排球夢 -空-/始まりの息吹-1「ナイスキー」
「オーライ!」
「ナイスレシーブ」
――2011年7月某日。様々な掛け声が響く体育館。
オレはコートに立っていた。
相手は優勝候補、次世代の怪童。
間に合わせの調整しか出来なかったオレがそいつに勝てるなんぞ思わない。数年、逃げたオレが勝てるなんて思うわけが無い。
でも、同じコートに立つコイツらが信じてくれるのなら。オレという選手を待ってくれているのなら、応えたい。
それにここは心地好い。騒がしくて、熱くて、苦しくて――
「智早」
高く、高く、跳んで、飛んでいるような。
そんな感覚が、オレは――
「逃げんなよ」
*
谷地仁花は迷っていた。目の前――厳密に言えば、隣の席ですやすやと眠っている、マスクをした男子生徒。彼は今朝、今日から部活が始まると嬉しそうにしていた。けれど今は放課後、何やら険しい顔をしていた彼はホームルームが始まってすぐに夢の世界へ向かってしまった。真面目な彼が珍しい、そんなに疲れているのかな。
ホームルームも終わったし、部活に行くなら声をかけた方が良いだろう。でも、心地よく眠っているのを邪魔するのは良くないのでは……?
持ち前のマイナス思考を働かせ、ぐるぐる頭を悩ませる。どちらが彼のためになるのか、どうすれば――意を決して「ひ、平塚くん……!」と彼の名字を声に出した瞬間に、彼――平塚智早は、驚いたように目を覚ました。谷地の顔は一気に青くなる。
「――――……ごっ、ごめんなさいっ平塚くん 決して、決して 驚かせるわけでは……」
「――あ……? ……谷地さん? ……あぁ、いや、オレこそごめん。変な夢見ただけだから、谷地さんは悪くない」
まだ起きたばかりで頭が働いていないのか、普段と比べると幾分か間延びした口調で智早は話す。
「そ、そう……?」
谷地が聞けば「そうだよ」と、綺麗なかたちをした目が薄く弧を描く。口元が隠れていてもわかるその爽やかさに思わず顔を赤くしていると、智早は支度を始めた。
「ごめん……! 引き止めちゃったよね!」
「いや、全然。むしろ起こしてくれてありがとう。じゃあ、また明日」
「うん! また明日!」
ようやく笑顔になった谷地を見て、智早は廊下へ出る。寄り道はせず、真っ直ぐ体育館へ向かうため歩いていると、「おー、智早」と名前を呼ぶ声が智早の頭上から。だが決して智早の身長が低いわけではなく、むしろ智早とその兄姉は総じて180を超えている。ただ、目の前の三白眼を細める男が上背だった。それだけの話である。
「……籠目さん。なんスか」
「だァから先生を付けろっての」
昨年から烏野に赴任している養護教諭、籠目翼。珍しい男性教諭というだけでなく、190はある身長に整った顔立ち、そして男性にしては長めの肩より少し上で揃えた髪――籠目は校内でも特に目立つ存在だった。
2つ年上でこの学校に通う兄を持ち、昨年度から部活見学などにも来ていた智早は入学前からの知人である。だからだろうか、当時の名残で呼び名を変えることをつい忘れてしまうことが多く、今年度に入ってから片手で数えられる程度には同じことを言われている。
「これから体育館? 知晶は?」
「兄貴は今日通院日なんで、もう帰ったと思います」
「あ、そう? まガンバレ。何かあったら呼べよー」
「ちょ、やめてください」
ワシャワシャと頭を撫でるだけ撫でてじゃあな、と去っていく籠目を見て、智早は眉間に皺を寄せる。
あんな飄々とした軽薄そうな男が、過去この学校の〝エース〟だったというのだから人間というのはわからない――しかし、こんなことをしている場合ではない、そうさっさと足を進めて第二体育館へと智早は向かう。扉が見えてきたかと思えば先客が2人、それぞれオレンジ髪と黒髪の、学校指定ジャージを着た男子生徒。
「なんで居る」
少し近付けば、オレンジ髪で小柄な生徒の大声がよく聞こえた。双方目線はお互いに向いており、智早に気が付く様子はない。しかし黒髪の生徒に、智早は見覚えがあった。中学の強豪北川第一、そこでセッターを務めていた〝コート上の王様〟――
「影山……」
「智早?」
ぽつりと彼――影山飛雄――の名前を呟けば、今度は突然、背後から名前を呼ばれる。今日名前を人に呼ばれたのは何度目だろう、夢も含めて――智早は小さくため息を吐いたあと振り向いた。そこに居たのは、真黒に白で烏野高校排球部と書かれたジャージを着た生徒3人。
「……驚かすんじゃねェ、孝支」
「えっ、ごめん」
驚かされた苛立ちからか、険しい顔で智早は言う。相手の3人でいちばん背が低く、泣きぼくろがよく目立つ柔らかい雰囲気の3年生、菅原孝支。彼は智早たち兄弟の幼馴染であり、兄・知晶とは同い年の親友だ。智早自身も菅原との仲は良く、軽口を言い合う関係である。
「智早くん、どうも……どうかした?」
