『異動願い』 病院から帰社して真っ先にしたことは、異動願いを書くことだった。
喰核生命体対策事業本部 管理部作戦統括室 認可代表校監査主幹。
対策事業本部の中で最も現場に近いポジションに辿り着くために過ぎた日々のことを思い出しながらしたためる手が少し震えた。決して掌に付いた小さな傷のためではない。そう言い聞かせながら。
事業本部長に恐る恐る差し出した異動願いは、拍子抜けするほどあっさりと受理された。
次の部署の希望はと問われ、広報室を希望した。主に役所とイーター対策やヒーロー活動についての交渉・折衝する役割を希望したのは、わずかな未練ゆえだ。
現場から離れたかったけれど、ヒーロー活動と関わることからは離れたくなかった。
そうした己の未練を自覚して、喉の奥が苦くなった。
かつて、中学高校の六年間を候補生として過ごした。
純粋に市民を、街を守りたくて、懸命に訓練に励んだ。
それは間違いなく、自身の青春だった。
レギュラーにはなれずとも充実したヒーロー活動を行えたと自負している。レギュラーへの憧れは一握りの熾火となって腹の底でくすぶっていた。その情熱を抱えたまま成人し、就職し、異動と昇進を重ねて、「現場」に帰ってきた。
ヒーロー活動の最前線。
レギュラーヒーローたちがイーターと交戦し、人々を守る現場。
その現場に大人として居合わせることができる数少ない立場のひとつを掴みとった。その権利を、今、みずから手放そうとしている。
「君のようなタイプはめずらしくないんだ」
手がつけられないまま冷めかけたコーヒーを勧めながら、事業本部長が言った。慰める声音だったけれど、今の自分にはただ惨めさが増すだけだった。
変身するために必要な血性はとうの昔に失われ、リンクユニットどころかリンクチップを光らせることだってできやしない。それどころか命じられるままに、点数を――あくまでも業務規約に触れず評価の範囲内で――操作することさえした。
現場に立つヒーローたちの熱意を、勇気を、私は知っていたのに。
否――かつての私は、知っていたのに。
今の私には血性ともども失ってしまったものだ。
自分はもう、子供ではない。
ヒーローに近い現場に戻った日は、ひどく興奮したのを覚えている。
現役のヒーローたちを羨む気持ちは情熱の熾火で燃やし隠して、大人としての立場を心がけた。
市民を、街を、そして若く幼いヒーローたちを守るために。
けれどその新しい熱も、別の絶望にあっという間に押し潰された。
イーター討伐に関わるのはヒーローだけではない。ALIVEという会社、地域を管轄する役所、警察、消防、さまざまな人々が関わる。それだけでなく市民たちからもヒーロー活動に対しての応援やクレームは多い。
子供たちがイーター討伐に専念できるようにと率先して非難の防波堤を務めた。
けれど反面、身勝手な主張で周りを顧みないヒーローもいた。
ルールを守らずにわがままに振る舞うことを、どうにか言い聞かせるのも自分の仕事だと割り切っていたけれど――うまくいかなかった。
かすかに残ったヒーロー活動への情熱だけが支えだった。
そうして、ある日かかってきた一本の電話で、最後の熾火は燃え尽きた。
それからはただ、己の役割をこなすことだけに努めた。
大人として。社会人として。
そして元・白星第一学園の候補生として。
――――現場への出動サイレンを聞くと胃痛と嘔吐感を覚えるようになったのは、いつからだっただろうか。
「現場に戻りたいと希望したものの、実際に現場に立つと昔を思い出してしまうことはめずらしくない。広報室の――くんも、君同様、一度は現場に立った身だ。きっと君の力になってくれるから、相談するといい」
顔を上げると、強面の事業本部長が何とも言えない表情をしていた。口の両端を持ち上げていたので、恐らく――多分――きっと、自分をなぐさめるために笑おうと試みていたのだろう。
はい、と掠れた呟きだけを返してなんとか頷く。
自分のように現場へ帰ることを望み、現場に帰った結果、その地位に背を向けた人間が他にもいる。自分のようなものはめずらしくない。
今はただ自分の惨めさを自覚するだけの言葉だったけれど、いつかはなぐさめとして受け止めることができるかもしれない――握り込んだ掌の小さな傷が、かすかに痛んだ。
「お気遣い、ありがとうございます。室媛部長」
何とかそれだけを絞り出して、頭を下げた。
すっかり冷めたコーヒーを一息で飲み干してカップを置く。胃がずきずきと痛んだ。忙しさを理由に後回しにしていた健康診断のことを思い出してうんざりする。
失礼します、とよろめきながら立ち上がる。
「時枝くん」
事業本部長も立ち上がり、こちらに向かって手を差し出していた。
社会人の反射で何も考えずに手を出すと、思いのほか強い力で握られた。
「これからもどうかヒーロー諸君のために力を貸してくれ」
「――――はい」
自分にもうその資格はないのだと言いだせないまま、身を震わせる。
情熱を失い、勇気も血性も無くし、青春時代の面影にすがるようにヒーロー活動から離れられずにいる。けれど一度電話の声に応えた罪の意識も、きっと一生手放せない。次の電話がいつかかってくるのか、かかってこないのかもわからない。
ただそれだけのことに怯える己が滑稽だった。
昔は、イーターを前にして勇気を奮い起こすことしか考えていなかったのに。
事業本部長の部屋を辞して、ゆっくりと溜息を吐き出す。
自分はもう、子供ではない。
沈んだ泥の中で精一杯呼吸するしかない大人だ。
閉じた瞼の裏に、勇気を謳うまばゆい子供の――否、ヒーローの姿が浮かんだ。腹の底で灼けるものがもはや情熱と呼べるものではなく、嫉妬や羨望であることは否定できなかった。