてくれないか」

     ディルックは、この機会を逃してたまるものかと思った。これを逃すと、一生忘れたままなのではないかと、そんな気がした。
     ディルックの真っ直ぐな願いに折れたガイアは、渋々首を縦に振った。

    「怪我が治ったら、終わりにするからな」

    ♦♦♦

     意外にも、ガイアは甲斐甲斐しくディルックの世話を焼いた。

    「あまり無理に動かないでくれよ。治るものも治らない」

     起き上がろうとするディルックの背に、ガイアは腕を回した。

    「世話をかけてすまない。君が来てくれて助かった」

     素直なディルックの感謝を、ガイアはさらりと受け流す。

    「どういたしまして。早く治るといいな」

     ガイアは、ディルックの回復を願う言葉を何度も口にした。当たり前と言えば当たり前のことだ。怪我が治ることは望ましいことで、ディルック自身もそう思っている。

     しかし、ディルックには、ガイアがディルックの側から離れたがっているように思えた。
     ガイアは、あまりディルックとの過去について語らない。まるで、ディルックが思い出すのを嫌がっている…否、怖がっているようだった。

    「僕は、君を何と呼んでいたんだ」

     ディルックは、比較的軽い質問をガイアに投げた。

    「ガイアさんと呼んでいたな。それがどうした」
    「…ガイアさん」

     噛み締めるように、ディルックはガイアの名を口に出した。

    「そう。俺は騎士団のガイアさんだ」

     そう言って、ガイアは側の椅子に足を組んで腰掛けた。

     夜空のような瞳を携えた、きれいな人。

     ディルックは、じっとガイアを見つめた。それに対して、ガイアは演技めいた動きで首を傾げる。

    「…僕は、君のことを思い出したい」
    「どうして?」
    「どうしてだろうね。でも何となく、君を忘れたままなのは、すごく嫌なんだ」
    「そうか。思い出せるといいな」

     そう言うガイアの声は、何処か他人事のようだった。

    「…君は、僕に思い出して欲しくないみたいだ」

     ディルックの言葉に、ガイアの指先が軽く震える。ガイアは、誤魔化すように笑った。

    ♦♦♦

     ディルックとガイアの生活は、凪いだ海のようにゆったりと過ぎていった。

     たわいのない話をしたり、共に食事をとったり、ガイアが屋敷にいることがごく自然で当たり前のことのようだと、ディルックは感じた。

     ディルックの身体は少しずつだが着実に回復し、今では寝台から出られるほどになっている。ただ、複雑に折れた身体の骨はそう簡単に繋がるはずもない。部屋から出るときは、ガイアに半分ほど身体を預けていた。

     ディルックが初めてガイアの身体に腕を回したとき、その薄さに驚きを隠せなかった。思わず手を引きそうになったが、ガイアは『そんなにヤワじゃないぜ。これでも騎兵隊長だ』と言ってディルックの身体を引き寄せた。

     そんな中、ディルックは少し焦りを覚えていた。身体は順調に回復する一方で、記憶は何一つ戻らないのだ。いくら側にいても、話をしても、記憶の手がかりになるものは一切なかった。
     ディルックは何度も、ガイアに過去のことを問うた。しかし、ガイアからの返答はいつも同じだった。

    『お前はアカツキワイナリーのオーナーで、俺はお前んとこの酒場の常連だった』

     きっと、それは嘘ではない。ただ、それだけが真実ではないと、ディルックは確信していた。記憶を失ったディルックに対する周りの周りの反応と、ガイアの語る話がどうも結びつかない。例えるなら、ジグゾーパズルの中心の数ピース、一番大切なところが、埋まらないような感覚だった。

     ガイアは何故、ディルックを過去から遠ざけたがるのだろう。それほど、思い出して欲しくない記憶なのだろうか。

     ガイアが過去を誤魔化すほど、ディルックはそれを知りたくなってしまう。
     耐えきれなくなったディルックは、とうとう口を開いた。

    「ガイア、久しぶりに外に出たいんだが」

     ディルックは窓の外に目をやる。太陽が葡萄畑を照らし、蝶がきらきらと舞っていた。
     ガイアはパチリと瞬きをし、少し考えてから頷く。

    「確かに、ずっと部屋の中に居たからな。でも、あまり無理はするなよ。まだお前は病人なんだ」
    「あぁ、分かっている。ただ、ずっと部屋の中にいると、気がおかしくなってしまいそうなんだ」
    「…わかった。天気は良いが、今日は冷える。少し庭を散歩したら戻ろう」