「なんだ? 早速来たのか? 気が早ェな〜この〜」
体格の良い黒髪が3年生の澤村大地、坊主頭が2年生の田中龍之介。どちらも知晶を経由して、智早とは既に知り合い。田中は生意気な後輩、という認識が強いのか、先程の籠目のようにワシャワシャと智早を撫でる。しかし一方澤村は、〝友人の弟〟という意識があるのか険しい表情のままの智早を見て「田中、智早くん困ってるだろ」と助け舟を出す。
「……や、別に大丈夫です。たださっき、籠目……先生にも同じことされたんで」
そう説明されれば、〝籠目〟という名前にああ、なるほどと納得する空気を出す一同。智早が乱れた髪を直していれば、澤村が話を切り出す。
「そうだ、立ち止まってどうかした?」
「あ、いや。中に誰か居たんで様子見てただけです。……でもあの、アレ」
そう言って体育館内、奥の人物……影山を指さすと「ああ!」と澤村が言う。
「本当にな! いや〜〜! まさか北川第一のセッターが烏野にね〜!」
「でもぜってーナマイキっスよそいつ!」
「またお前……誰彼構わず威嚇すんのやめろよ?」
「そっ、そんな事しませんよ俺!」
どんどん中へと進んでいく3人に隠れるように、智早も体育館内に足を踏み入れた。「ちわス!」という影山の声に澤村の返事が響く。少し距離をとって様子を見ている智早だったが、田中がガンを飛ばしていることはすぐにわかった。
「影山だな?」
「オス」
名前を確認した後、「よく来たなあ!」と笑う澤村。菅原は昨年より育った(らしい)影山の身長や体格に目を丸くし、田中は「最初が肝心っスよ!」と威厳を見せるよう、普段柔らかな様子の菅原に言う。
(そりゃ孝支には無理だろ)
智早は内心ツッコミながら、目立たないよう体育館に足を踏み入れた。「ちわース」と、勿論挨拶も小声で。
入口近くに持っていた荷物を置き、そこで様子を見ていれば、じぃっとオレンジ髪の生徒――日向翔陽――が智早に身長に視線を向ける。影山より高い背丈、指定ジャージだから同い年だろうか? と智早を見る日向だったが、それに気が付いた智早も日向を見る。じろりとこちらを向いた、いや、見下ろしたような瞳につい驚き、日向は肩を跳ねさせた。
智早もまた日向の身長を見ており、遠目からでも小柄なのはわかっていたが、隣に並び170も無いことに気が付く。その身長でバレーボールを始めるのか続けるのか、どちらなのか智早は知らない。が、どちらにしろ根気のあるやつだなと感じる智早。
「……挨拶。すれば」
が、それに言及することはなく、注目が影山に集まっていて出遅れた日向にそれだけ言った。
身長差や智早の目付き、更にはマスクで半分しか見えない表情の関係で仕方のないことではあるが、冷ややかで見下されたような視線を向けられた日向は少しムッとして、「い、言われなくても……!」と小走りで部員たちに近付く。しばらく集団を観察する様子を見せたあと挨拶を始める。しかし澤村らは影山に夢中で、気づかれる様子はない。
智早はこのままこいつが気づかれなかったら、何故言わなかった、と田中辺りに詰められるかもしれない……と可能性を考えたが、そこまでする義理もないとその場に留まる。
数秒後、日向の声が田中と菅原に届いたらしく2人が振り向いた――と思えば、次に田中の声が響いた。
「おっ、お前ェッ…… チビの1番」
そう田中に指をさされる日向。〝チビの1番〟というよくわからない言葉に日向も智早も困惑する。日向は何故自分が知られているのか、智早はその言葉の正体はなんなのか――出来る限りの記憶を遡る智早だが、どれとも結びつかない。
「――じゃあこのもう1枚の入部届の……『日向』って……お前か……」
〝チビの1番〟のことを菅原に聞こうとして集団に近づいている最中、澤村の声が聞こえた。日向、という名前。智早はその名前に聞き覚えがあった。昨年、中学大会に出場する学校を調べていた際見つけた、知らない中学。大会では1回戦で北川第一と当たっており、なるほど、そこ繋がりで話をしていたのかと納得する。
(ヒナタ……雪ヶ丘の主将だっけか。ンなチビが……てことは続けてんのか。バレー)
昨年、雪ヶ丘は北川第一に惨敗。それは結果表を見れば誰もが知っていることである。ただ、それでバレーをやめずにここに、ここ数年振るわなくても、かつて全国への切符を掴んだ烏野に入学している――その事実に智早は、日向に対して少しの尊敬を覚えた。
「お前らどっちも烏野か……!」
ぱちり。
今の澤村の声に、日向と影山の2人が目線を上げる。その拍子に、影山は智早の存在に気が付いたようでお互いの視線が交わる。僅かに見開かれた影山の瞳に気付いた智早は、顔を顰め半歩後ろに下がった。
「平塚! オマエ、平塚だろ!」
先程まですました顔をしていた人間とは思えない大声。そしてそれが向けられた先に、全ての視線が集まる。
