星屑のゆくえ バン、と机が叩かれる音が狭い部屋いっぱいに響いた。
六名分の椅子がテーブルを囲む小さな会議室だ。窓はない。半透明のガラスドアの向こう側を、時々人の影が通り過ぎていく。室内にはテーブルを挟んで座る二人の人物しかいない。制服姿の高校生と、スーツを着た男だ。
その片方が、机に掌を叩きつけた格好のままで叫んだ。
「ヒーロー活動停止処分 ふざけんな どんだけ苦労してレギュラーになったと思ってんだ!」
狭い室内で大声を出さなくても相手に聞こえる、という配慮は頭から抜け落ちているらしい。テーブル越しに大声を浴びせられた時枝は、眉間に深くしわを刻んで嘆息した。
「ヒーロー登録を抹消されなかっただけましだと思ってもらいたい」
できるだけ静かに言葉を紡ぐ。が、相手の怒りを煽るだけだった。
「変わんねーよ! 他の奴にレギュラーとられちまうじゃねーか! こっち高三なんだぞ。卒業まであと三ヶ月なんだし大目に見ろっつーの! 推薦だって取り消されたらどーすんだよ。あんた、責任とれんのか。何様のつもりだよ!」
叫びながら、もう一度、怒りもあらわにテーブルを叩く。
憤然と吊り上がる眉。強く睨んでくる眼差し。歯を剥いて唸る形相は、明らかに怒っている。それも並大抵の怒りではない。そして相手がその怒りを、激情を、堪える気が全くないということも伝わってくる。座っている二人の間にテーブルがなければ、今頃、胸倉を掴まれていたかもしれない――…。
そう考えて、時枝はゆっくりと嘆息した。
今までの経験上、話をするために狭い会議室を選んで正解だった。この狭さならばテーブルを挟んで会話せざるを得ないので、相手が突然殴りかかってこようとしても逃げる隙がある。
(嫌な経験だ……)
かつて、同じような話をして、やはり激昂した相手に殴られたことを思い出す。その時の相手の顔も、名前も、所属校も、ヒーロー登録番号も覚えている。殴られた後で、彼と彼が所属する学校に対して時枝自身が通達した処分も。
口の中に滲んだ鉄錆の味を思い出しながら、時枝はゆるく首を振る。
「日頃からの振る舞いがわかるものだな」
小さく呟くと、また、相手が「ああん?」と唸った。
時枝は眉間のしわを深めたまま、テーブル越しに相手を見遣った。
時枝より一回り以上若い。まだ幼さが顔に残る少年だ。
そしてALIVE所属ヒーローの一人だ――――今はまだ。
「何様のつもりだ、と言ったな。私は喰核生命体対策本部管理部監視官。私の仕事は、君たちヒーローの監督と管理、評定だ」
時枝は意図的にゆっくりと言葉を紡いだ。声のトーンは平坦に。感情も排除する。
「そして君たちがイーター討伐に伴い、都市、市民へもたらした被害の調査内容を鑑みた上で、処分を決定している」
平坦に喋るのは、相手を落ちつかせるためだ。
怒りを爆発させる相手に、何を言っても響かない。相手に聞く余裕がないからだ。だからこそテーブル越しに相手の両目をじっと見据えたまま、目を逸らさない。これは随分昔に身に着けたことだ。感情を爆発させ、怒りや恐怖で混乱している人間に、まず、こちらが言葉を届けようとしていることを理解させる。だから、目を合わせてゆっくりと話す。
かつて、白星第一学園のヒーロー候補生として活動している時、イーターに襲われてパニックになった人々を落ちつかせるために、何度もやってきたことだ。
「ヒーローらしからぬ振る舞いが目立つ君を、登録抹消処分にするよう提案する権限も持っている、といえば少しは理解できるかな」
テーブル越しに座る少年が、時枝にもはっきりとわかる音で舌打ちする。わざとだろう。
「脅しかよ…! クッソ偉そうにしやがって。イーターが出たらびびってシェルターに逃げるくらいしかできねーくせによ」
少年がテーブルの上に置いた手を握り込む。今度はテーブルを叩くことはしない。衝動的な怒りは少し落ち着いたらしい。それでも、表情にも態度にも、苛立ちがありありと浮かんでいる。