     ガイアに半身を預け、ゆっくりと屋敷の中を進む。通りかかったアデリンが、ガイアに上着を差し出した。ガイアは受け取ったそれを、ディルックの肩にかける。

    「…大袈裟だ」
    「いいや、病み上がりを舐めるなよ。久しぶりに外に出るんだ。用心するに越したことはない」

     屋敷の玄関を出ると、ひんやりとした風が頬を撫でた。鼻をくすぐる緑の匂いに、ディルックは頬を緩める。

     二人は寄り添いながらゆっくりと進んだ。たわわに実った葡萄が風を受けて揺れている。
     ディルックはふと、ガイアの方に目をやった。ガイアは懐かしむように目を細めて、どこか遠くを見ていた。

     ぱちり、とパズルのピースが埋まる。

     突然、ディルックの頭の中に、雑然とした記憶がばらばらと流れ始めた。 濁流のようなそれを、ディルックは必死で手繰り寄せる。しかし、その殆どがディルックの腕の中をすり抜けて行った。

     葡萄の匂いと、風の音。
     ガイアさん。きれいで、寂しそうな人。
     僕にとって、君は何だったのだろう。

     心臓が強く跳ねる。その痛みに、ディルックは思わず呻いた。

    「っ、は、」
    「おい、どうしたディルック」

     ガイアはディルックを支えるように、腕に力を込めた。身体を屈め、俯くディルックに視線を合わせる。

    「どこか痛むのか、早く部屋に戻ろう」

     屋敷へ足を向けようとするガイアを、ディルックは引き留めた。ディルックは、ガイアのシャツを強く握る。

    「おい、ディルック!お前に何かあったら俺は、」
    「待って、くれ」

     ディルックは、頼りない声でガイアに縋った。らしくないディルックの姿に、ガイアは思わず息を飲む。

    「もう少し、あと、少しなんだ」

     ディルックの白い額に、生温い汗が伝う。記憶の欠片に、ディルックは必死で手を伸ばし続けた。

    「ディルック、やめろ!もういい!」

     ガイアは悲鳴のような声を上げ、ディルックを腕の中に閉じ込めた。まるで、外の世界からディルックを遮断するかのように。

    「…っ、お前がそんなに苦しむぐらいの記憶なんか、要らないだろう」
    「いや、だ」
    「いい加減にしてくれ、ディルック!」
    「ぼくが、忘れてしまったら、」

     苦しくてたまらなかった。思い出すなと、脳が警鐘を鳴らしていた。
     しかし、それほど酷い記憶なら、尚更思い出さなければいけない。だって、そんな記憶を、目の前の彼一人に背負わせることになってしまう。

     視界が端から白く染まっていく。ディルックの腕が、頼りなく垂れ下がった。

    ♦♦♦

     本当に偶然だった。ガイアは夜の巡回を終えてモンド城に戻る道中で、とてつもない爆発音を耳にした。奔狼領の方から上がった煙が、真っ黒な夜空に溶けていた。
     ガイアは弾けるように駆け出し、草木を掻き分けて進んだ。

     地面に倒れ込むディルックを見つけたとき、嫌な汗がガイアの背を伝った。気を失い、力なく倒れ伏す彼は、明らかに重傷を負っていた。

     ディルックが膝を着く姿など、ガイアは考えもしなかった。項垂れる彼を見たのは、クリプス様が死んだあの日以来だった。

     ガイアは、思考を止めようとする頭を必死で動かし、ディルックの呼吸を確かめた。息があることに安心するのも束の間、ガイアはディルックの肩に腕を回して、必死に歩みを始めた。