「……え、智早、影山と知り合い?」
「去年少し……話しかけられただけだ……!」
菅原に問いかけられ、言葉を選びながらそれを否定すら智早。知り合いというのは間違っていないだろうが、知り合いという言葉を使いたくないほど智早は影山のことが苦手だった。
昨年、とある体育館での会話を思い出す。一度お前と戦ってみたかったと、こちらの話も聞かずに話す影山。結局試合は叶わなかったし、それ以降話した――どころか、会ってもいない。もう少し縁があれば渋々と〝知り合い〟という関係性も納得していただろうが、そうではないので苦い顔をしたまま菅原の後ろへと、隠れるようにして逃げた。
「お前も烏野か!」
「……まァ――」
「ここに居るってことは、選手」
「違ェ!」
大声。しかし、単純なそれとはまた違う、腹の底から出された――強い拒絶が現れたようなそれに、影山だけでなく、隣で話していた日向らもシンと静まる。
(……これは、〝違う〟だろ……落ち着けオレ……)
「……ごめん、なんでもない。……そうだ孝支、そいつなんなの」
今度は智早が日向を指さした。菅原は少し言葉に詰まったものの、智早の背中を軽く叩いて説明を始める。
どうしたと心配するような、調子を取り戻せとでもいうようなその行動に、智早は深く息を吐いた。
「あー、そっか。智早は居なかったもんな。ほら、去年、初戦で良い動きをした奴が居たって話。したろ?」
「……うん。聞いた」
「そ! お前のバネ、凄かったよなあ!」
流れるように会話の流れを戻す菅原。智早はその後ろに隠れるように……といっても、智早は菅原より10cmほど背が高いが。縮こまって会話を聞く。
「それにしてもあんま育ってねぇなぁ!」
「あっ……ぐっ……確かにあんまり変わってませんけどっ……でも!」
でも。
その声に――先程までとは打って変わって力強い声に、逸らしていた目を向ければ、「小さくてもおれはとべます! 烏野のエースになってみせます」と日向は宣言した。田中に圧をかけられたり菅原に肯定されたりで目を白黒させていたが、「がんばります!」と、そう言いかけたとき。影山の声が挟まった。
「お前、〝エースになる〟なんて言うからには、ちゃんと上手くなってんだろうな? ……ちんたらしてたら、また3年間棒に振るぞ」
(……スゲェこと言うな、こいつも)
口振りからして、影山が日向の実力を買っているのだろうということはよくわかる。ただ、実力を伸ばすのにはそれ相応の環境が必要であり――3年になって創部された雪ヶ丘バレー部、という事実だけを見ても、日向が環境に恵まれなかったのはよくわかる。それを無視してそう言うのは、あまりにも酷だ。
(……やっぱコイツ、苦手だ)
ずしり。また1枚、智早は影山との間に大きな壁を作った。
「おぉ……どうしてそういう事言うんだ影山……」
「友達居なさそうだな〜影山」
「え、もうけんか? はやくない?」
口々に驚く様子を見せる2・3年生。日向も険しい顔になり、反論しようと言葉を紡ぐ。ただ、3年、3年間、日向自身が積み上げてきたものの大きさは影山に理解出来ずとも、一言二言で表すには難しい。それでも絞り出すように、日向はこう言った。
「でも、今までのぜんぶ……無駄だったみたいに言うな」
日向と影山。お互いを睨み合う2人に澤村は呆れた様子で話し出す。
「……お前らさー。もう敵同士じゃないってわかってる? 仲間だって自覚しなさいね」
そう言葉を続ける澤村だったが、今度は日向が「勝負しろよ、おれと……!」と人の話を遮る。
「ぅオイ 大地さんの話の途中だろうが」
田中がそう声を荒らげるも、日向と影山は言い合いを続ける。それでも田中は止めようとしているが、智早はこいつらを止めるのは無理だろうと判断し、ため息を吐いている。
そんな中、コツとフローリングに運動靴では響かない音が鳴る。
「――騒がしいなバレー部。まさか喧嘩じゃないだろうね?」
「ゲッ教頭! せんせいっ」
入口から覗いていたのは烏野高校の教頭で、呼び捨てにする田中に菅原がすかさずフォローする。
智早は小さくお辞儀だけして、日向影山に向き直す。大人しくしとけとささやく田中を無視して日向はサーブレシーブでの勝負を提案した。田中には「くォラッ」と怒られているが。
去年は1本しか取れなかった、そう語る日向に――日向が言う『取れなかった』が顔面だとは知る由もない智早は、中学でも上位レベルだった影山のサーブを取れるのか、と関心する。
「もう去年までのおれとは違う」
真っ直ぐな目でそう告げる日向。それに何かを感じたのか、影山は薄く笑いながら「俺だって去年とは違うぞ」と抱えていたボールを日向に向ける。
(……どう見てもケチ付けに来てんだろ、教頭は。なんも考えてねーのか?)