時枝は手元に置いていたファイルの表面を、軽く指で叩いた。少年の視線がそちらに引き寄せられる。そのファイルの中身については既に口頭で説明していた。
「これまでにどれだけ苦情がきたと思っている? ALIVEのヒーローとして、学校の校章も背負う身として自覚を持ち、ふさわしい振る舞いをしてもらいたいものだ」
「はっ! なんだよそれ。特撮のヒーローみたいに正義でも気取れってか? こっちは命がけでイーターと戦ってんだけど」
ファイルにはALIVEに直接――あるいは区役所や学校を通して届けられた少年宛の苦情をプリントアウトした資料が収められている。必要があれば読ませて、自身の行状について理解させるつもりだった。だがこの調子では、見せたところで読む気などなさそうだった。それどころか、渡しても投げ捨てかねない。
「どこのどいつの苦情だか知らねーけどさあ。それくらいで活動停止処分とかありえねえだろ。お前がいやがらせでわざと重い処分にしてんじゃねーの、オッサン」
わざとらしく肩を竦めてみせて、少年が時枝を睨む。
その眼差しに名前をつけるのならば、敵視、と呼ぶのがぴったりだった。実際、少年にとって自分は間違いなく敵だろう。
「処分の基準については、ヒーローの業務規約に明記されている。ヒーロー登録時に君も同意している筈だが?」
「ははっ。そンなの誰も読んでねーよ」
少年が顎を上げ、時枝を見下ろすようにして笑った。それを大人に反発する子供の青臭さと呼ぶには、些か強い侮蔑が滲んでいた。
ふ、と浅く息を吐いて時枝はわずかに目を伏せた。そしてもう一度、少年を真っ直ぐに見遣る。ゆっくりと。平坦に。感情を排除する。それが、時枝の職務だ。
「業務規約とは、ヒーロー活動の最低限のルールだ。君が業務規約を把握していようといなかろうと、君たちの評定はそれを基準にして行われている。無知を棚に上げ、恥じる気すらないのかね」
「てめえ! バカにしてんのか!」
ガタッ。と少年が椅子を蹴倒して立ち上がる。
けれど時枝は眉ひとつ動かさなかった。
「座りなさい」
短く告げる言葉に、少年は従わない。それどころか、またしても威嚇するように、バン、と強くテーブルを叩いた。テーブルに置かれた資料がかすかに跳ねる。それを時枝は視界の端で認めた。
「活動停止処分と判断するに至った具体的な評価内容は、事前に書面で通達した通りだ。――が、その態度だな」
「ンだって? 態度悪いのはオッサンだろ。上から目線でクッソむかつく」
嫌悪を隠しもせずに、少年が顔をゆがめる。
テーブルさえなければ殴りかかられているところだな、と考えながら、時枝は少しだけ視線を横に揺らした。半透明のガラスドアを、また人影が通りすぎていく。この部屋は喰核生命体対策本部の管理部の一角にあるブースだ。対策本部の受付を兼ねた管理部には職員が常駐している。ドアさえ開ければすぐに助けを求めることができる。そのことを――念のため、確認した。
その上で、時枝は少年に視線を戻した。時枝を見下している高校生。否、時枝だけでなく、自分と同種の人間以外の一切を見下している少年を。
「君は、ヒーローを特別な人間だと勘違いでもしているのか」
「はあ?」
少年が首を傾げる。きょとんと目を瞬く様子だけ、年相応だった。
「特別に決まってんじゃん。普通の奴よりずっと血性だってあるし、だからイーターと戦えんだろ」
物わかりが悪いとでも言いたげに、少年の顔がゆがむ。時枝を見下ろす眼差しがいかにも不快そうだった。
「っていうか、そもそも俺たちがイーターから守ってやってんだぞ。感謝されても、文句を言われる筋合いなんかねーっつうの。苦情とか言ってきたのどこの奴だよ。教えろよ。マジでサイアク。イーターが出ても絶対守ってやんねーし」