     この奔狼領から最も近い、安全な場所。アカツキワイナリーに向かって、無我夢中で歩き続けた。

     乱暴に屋敷の扉を叩く。この際、マナーだの云々はどうだってよかった。
     ガイアとディルックを迎えたアデリンは、二人を見て目を丸くした。

    「ガイア様、一体何が、」

    「ディルックが重傷だ。時間がない。直ぐに教会から祈祷師を呼んでくる。それまで、ディルックを頼めないか」

     アデリンはそれ以上何も聞かず、ガイアの言葉に頷いた。ガイアはディルックを寝室まで運び、応急処置をメイド達に託した。

    「アデリン、馬を借りていく」

     ガイアは馬に跨り、モンド城まで駆けた。ワイナリーではかなりの古参であるこの馬は、ガイアの言うことを素直に聞いた。賢いこの馬は、きっとどこかで主の異常事態を察しているのかもしれない。

     いつも通っているはずの道が、やけに長く感じた。汗で滑りそうになる手を、必死で握りこんだ。

     あと少しでも遅ければ、ディルックは死んでいただろう。ディルックの容態が安定するまで、ガイアは気が気ではなかった。

     寝台に沈むディルックの手を握り、何度も呼吸を確かめた。彼を弔うことが、恐ろしくてたまらなかった。

     ディルックが峠を乗り越えたとき、ガイアはアデリンに一つの頼みごとをした。

    「俺がここに居たことは、ディルックに伝えないでくれ」

    ♦♦♦

     それから少し経った頃、ディルックが意識を取り戻したという連絡がアデリンから入った。
     ガイアは誰も居ない部屋で一人、安堵の息を吐いた。

     もう少し落ち着いたら、見舞いだと言って屋敷に顔を出そう。

     ガイアはそう決心し、いつも通り騎士団へ出勤した。

    「ディルック先輩は無事だろうか」

     ディルックの容態を祈祷師のバーバラから聞いていたジンは、心配の色を浮かべてそう言った。

    「どうやら目を覚ましたらしいぜ。屋敷の人間から連絡があった」
    「それは良かった。…ガイア、君はディルック先輩のところに行かないのか」

     事情を知るジンは、戸惑いながらガイアに尋ねた。

    「しばらくして落ち着いたら顔を出そうと思ってな」

     ガイアははぐらかすように笑う。ディルックに会いに行って、まともな顔で居られる自信がなかった。

     そのとき、騎士団本部の入口が妙に騒がしくなった。何事かと、ジンと共に外へ向かう。そこには、酷い焦燥を浮かべた栄誉騎士が立っていた。

    「ガイア!やっと見つけた!」

     旅人は、額に汗を浮かべてガイアの腕を掴んだ。それに続けて、パイモンが声を張る。

    「ディルックの旦那がが大変なんだ!とにかく来てくれ!」
    「おい待て、ディルックの旦那は無事に目覚めたとアデリンから連絡が来ていた。どうしたんだ」

     旅人に腕を引かれながら、ガイアは問うた。

    「ガイア、落ち着いて聞いてね、」

     旅人は呼吸を整えるように間を置いた。

    「ディルックが、ガイアのことを覚えてない」
    「え、」
    「どうしてか分からないけど、恐らくガイアの記憶だけが飛んでる」

     旅人の言葉が、ガイアの頭をするすると滑っていった。

     気づいた頃には、ワイナリーの玄関に立ち尽くしていた。アデリンと旅人のやり取りをぼんやりと聞き流した後、旅人に腕を引かれるままディルックの寝室に向かった。

     寝台に腰掛けるディルックの目を見て、ガイアは確信した。妙に透き通った真紅の瞳が、ガイアを不思議そうに見つめている。

    「君が、ガイアか」

     ディルックは、ガイアのことを綺麗さっぱり忘れていた。きっとそれは悲しいことのはずなのに、ガイアはどこか安心していた。

     このまま、忘れたままでいてくれたら。

     魔が差した、と言えばそうなのかもしれない。しかし、ガイアにとって、目の前の可能性は堪らなく魅力的だった。

     ガイアの嘘も、裏切りも、傷つけ合ったあの夜も、全て無かったことにできたなら。ディルックは幸せに、もっと前に進めるのではないかと、そう考えてしまった。

    「あぁ、俺がガイアだ。本当に記憶が飛んでいるんだな、旦那様」


     半ば無理矢理始まったディルックとの生活は、ガイアの首を優しく絞め続けた。ガイアに優しい声で話すディルックに、どんな顔をすればいいのかわからなかった。

     ディルックは、ガイアに繰り返し尋ねた。

    「君と僕は、どんな関係だったの」

     ガイアが幾ら説明しようと、ディルックは納得しなかった。何一つ覚えていないくせに、その紅い目はガイアの全てを見透かしているようだった。

     ディルックの身体は順調に回復へ向かった。ガイアは、この優しい地獄から抜け出したい一心で、ディルックを支え続けた。

     そんなある日、ディルックが外に出たいと言い出した。

     ガイアは、ディルックを外に出すことを躊躇った。部屋の中よりも圧倒的に情報量が多いそこに、ディルックを連れ出すことが怖かった。あと少しでガイアの役目が終わるのに、ここで思い出されては全てが台無しだと、そう思った。