日向と影山、どちらも〝バレー馬鹿〟と呼べるような、バレーボールという競技に惹き込まれ、そのまま進む人間であることは智早は……昨年の影山との会話や、先程の日向の言葉から僅かに感じ取った。バレーボールが好きで、何があろうと続けたくて、負けたくなくて――2人の想いは智早にもよく伝わる。ただしかし、ここで問題を起こせば何を言われるか。まだ入部前ではあるものの、主将が窘めるのを無視し、更に問題を起こせばお咎め無しとは考えにくい。それでもサーブの構えを取る影山に、智早は無意識に呟いていた。
「考え無しかよ」
「行くぞ」
そう言った影山は、持っていたボールを高く上げた。スパイクサーブだ。先月まで中学生だったとは思えない威力、コントロールはまだ成長の余地があるが、その豪速球に日向は反応しきれず、顔面でとろうとするも避ける。
「それのどこが去年と違うんだ」
(高1の4月でそのレベルとれるやつは稀だろうよ)
と、影山は言うが、智早は口に出さずとも反論し、田中は「俺もとれるかわかんねー」と呟く。
ただ、日向は立ち上がった。
「おい!」
「主将の指示を聞かないなんて問題だねぇ」
そういった言葉たちは耳に入っていないのか、影山はもう一度ジャンプサーブを打つ。先程と変わらずの速球、ただ違ったのは日向の反応。その場で2人を見ていた全員が息を飲む。正面に回り込み、ボールを捉えた――そう思われたが、ボールは腕、顔と跳ね返り、向かった先は教頭の顔面。瞬間、空中へと浮いたのは教頭のカツラ――――苦い顔をする澤村・菅原に驚く日向と影山。田中は笑いを堪えられておらず、智早は眉間に皺を寄せたまま、いち早く目線を背けた。
カツラの着地点はなんと澤村の頭で、全員が言葉を失う。
田中・日向・影山の3人が無神経に、というより、空気を読まずカツラについて話し始めるも、「澤村君……ちょっといいかな……」と澤村が教頭に連れていかれたのを皮切りにまた静寂を取り戻す。
「……お前ら馬鹿か?」
最初の一言は智早によるものだった。良くも悪くも素直すぎるその一言を、菅原は「コラッ智早!」と2人を刺激するな、とでも言いたげに窘める。ただ智早は止まらずに、言葉を続けた。
「あのなぁ、どう見ても難癖付けに来てんだから少しは大人しくしろっての。体育館使用禁止にでもなってたらどうするつもりだったんだよ」
日向よりも、影山からは数cmの差でも。高い位置からの見下すように紡がれる言葉は2人を苛立たせるのに十分だった。しかしそれへの反論も出来ずに、2人は歯を食いしばっている。が、ふと影山が顔を上げた。智早を真っ直ぐ見て「そうだ」と言った。
「平塚、さっきの。違うって」
「――別に。そのままの意味だよ。選手では無い」
「でも、お前とならきっと」
「別に不自然でも無ェだろ。お前もオレが爆弾抱えてんのは知ってんだろ? つーか選手やるつもりだったら制服で来てねェよ」
そう言って智早は、影山から目を逸らし、隅に置かれた荷物から、ノートとボールペンを取り出す。少し離れた場所にいる菅原の表情が僅かに曇ったことには誰も気が付かず、智早の言葉を聞き続けた。
「入部はする。マネージャーとして。役割的にはアナリストのが近いかもしれねェけどそもそもが人手不足だからな。マネージャー業務もやる。……3年には既に説明済み。な、孝支」
「……っうん、俺も大地、えっと、主将な。も……3年は全員、直接聞いてる」
急に話題を振られて驚いた様子の菅原が、言葉を詰まらせながら補足をする。2年であるために知らなかった田中は驚いたような、がっかりしたような……そんな様子ではあるが、またも智早の頭をわしゃわしゃと撫でながら「なんだよ〜」と声を上げる。
「ま、お前が決めたなら止めねーけども! なんかあれば頼れよ? 先輩の俺に」
「はあ。最初は清水さんに色々聞いてると思います」
「っうぉい待て智早 まさか潔子さん目当てじゃ」
「ないです」
何やら騒ぎ始めた2人を見て、菅原が1年生たちに「ごめんな、気にしないでいいから」と困り笑いで話す。菅原に話しかけられた日向は、ふとした疑問を思い出し、「あの!」と手を挙げた。
「どした? 日向」
「コーシ、って先輩の名前? ですか?」
「あ、うん。幼馴染でさ。仲良いんだ。アイツの兄貴もバレー部で……今は怪我してて休養中だけど、復帰したらよろしく。あ、そうだ! 智早、日向に自己紹介しろよー」
田中との口論を続けていた智早が名前を呼ばれて振り向いた。少々面倒そうな顔をしながらも、はぁとため息を吐いたのち口を開く。
「……平塚智早。さっき言った通りマネ志望。よろしく」
「あっ、お……おれは日向翔陽……なぁっ、ヒラツカ! お前、身長いくつ?」
「はあ?」
想定外の質問につい大きな声が出る。それに怯えた様子の日向を見て、智早は静かに記憶を遡った。
「……前測ったとき……1月な。は、確か……181前後。でも、伸びてんだろ」
どうせ、という言葉を省略して智早は日向の顔を見る。すれば日向はなんとも険しい、しわくちゃな顔付きをしていた。
「は……?」
「もっっった……ぐぬ……うぅ〜」
〝もったいない〟とそう言いかけて、悔しさで歯を食いしばる日向。
「……やる気がないモンはどうしようもねェだろ。オレは……向いてねェし」
智早も何を言おうとしたのか見当がついたのか、智早はそう呟いた。少し間を置いてから。先程までと比べれば微かな声で、日向にも部分的にしか届いていない。