苛立たしげに吐き捨て、少年が椅子に座り直す。先程、蹴倒した椅子は床に転がしたままだ。元に戻して座るという考えはなかったらしい。
時枝は胃の腑から込み上げてくる苦さをどうにか飲み込んだ。手元にある苦情の資料は見せないほうがいいと確信した。発言者の名前は黒塗りにしてあるが、どこの地区から上がってきたものかは書かれている。目の前の少年に見せたら、その地区を覚え――報復しようとしかねない。それだけは避けなくてはならない。
こらえきれなかった溜息がひとつ、こぼれ落ちる。
「はあ……処分中に今一度、自身のヒーローとしての在り方を省みて、反省文を提出するように。それと社会貢献活動への参加を……」
どうにか規定通りの言葉を時枝が口にした途端、少年が再び「はあ?」と唸った。
「活動停止処分のほうを取り消せよ。ヒーロー活動だって、社会貢献活動ってヤツだろ。なんでわざわざ別のコトしなきゃいけねーんだよ。意味わかんねー」
「嫌なら構わん。活動停止処分のまま、二度とヒーローになれず卒業することになるだろう」
「脅しばっかで汚ねーぞ! 戦えねえくせに、大人だからって偉そうにしやがって…!」
少年の拳がテーブルを殴る。これで何度目だろうか。この短時間ですっかり慣れてしまった。否、だいぶ前から慣れていた。彼のように反発し、我を通そうとする子供の悪態に。
うんざりとした気持ちを胃に溜め込む時枝の表情には気づかず、少年は顔をしかめている。
「苦情言ってきた奴だってそーだろ。俺たちに守られてんのに、ぐだぐだ文句ばっか言うんじゃねーよ」
「イーターへの過剰な攻撃による道路や建物への被害、及び市民避難誘導時の恫喝や脅迫行為……それらが全て適切な行動だったと言う気か? 例えば、八月二十五日の吉田通りでの討伐では、交戦指定エリアが近かったにも関わらず――…」
「ンなのいちいち気にしてねえよ。キンキュー時の対応って奴じゃん。現場いねーのに文句言うなよ、オッサン」
「では、無防備な市民にイーターをけしかけた件はどう釈明する?」
「ああ?」
「十月十八日、土曜日。栄町四丁目での中型イーターの討伐だ」
何度も読み込んだ資料をめくる必要はない。時枝の言葉に少年は首を傾げてから、思い出したように小さく頷いて、笑った。
「ああ、アレかよ。はは。だってあいつ、ヒーローはガキのごっこ遊びって言いやがったんだ。幼生体も見えねえのにイーター退治の真似してるって笑いやがった。イーターと戦うのに、俺たちが命張ってやってんだぜ。わかってもらうにはイーターの前に立ってもらうのが一番だろ? ちょうど幼生体が中型イーターになったから、よく見えるように真ん前に連れてってやっただけ。ぎゃーぎゃー叫んで逃げるのうっせーし、騒ぐからイーターが追いかけるしで傑作だったわ」
その時のことを思い出したのか、少年がけらけらと声を上げて笑う。
時枝は溜息を吐いて首をゆるく振った。けれど少年はそんなことには気づいていないらしい。大仰な仕草で手を振り回し、逃げる市民の真似をした後で、時枝を見遣り――嫌なものでも見た、というように顔をしかめた。
「こっちが命がけでやってんの全然知らねえで、安全なとこで文句ばっかりよお。あんただってそーだろ。たまには現場に出てこいっつーの。大型イーターの口の前まで連れてってやっからさ」
少年はそうしてまた、笑った。
時枝はわずかに目を伏せて、少年の直近の定期検査の結果を思い出そうと試みた。果たして精神適性検査は判定値をクリアしていたのだろうか。とはいえ精神適性検査の内容は基本的に同じだ。判定基準を知っていれば、ある程度ごまかせるものでもある。
(検査内容の定期的な更新を、進言する必要があるな……)
心の中でやるべきタスクをひとつ増やし、少年に注意を戻す。
少年は椅子の背もたれに身体を預け、腕を組み、時枝に胡乱な眼差しを向けていた。