     しかし、窓の外を羨ましそうに眺めるディルックを見て、ガイアは首を縦に振ってしまった。ガイアは昔から、ディルックのお願いに弱かった。

    ♦♦♦

     ガイアは、気を失ったディルックを抱えて屋敷の階段を上がる。寝室の扉を開け、ゆっくりと彼を寝台に横たえた。

    「…勘弁してくれよ」

     発熱しているのか、ディルックは顔を赤くして、荒い呼吸を繰り返していた。
     ガイアは、手のひらに元素を集め、彼の額に当てる。ひんやりとした温度が心地良いのか、ディルックは擦り付けるように顔を揺らした。

    「もう、いいだろ」

     そんなに苦しむぐらいの記憶なら、思い出さなくても、いいだろう。
     そう思ったとき、温かい手が突然ガイアを引き寄せた。姿勢を崩したガイアは、崩れるように寝台に沈む。

    「え、ちょっと、おい!」

     ディルックが、ガイアの身体を力強く抱き込んだ。
     ガイアは、目が覚めたのかと彼の顔を覗く。しかし、薄い瞼は閉ざされたままだった。

    「が、いあ」

     ガイアの耳元を、ディルックの声が擽る。それに思わず身じろぐと、ディルックは宥めるようにガイアの背を撫でた。
     その手が、嫌になるほど懐かしくて、ガイアは逃れるように目を瞑った。

    ♦♦♦

     夢を見ている。暗くて、湿っていて、穢れていて、それでいて堪らなく愛おしい、夢を見ている。

     手繰り寄せた記憶は、決して優しいものではなかった。心の一番脆いところを容赦なく突き刺すような、そんな記憶だった。
     だが、それを捨ててしまうようなことを、ディルックは一切望まなかった。

     痛みも苦しみも、全部丸ごと抱きしめる。そして、一番奥にある、柔らかくて温かい幸せを噛み締めた。

     失ってなるものか、弔ってなるものか。自分の一部を欠かしたまま、のうのうと生きてたまるものか。

     ぱちり、と目が覚める。まつ毛の先が触れそうなほどの近くに、ガイアの顔があった。
     ガイアは、穏やかな寝息を立てている。ディルックは彼の頬に両手を添え、額を合わせた。

     おとうと。たった一人の、大切なおとうと。

     左手の指先で、眼帯の下を撫でる。引き攣ったような傷跡を確かめて、静かに唇を寄せた。

     星を携えた深青の瞳が開かれる。うつくしいそれは、不安定に揺れていた。

    「なん、で」
    「ガイア、僕は、君を忘れたまま生きることなんて、できない」
    「…やめろ」
    「君を愛することを知らないまま、生きたくなんてないよ」
    「でも、俺は、お前を」
    「君がくれた痛みも苦しみも、僕の大切な一部だ。それを捨てて、欠けたまま生きるなんて、耐えられない」

     ディルックは、ガイアの頬を伝う雫を優しく拭ってやった。

    「また、君を一人にしてしまったね」
    「…大変だったんだからな」
    「僕を助けてくれたのは、君だったんだろう」
    「…俺が居なかったら、死ぬところだったんだぞ」
    「でも、君が助けてくれたから、大丈夫だった」
    「…っ、最悪だな、お前」
    「うん、ごめんね。好きなだけ殴っていいよ」

     ディルックは愛おしそうに目を細めた。
     ガイアは拳を緩く握って、弱々しくディルックの肩を叩く。

    「ふふ、遠慮してるの?」

    「お前の身体が全部治ったら、本気でやるからな。また死にかけても助けてやらない」


     後日、騎兵隊長と貴公子の大乱闘でモンドがお祭り騒ぎになったのは、また、別の話。
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