「ふーん……? ……あとお前、なんでマスクしてんの?」
「……健康管理」
「ふーん…… なー、影山」
眉間に皺を寄せ、くちびるを突き出して疑問を表情に出しながら、日向は影山を呼んだ。ぎろりと睨み付けながらこちらを向く影山に、日向はまた怯えながらも「なんで影山はこいつに期待してんの?」と言った。影山の「お前とならきっと」という言葉を聞いてだろう――が、それに答えたのは田中だった。
「マジか日向! 智早のこと知らねぇの? 珍しいなお前の歳で……もしかして千尋ちゃんも」
「田中さん」
静止したのは智早だ。千尋というのは智早の姉である。双子の。中学バレーでは、影山に並んで有名なセッターだ。
「何年前だと思ってんスか。それに知らないなら知らないでいいでしょ、今更知ってて得することも無いし」
冷ややかな、いや、それすらも感じない淡白で単調な声色のまま、智早は話す。日向の頭上には相変わらずハテナマークが3つほど浮かんでいるが、他の面子は何かを察したのか黙り込んだ。
――――……それから、20分ほどして澤村は戻ってきた。出ていった時と同じく険しい顔のまま。
それまで各々話をしていた5人も澤村の前に集まって話を聞く。
「――幸いにもとくにお咎めナシ。謝罪も特に要らない」
一同ほっとしたものの、その後の「が、何も見なかったことにしろ」との言葉に菅原・田中・智早は渋い顔をした。しかしやはり日向と影山は睨み合って、口喧嘩を始める。へたくそ、だのフザけんな、だのクソが、だの畳み掛ける影山に、澤村の声色が一気に冷める。
「少し聞いてほしいんだけどさ」
日向・影山に問いかける澤村だが、それよりも菅原・田中が怯えているし、智早は呆れて何度目かのため息を吐いている。
「お前らがどういう動機で烏野に来たかは知らない。けど当然、勝つ気で来てるんだろ」
もちろん2人は肯定の返事をする。その後澤村が語り出したのは、端的に言えば烏野の現状。数年前は県内でトップを争えるチームであり、事実一度だけとしても全国へと羽ばたいた。だが現在は県ベスト8が上振れで、特別弱くも強くもない。
他校からは、落ちた強豪。〝飛べない烏〟。そう揶揄されるばかり。
「烏野が〝春高〟で全国大会に出た時のことはよく覚えてる。近所の高校の……たまにそこらですれ違う高校生が、東京のでっかい体育館で全国の猛者たちと戦ってる。鳥肌が立ったよ」
5年前の話だ。その頃烏野には、エースと呼ばれる選手が居た。日向と同じように小柄ながらも、絶対的なポイントゲッター。まさに、小さな巨人と呼ばれる大エース。
「もう一度、あそこへ行く。もう、〝飛べない烏〟なんて呼ばせない」
言葉と共に、空にカラスが飛び立った。風も強く吹き、髪が乱れる。その力強さ、真っ直ぐさ。澤村らの積み重ねを知る智早は、マスクの中で小さく口角を上げた。
「……全国出場を〝取り敢えずの夢〟として掲げてるチームはいくらでもありますよ」
「あぁ、心配しなくてもちゃんと本気だよ」
影山に向けられた圧の強い言葉に、智早は深く刻まれていた眉間の皺が減っていく。本気だ。本気で目指してるということが、智早は心地良かった。
「――その為にはチーム一丸とならなきゃいけないし……教頭にも目を付けられたくないわけだよ。俺はさ、お前らにオトモダチになれって言ってんじゃないのね」
日向と影山はぎくりと肩を揺らし、田中と菅原は段々と低くなっていく声に距離を取る。智早は自分が叱られているわけでないので気にせずその場にとどまっているが、体育館内の空気は明確に重くなっていた。
「中学の時にネットを挟んだ敵同士だったとしても。今はネットの〝こっち側同士〟だってことを自覚しなさいって……言ってんのね」
ぴしゃりとその瞬間、押し潰されそうなまでの重さが体育館に居る全員に伝わったのではないだろうか。
澤村はその後影山を「優秀な選手」、日向を「一生懸命でヤル気のある新入生」と評した後こう言った。
「仲間割れした挙げ句チームに迷惑をかけるような奴は、いらない」
それぞれに入部届を突き返し、外へと放り出す澤村。
「互いがチームメイトだって自覚するまで部活には一切参加させない」
と言って大きな音を立てて扉を閉めた。当然外では日向と影山が声を上げて喚いているが、館内は呆れ気味だったり外の様子を面白がっていたり、あまりの出来事に苦笑いしていたりと三者三様に出来事を見ている。
「いいのかよ大地。貴重な部員だろ」
そう言ったのは菅原だ。「〝チーム〟とかって徐々になってくモンだろォ」と苦言を呈すも澤村の怒り様はその程度では収まらない。事実として外からは口喧嘩の様子が詳細に聞こえてくる。
澤村は当然入部を拒否したいわけでない。ただ現状あの様子だと練習になるはずもなく、反省を促すために追い出したのだが。
「すみませんでした!」
そう言ってきたのは影山だ。協力もする、部活に参加させて下さいという声が聞こえてきたので、澤村が「本音は?」と扉の隙間から顔を出した。後ろで見ている田中と智早はどうせその場しのぎだろうとして聞いている。しばらくしてピシャンと扉を閉めて澤村は戻ってきた。
「……で? 影山、なんて?」
「今の日向と協力するくらいなら、レシーブトススパイク……全部1人でやれればいいのに、だって」
ははは、と笑いながら澤村は影山の言葉を簡潔に伝えた。田中は大笑いし、菅原は「えぇ〜……」と引く様子を見せた。