「っつーか、苦情だってほんとに苦情かよ。ただのやっかみじゃねーの。あんだろ、そーいうの。ヒーローになりたかったけど、なれなかった奴の嫌がらせ! 俺らヒーローに嫉妬してさあ。マジでいい迷惑。そいつらの嫌がらせで俺が活動停止になんのありえねーっての」
少年は、心底うんざりした様子で顔をしかめた。
「……反省はないようだな」
これ以上の会話の必要性を感じられず、時枝は何度目かの溜息を吐いた。
今日のこの会話は、目の前の少年のヒーロー活動停止処分の通達と共に最終審査でもあった。少年に反省や改善の意志が見られれば、活動停止処分の期間短縮の可能性もあった。このままでは逆に活動停止処分の延長を提案せざるを得ない。
その場合、彼は卒業までヒーロー活動に戻ることはできない。
つまり、登録抹消に限りなく近い処分だ。
「通達は以上だ」
短く告げて、時枝は立ち上がった。
少年に対する苦情の束が挟み込まれたファイルを小脇に抱える。
少年はなおも、時枝に敵意をむき出しにした眼差しを向けている。その眼差しを、職員や市民ではなく、イーターだけに向けてくれればまだ健全であるものを――と湧き上がった気持ちを飲み込んで、言葉を紡ぐ。ゆっくりと。平坦に。感情を排除して。
「リンクユニットは既にすべて提出してもらった筈だが、活動停止処分中に隠し持っているリンクユニットを使用した場合、理由の如何に関わらず即時登録抹消処分となる。そのことを忘れないように」
「てめえ、オッサン! 覚えてろよ!」
少年が机を殴って叫ぶ。
時枝はわずかに眉間にしわを寄せて、少年を見返した。
「私怨――個人的な恨みによる暴力行為も、当然、登録抹消処分だ。ヒーローの業務規約を読み直し、反省文の提出と社会貢献活動の報告をするように。ヒーローの経歴を伴って卒業したいなら、君の態度次第だ」
「脅しやがって! クソ野郎 ふざけんな!」
少年がテーブルを蹴る。大きく動いたテーブルが、先程まで時枝が座っていた椅子にぶつかって鈍い音を立てる。
それを見なかったことにして、時枝はさっさと会議室を出た。
室内からは罵声と何かを蹴り飛ばす鈍い音が聞こえてくる。少年は落ち着いたら帰るだろうが、その後で会議室の片づけをしなくてはならないだろう――思わず覚えた鈍い頭痛に時枝が嘆息する。と。
「お疲れさまです、時枝さん」
すぐ横から声をかけられて、時枝はハッと振り返った。
会議室の扉のすぐ横に、白衣の男が立っていた。
「神ヶ原さん……」
開発室室長と記されたIDを首から下げた男が困ったように眉を下げて笑っている。通りすがりに時枝とぶつかりそうになったわけではなく、会議室の前にずっといたらしい。完全防音処理の施されている会議室ではなく、打ち合わせに使うような小部屋だ。神ヶ原の立っている場所であれば、室内の声は聞こえていたに違いない。
神ヶ原は言葉を選ぶ様子で、ちらりと室内を見遣った。
「例の通達ですか」
「ええ。ですが、遅かれ早かれ彼は活動停止処分を破って登録抹消になるでしょうな」
部屋の前に立っていては、少年が出てきた時にまた一悶着起こしかねない。話すなら歩きながら、と時枝が仕草で促すと、神ヶ原も頷いてついてきた。
「任意提出したリンクユニットの数と使用報告の数が合わないですし、いくつか隠している筈です」
「うーん……でも予報なしで出現したイーターと遭遇した時に、身を守るためにリンクユニットを使ってしまうことはあるかもしれませんし」
「そういう時は、即時通報してシェルターに避難。一般市民は皆そうしています」
「今はまだ、活動停止処分にショックを受けているだけかもしれません。頭を冷やしたら、ちゃんと反省するかもしれませんよ。様子を見守ってあげてはどうですか」
「甘いですよ、神ヶ原さん。あの態度では改善も見込めません。今度また、彼が市民にイーターをけしかけて死傷者が出た場合、責任をとるのはALIVEです」