「影山、実はバカか? もしかして……」
「実はっつーか、フツーに馬鹿ですよアイツ。単純馬鹿タイプ。態度がああだからわかりにくいですけど」
澤村らが意外と感じた様子に驚かない智早に目線が集まった。
「去年話したときもそうでした。自分のやりたいこと一直線……猪突猛進って言葉が似合うと思います」
「へー……おもしれぇなぁ」
不安そうな表情の3年生とは対照的に、田中はニンマリと笑う。きっとただの〝天才〟じゃないということを知って、いじれる要素を手に入れて。これからどうしようかと考えているのだろう。
「あ、そうだ智早くん! ……本当にマネージャーで大丈夫?」
「あぁ、はい……前話した通りです。……バレー、嫌いになったわけじゃないし……兄貴や大地さんたちが、全国の舞台に立ってるの。見たいんで。サポート、させてください」
そう言って智早は、深々と頭を下げた。智早はわかっている。本当に自分に求められているのは選手の立場だと。それに対しての後ろめたさか、下手の口調で話す智早の頭を、澤村は優しく撫でる。
「そんなこと言わないで。ふざけてるんじゃあるまいし、智早くんが中学の間どんなことやってきたかは知晶から聞いてる。十分頼もしく思ってるよ」
中学の間やってきたこと。智早は中学1年から2年までの間、双子の姉である千尋が所属していた女子バレー部のマネージャー兼アナリストをしていた。評判も良く、それまで中堅だった女子バレー部を県内トップクラスまで導いたのは智早のおかげでもあると語る選手も多く、それは間違いなく実績となっている。
「――ありがとうございます」
「ちわース! 遅れました!」
日向らが追い出されてから5分ほど経ち、閉められていた扉から3人が入ってきた。それぞれ2年の縁下・木下・成田。全員外の日向と影山に驚いた様子だった。
「おー来たか……旭さんは? 見た?」
田中が先頭にいた黒髪――縁下に話しかける。旭、というのは3年生のウイングスパイカーである東峰旭のことで、現在は諸事情で部活に来ていない。
「いや、見てない」
縁下に言われて田中は「そうかぁ……」と苦い顔をする。うんうん唸るのを見て木下が怯えと困惑が混じった様子で喋り出す。
「西谷には頑張ってこい! って言われた。でっかい声で……というか外の、どうしたんスか? なんか貼り付いてた……」
「片方、影山だったよな? 烏野に来たんだ……あ、智早」
驚いた様子の成田だったが、この空間でいちばんに高い背丈と白髪を見て智早の名前を呼ぶ。オースと智早に挨拶をする2年生たちに、智早は頭を下げる。
「……あ、そうだ。大地さん、あの。呼び方なんですけど、呼び捨てで大丈夫ですから」
「え、でも……」
「……なんか、お客様感があるっていうか。オレだけ大地さんのこと名前で呼んでるのも……なんか、あんま、納得できないっていうか」
目を逸らして、気まずそうにそう告げる智早。澤村ははぁ、と息を吐いたが笑顔のままで、もう一度智早の頭を撫でた。
「――わかった。それじゃあ、これからよろしく! 智早!」
*
――――……一方その頃。
体育館の外で日向は項垂れており、影山はひどく苛立つ――最初はそういった様子でお互い怒鳴りあっていたものの、2人は話し合う中で〝一応〟まとまってきてはいる……が、それでもまだまだ。現在は作戦会議の途中だが、日向は何かを思い出したように「あ!」と声を上げた。
「んだよ」
「ヒラツカって何者? 有名人なの 坊主の先輩が色々教えてくれたけど」
そう言い出した日向に影山は呆れた様子で顔を顰める。
「平塚智早。俺らの世代でトップレベルのスパイカーだぞ。知らねぇのか」
「知らねぇ!」
ハキハキと否定する日向に、ありえないという表情のままの影山だったが、『何年前だと』という智早の言葉を思い出す。確かに昨年、一度だけ試合に出ていたとしてもあの出来事自体は5年前だ。知らない人間が居てもおかしくないのか……? そう頭をひねったあと、影山は口を開いた。
「平塚が居たクラブチーム。アイツが居た時期、殆どの得点をアイツがとってた。それに試合にいくつも勝ってた。それに、千尋さんも居たからな」
「……その、チヒロさん? って?」
「平塚の双子だ。同じセッターだからたまに話した」
「へーっ……じゃあ、なんでマネージャーやってんの? ヒラツカは」
「5年前、試合中に倒れたんだよ」
倒れた。その言葉に日向は目を丸くする。
「た、倒れたって」
「さあ? 詳しくは知らねぇ。……でも去年、中総体で一試合だけ出場してた。その時は何も無かったけどな」
影山は淡々と説明するが、日向は『もったいない』と言いかけたことや『健康管理』と言われたことを思い出し、じわじわと冷や汗をかき始めた。もしやおれは失礼なことを言ったのではないだろうか。怖そうだったしキレてたらどうしよう……ぐるぐると思考を回転させながら、目も白黒させる。明らかに様子がおかしい日向に、影山は「どうした?」と声をかけるものの心配する様子はない。
「――マネージャーっつってたけど、2対2――その場合は3対3。平塚を誘えれば勝率は格段に上がる。さっきも言ったけど、お前は邪魔にならない努力をしろ」
「ハァァァ ずっと失礼だなお前 大体誘ってハイって言ってくれんのかわかんねーじゃん あんなに……」