フロアの中央、エレベーターホールの近くにある自販機ブースで足を止め、時枝はインスタントコーヒーの販売機にIDをかざしてボタンを押した。すぐに音を立てて機械がコーヒーを淹れ始める。
時枝は重い溜息をひとつ吐いて、手元のファイルを見下ろした。
「ヒーローは決して、特別な人間などではない」
会議室の中で、少年が時枝に向けてきた視線を思い出す。あれは時枝だから向けられたものではない。ヒーローではない人間、大人、そういう、自分にとっての敵や格下の相手を見る眼差しだった。
「他の人間より優れている存在などという勘違いは、やがて大人になれば自然と気付くもの……ですが、だからといって彼等の傲慢や我儘を許していい理由にはならない。それで傷つけられるのは、本来彼等が守るべき市民なのですから」
神ヶ原は「ううん」と何か迷うように曖昧な呟きを漏らす。
時枝はちらりとその表情を窺った。どこか気弱そうにも見える神ヶ原は、ヒーローや候補生たちにそこそこ人気がある。穏やかで親しみやすく、他の職員――大人に比べて、話しかけやすいらしい。フレンドリーといえば聞こえはいいが、時枝から見れば子供たちに舐められていると感じる時もある。
神ヶ原という男は、ヒーローを守る戦闘服や武器、リンクユニットの開発に関わる立場だからこそ、子供たちを守りたい、彼等に寄り添いたいという意志を隠しもしない。
組織の中でそういう人材も必要だということは、時枝にもわかる。イーターと戦う適性が子供たちにしかない以上、せめてその子供たちを守るためにと、神ヶ原が力を尽くしていることも理解できる。
ただ、子供たちへの接し方が、時枝とは合わない。それだけのことだ。
意を決したように、神ヶ原が顔を上げる。
「……それでも僕は彼のような子とも、もう少し話し合ってみたいと思いますよ」
困ったような顔をして神ヶ原が言う。押せばたやすく流されそうな風貌に反して、彼が言い出したら全く引かない性質であることも時枝は知っていた。
だからこそ、神ヶ原が子供たちに舐められていると感じても放っている。それくらいのこと、いざとなれば大人としてあしらえるとわかっているからだ。とはいえ、舐められたまま放っていることは理解できない――これは時枝の心情の問題だ。
「私ならカウンセラーに任せますよ。ご心配なら彼にも紹介するといい」
「はい。そうします」
コーヒーを淹れていた機械が、出来上がりの音を鳴らす。「できたッシュ!」と朗らかな音声で告げてくるのだけはどうにも時枝の性に合わないのだけれど、このALIVE本社に設置されている自販機はどれもそういうボイス付きの仕様だ。嫌でも慣れざるを得なかった。
出来たてのコーヒーが、苦い香りを漂わせる。
神ヶ原もコーヒーを買うだろうかと時枝が視線を向けると、神ヶ原は首を横に振った。
「では」と時枝が会釈して踵を返す。
「あの」
引き留める声に振り返ると、神ヶ原が真っ直ぐに時枝を見つめていた。
「どうか、子供たちをあきらめないであげてください。彼等がヒーロー活動に取り組む姿勢も理由もそれぞれですから、個々にじっくり話を聞いて――…」
「ですから、それはカウンセラーの仕事です。馴れ合いは正しい評定を妨げるので、私の職務とは適さない。それだけです」
「ああ、はい。そう、ですよね……」
しおしおと萎れた様子で神ヶ原が視線を下げる。
時枝は今度こそそちらに背を向けて、自販機ブースを出た。部署のデスクに戻る前に、先程の会議室の様子を確認しなければいけない。少年が帰っていれば部屋の片づけが必要だ。まだ帰っていなければ、時間を置いて、改めて様子を見に行く必要がある。
数歩離れたところで、自販機ブースのほうからガコン、と音が聞こえてきたので、神ヶ原は神ヶ原でペットボトルか缶でも買ったようだった。
時枝が神ヶ原と話している間に、少年は帰ったらしい。
無人の会議室には、斜めになったテーブルと、転がった椅子が二つ残されていた。
溜息を吐き、時枝はまずテーブルの位置を直すと、そこにコーヒーカップを置き、倒された椅子をひとつずつ戻していった。そうして直したばかりの椅子に腰を下ろす。まだ湯気の立つコーヒーを口に運ぶと、熱い苦みが胃の中へ落ちていった。
「はあ……」
ヒーローになる子どもたちは、総じて意志が強く、各個たる我を持っている。当然だ。そうでなければ魂を保てない。だがそのぶん、我を通し過ぎる問題児が、実に多い。
喰核生命体対策本部では、ヒーローや候補生と直接関わらない職員のほうが圧倒的に多い。時枝も現在の職務に就くまでは、現役のヒーローたちと接する機会はほとんどなく、ヒーローといえば報道で見かける姿や、自分がヒーロー活動をしていた頃の記憶のイメージばかりだった。
(ヒーロー時代の先輩たち……星乃一族の連中はそういうものだと諦めていたが、まだまだかわいいものだったな)
手元に抱えたままだった資料のファイルをめくる。
役所、警察、市民からの名指しの苦情。ヒーローたちが活動時に纏う戦闘服には校章とヒーロー登録番号が記されているので、何かしらの問題があった場合、誰がやったのかはすぐにわかるのだ。何よりヒーローたちには、学校ごとにいわゆる縄張りというものがある。住民たちは自身の生活エリアを担当するのがどこの学校のヒーローなのか、どんなチームカラーなのかも知っている。
ヒーローの活動は、逐一市民に見られている。
それなのに――ファイリングできる量の苦情が溜まるまで、あの少年は自分勝手に振る舞い続けてきた。
道路や建物への被害が最小限であるよう努めることをしない。
守るべき市民を危険に晒して嘲笑う。
彼の行為に対して、謝罪や反省の機会はその都度あった。けれど少年は無視し続けた。彼の代わりに壊れたビルの所有者に頭を下げたALIVEの職員のことも、おたくの生徒に酷い目に遭わされたと学校に抗議した市民に謝罪した教師のことも、彼の頭には残っていないのだろう。
でなければ――苦情を言いがかりかもしれないなどと言う筈がない。
彼自身が選択した行動の積み重ねの結果が、活動停止処分なのだ。
もう何度も読んだ苦情の文書を読み返しながら、時枝は眉間のしわを深めた。
(ただ、彼の言い分も、全てが悪いというわけではない――…)
神ヶ原の顔が浮かぶと同時に、資料をめくる手が止まった。
ヒーロー活動を軽んじる市民がいるのもまた、事実だ。
特にイーターの幼生体は、血性がある人間でも見えない。定期的にリンクユニットやリンクチップを使用しているヒーローや候補生にしか視認できないのだ。時枝も現役の候補生だった頃には見えていたが、卒業してリンクチップを使用しなくなり、血性値が減少するのに伴って見えなくなった。
中型や大型のイーターになって、初めて一般人はイーターを視認できるようになる。見えない幼生体と真剣に戦うヒーローが、傍からどう見えるのか。時枝は大人になってから知った。
避難命令に従わずに戦闘に巻き込まれたにも関わらず、ヒーローが守ってくれなかったと苦情を申し立ててきた市民を知っている。わざわざイーターに近づいてスリリングな動画を撮ろうとした者を庇って怪我をしたヒーローを知っている。人気のあるヒーローをアイドルのように捉え追いかけ回すファンを避難させようとして、暴力を振るわれた候補生がいることも知っている。
そうした市民とのやりとりの中で、心をすり減らし、何を守るべきか見失ってしまった子供たちのことも。
口に運ぶコーヒーの味が苦味しか感じられない。飲めば飲むほど胃が焼けるように痛んだ。
市民たちは命の安全を軽んじて、自分の都合を優先し、ヒーローの指示に従わない。
ヒーローたちは自分のことを特別だと信じて、身勝手に振る舞い、規則や秩序をないがしろにする。