マスクを付けていて、目元しかわからない智早の表情。それでもその目元は十分感情を表していて、『マネージャーをやる』と話しているときの人から逸らされた瞳、眉間に寄った皺。どうも素直に応じてくれるとは思わない。
黙り込んだ日向を見て、影山は訝しげに首を傾げる。
影山は知っていた。目を輝かせてスパイクを打つ智早を、声を上げてボールを呼ぶ智早を。試合中、よく笑顔を見せていた彼を見て、バレーが好きなんだと感じた。いつか試合をしてみたい、戦ってみたい、そう思っていた。だから一度倒れたと聞いたとき、感じたのは寂しさだった。でも昨年、何も起こらず試合を終わらせたのならまだやれるのでは――今でもそう思っている。
だから影山は誘おうとしているし、だから日向は渋っている。だが、お互いそれを口にしないので、伝わることはない。
「……それより、なんて主将たちに言うか考えるぞ」
影山は話を戻し、日向を呼ぶ。そして時間は過ぎていった。
「勝負して勝ったら入れて下さい ――とか、言ってきそうじゃないスか? アイツら」
練習が終わり、片付けの始まった体育館で、田中はそう話していた。菅原も同意しているが、澤村と智早は「そこまでの単細胞ではないだろう」と否定する。
「――でも、仮にそう来るとしたら、影山が自分の個人技で何とかしようとするんだろうな」
変わらない澤村の、冷静な言葉に田中と菅原も大人しくなる。
「もしも影山が、自分個人の力だけでも勝てるって思ってるとしたら――――……影山は、中学から成長してないって事だな」
中学時代の影山飛雄。あだ名は〝コート上の王様〟――同世代では頭ひとつ抜けた実力を持ち、コートに君臨する優れた司令塔であること。そして、無茶なトスを強要する横暴な独裁者であること。広まっているのは前者だが、本来の意味は後者だ。そしてこの名を付けたのは、チームメイトだという。
「中学でそうだった様に、ある程度までは個人技で通用しても。更に上へは行けない」
澤村の言う通りだった。『中学でそうだった様に』というのは、北川第一が決勝で敗北したことを指している。
バレーボールは1人で完結することのないチームスポーツ、独裁者のままでは壁を超えることは無い――智早は昨年の中総体の結果を振り返る。北川第一、白鳥沢学園中等部――数ある候補の中から、全国行きの切符を勝ち取ったのは光仙学園中学。強いチームはチームで強い。独りで戦っているのは、チームではない。
(どうすんのかな。アイツ)
「キャプテン」
軽く思いを馳せていたところに飛び込んできた大声2つ。それは紛れもなく昼頃聞いていた声で。
「勝負させて下さい!」
「おれ達対先輩達とで」
「ちゃんと協力して戦えるって証明します」
智早は信じられないという顔をした。ずっと外に居たことだったり、本当に『勝負させてくれ』と言うところだったり、声を合わせる前に「せーの」と聞こえたところだったり。
「でも俺、こういう奴ら嫌いじゃないっスよ!」
(本当に馬鹿だろ、コイツら)
楽しげな田中と対照的に、呆れて智早は息を吐く。選手だったら自分も巻き込まれていたのだろうか、そう思うとラッキーなのかもしれない……そう考えてきたところに飛び込んだのは、影山による衝撃の一言だった。
「平塚! こっちのチーム、入ってくれ」
「あ……」
智早の声と共に田中の吹き出す声が聞こえ、菅原は手で顔を覆いだした。
「試合やるなら3対3、ですよね。だったらこっちに、平塚を入れて――」
「やんねぇっての、いい加減にしろよ……!」
――菅原でさえも滅多に聞かない、荒げた智早の声。
田中もまずいと思ったのか、ニヤついていた口元を真一文字に結ぶ。
「オレは選手はやめたって言ってんだろうが…… 少しは人の話聞けよ、変わんねェな…… ……すみません、先、帰ります」
がしゃがしゃと髪をかき乱す様子は苛立ちがよく伝わっており、菅原は「智早、」と声をかける。
「……ほんとに、すみません。明日も来ますから」
そう言って、智早は暗い帰路へと就いた。
*
「……ただいま」
智早は帰宅してすぐ、手洗いうがいを済ませてマスクを外す。リビングへと向かっていれば、騒がしい足音が奥から聞こえてきた。
「智早! おっかえりーー……? げんきない?」
「うるせ」
話しかけてきたのは長身の少女。智早の双子の姉である、平塚千尋だ。そっくりの顔付きに、智早よりは低いが5cmほどしか変わらない高い身長、そして右腕のギプス。……先月、といっても数週間前。不慮の事故、いや、猫助けのため木の上から落ちたことで骨折をし、現在治療中。
「三割はお前のせいだぞ」
「そんなに……」
この双子はとても仲が良い。根明の千尋と根暗の智早、正反対な部分はあるが、だからだろうか、お互い助け合ってきたことも多い。中でもバレーボールでは、セッターとスパイカー。所属もポジションも違っていたが、お互いがお互いに影響し成長を続けていた。幼い頃の夢は〝2人で全国〟だったか。
そんな中、智早がバレーボールをやめたことは千尋にとってもショッキングな出来事だったのは想像に難くない。
だが、智早は千尋を支えるのをやめなかった。女子バレー部のマネージャーとして、チームの成長を助けることを目標とした。高校では千尋が新山女子高校へと通うのをきっかけに、兄の通う烏野へと入学したが、今でも夢は変わっていないのだろう。だから智早は烏野でも、立場が変わっても全国を目指す。
――そんな中、千尋の骨折は智早の精神を削るに十分な出来事だったのだ。
「で、説明とかは。どうだった?」
「あ うん、居た 森園さん ちょ〜かっこよかった けどめちゃくちゃ怒られた……」
「あたりめーだろ」
森園というのは今年から新山女子バレー部のコーチに就任した、元日本代表選手。千尋の憧れでもあり、昨年度就任の話を聞いたときは絶対新山に通うと騒がしかったのを智早は覚えている。
千尋も怒られるのはわかって職員室へ顔を出したが、監督よりも憧れの森園にこっぴどく叱られたせいかやけに気分を落としている。
「でもあたし、諦めないかんね! 怪我してても出来ることちゃんとやるからね! あ、今日のごはんカレーね」
「してもらわねーと困るんだよ。後でもっかい確認な」
「うーい」
確認、というのはストレッチやリハビリのメニューについて。休養中でも千尋が力をつけられるように、専門書を読み込んで作成したもの。
ぱたぱたと部屋へ向かう千尋を追いながら、ぐっと智早は背筋を伸ばす。
(……疲れた。特になんもしてねーのに)
重い瞼で閉じそうな瞳を擦りながら、智早はリビングへと顔を出した。そこでは千尋ともう1人――2人の兄・知晶が料理をしていた。
平塚家の両親は洋菓子店を営んでおり、仕込みの関係で帰宅時間が遅くなることが多い。なので基本、料理好きの知晶が食事を用意している。もちろん、千尋も智早も手伝って。
「ただいま」
「あ、智早。おかえり。もうすぐ出来るから、荷物置いて着替えてきて」
「ん。……怪我人やら病人しか居ねェのな。この家」
「そゆこと言わない! コトダマだよコトダマ!」
知晶を見て、智早はポツリと呟いた言葉に「治んの遅くなったらどーすんの!」と千尋が反応する。
千尋は骨折、知晶は試合での捻挫。智早は持病。自虐ではあるが、千尋にはっきり叱られ智早は逃げるように自室へ向かう。荷物を置いて、制服から部屋着に着替え、リビングへと引き返す。すると食器を並べてる最中だったので、「なにすればいい」と知晶に尋ねた。
「あ、千尋に並べるのお願いしちゃったから、コップと飲み物……と、スプーンおねがい」
「ん」
テキパキと指示を出しながら軽く調理器具を洗う知晶に従い、コップとお茶、スプーンを持ち出す。クロスの引かれたそこには既にカレーが3皿用意されていて、それぞれの場所にコップとスプーンを置きながら、智早は知晶に話しかける。
「病院、どうだった?」
先月に開催された県民大会。その中のとある試合で知晶は足を捻り、その影響で現在は練習を休んでいる。部活自体には顔を出しているが、今日のように通院のために部活自体を休む日も。
「良くなってきてる。でもやっぱり、ちょっと酷めだったらしくてさ、インターハイには間に合わないかもって」
「……そう」
困り笑いを浮かべる知晶に、智早は小さく返事をした。インターハイ、高校バレー三冠の1つであるそれは、智早としても目指す場所であった。それに知晶が出場できない――というのは、千尋の骨折や影山の件で培われていた心労を加速させる。
夢が、遠ざかる。
隠れて深く息を吐いた智早だが、ポケットに入れていた携帯のバイブレーションに意識が逸れた。
通知の正体は菅原からのメールであり、件名には『明日のことなんだけど』と書かれていた。
「智早、調子大丈夫か? 明日なんだけど日向たち、早朝練するっぽいから一緒に行かね?」
との文章。一応聞いてくれたのだろうが、影山にあんなことを言った手前合わせる顔が無いし、そもそも智早は会いたいわけもなく。
「行かない」
それだけ返信して携帯電話を閉じる。エプロンの片付けをする知晶に「どうしたの?」と聞かれても、「なんでもない」と――兄に対しては滅多に苛立ちを表さない智早だったが、眉間に皺を寄せて言った。何かあったとき眉間に皺が寄るのは、昔からの智早のクセだ。
明らかに普段と違った様子を見せる智早に、知晶も千尋も困ったように顔を合わせる。
「……メール? 誰から? 孝支」
先に口を開いたのは知晶だ。座って、と促された智早が席に着いたあと、いただきますを唱えたあと。穏やかな微笑みを携えたまま智早に向かって問いかける。
「別に。孝支より先に帰ってきたから大丈夫か聞かれただけ」
「そっかぁ」
納得したように言う知晶だが、菅原が智早に過保護じゃないことは当然知っている。だが、無理には聞き出さずにそれから食事中は、知晶の診察内容やらの話をした。食事を終えたあと、知晶は携帯電話を取り出して文字を打ち始めた。
「――――……よし」
ふぅと息を吐きながら、ぱたんと携帯電話を閉じる。それと同時に玄関方向から物音がし、両親が帰ってきたことを察する。出迎えに向かう途中、窓から見える空がやけに暗いのが見えた。夜が更けるのを感じながら、「おかえり」と知晶は笑う。
一方智早は、自室で食事中に知晶から聞いた話をノートにまとめ、練習、というよりはリハビリメニューに近いそれを組み立てる。
(……インターハイ)
190近い身長に伸びてきたブロックの技術、ミドルブロッカーとして、確実なものとなってきた実力。そもそも現在の部員にセンターポジションが2人しか居ない、というのもあり、知晶を中心にブロックの組み立てをしようと考えていた先に起こった出来事。
智早は椅子から立ち、ベッドに倒れ込んで天井をぼーっと見つめる。
(つかれた)
影山のこと、知晶のこと。まだ先が見えない悩みをまとめようとしてもまとまらず、脳内で霧散していく。
智早は、静かに意識を手放した。