候補生時代の経験と、この職務に就いてから直面した鈍色の現実は、時枝の心を凍りつかせるのに十分だった。かつて胸を焦がしていた情熱はとうに燃え尽き、諦めに変わった。
今の時枝を突き動かしているのは、心の底に残る燃えかすのようなひとかけらと、そして――――。
不意に、背広の内側に入れていた携帯端末が振動する。端末を取りだし、画面を確認した時枝の喉の奥がヒュッと鳴った。すぐにタップして通話に切り替える。
「お待たせしました」
短い挨拶の後、すぐに状況の確認について問われる。
空調が効いている室内なのにどっと汗が噴き出して、時枝はハンカチで額を拭った。
「大丈夫です。彼が卒業までに処分が解除されることはありません。ええ。はい。新しいメンバーの登録申請が出されればすぐ受理されるよう、管理課に連絡しておきます」
話しながら、半透明のガラスドアのほうを窺う。人影が通り過ぎるのが見えて、時枝は思わず身をかがめた。片方の手で口元を覆うようにして声を潜める。
「完全に登録抹消できなかった理由ですか。それはその、規定上、活動停止処分で一定期間様子を見るというのが必要でして――ええ。もうひと押しがあれば、可能です。例えば、処分中なのにリンクユニットを使った、とかですね。はい。放っておいても結果的にそうなると思いますが――失礼しました。確実に。はい」
胃が、ぎゅっと絞られるような感覚があった。
たった今、一人の少年の未来が決まった。
ほんの数分の会話で彼の将来を断つ命令が下され、時枝はそれに頷いた。
理由は――星の威光を汚した。それだけだ。かの少年に対して苦情を申し立てた名前の中に、星に連なる名があった。少年自身は永遠に知ることがない事実だ。
通話が終わり、画面をタップすると、時枝は深く長い溜息を吐いた。泥のような色をしたコーヒーがまだカップに残っているけれど、それを飲む気にはなれなかった。飲んだ途端に吐いてしまいそうだ。
(星乃、一族)
唾を飲み込むだけで喉が締まるような感じがした。錯覚だ。それはわかっている。
けれどどうしても、自分の首に細い縄がかけられているように感じられてならなかった。その縄は大学卒業後、ヒーローに関わる仕事がしたいとALIVEへ就職した時から、ずっと時枝の首をゆるく締め続けている。
学生時代、星乃一族ではないというだけで閉ざされたレギュラーの枠。それでも中高の六年間、人と街を守ることに青春を懸けて駆けた。その延長で選んだ仕事でも、白星出身というだけで幹部候補として扱われた。
一度、星に触れたら、もう二度と逃げられないのだと理解したのはいつだったか。
年齢のわりには早い出世で、監視官の職務を与えられた日だったろうか。能力を評価されて辞令が下りたのではなく、星の啓示を為すために選ばれたのだと知った。
ヒーローたちと直接関わる――ヒーロー活動の現場に戻れた喜びと、彼等の評定を行う責務に対する重圧に震えた。そして星の采配どおりにヒーローたちを扱わねばならないという『本当の責務』を理解して、恐ろしくなった。
自分が、星の意志を反映するために置かれた駒なのだと理解することは嫌だった。けれどそれを拒む選択肢は選べなかった。そんな勇気はなかった。それにきちんと責務を果たせば、星の金貨が積み上げられることを知ってしまった。その金貨が、首に縄をかけられた恐怖を和らげてくれることも。
(ああ、そうだ……どんな顔をして、子供たちに説教をするというんだ)
ゆっくりと。平坦に。感情を排して子供たちに接するのは、自分にそんな資格がないからだ。臆病に震える声を隠し、恐怖に竦む顔に仮面をかぶり、掴んだ金貨をふくらんだ腹に溜め込んで、公正な大人のふりをする。そんなことばかりが上手になってしまった。
少年ヒーローが脅したようにイーターの前に連れていかれなくても、『恐怖』は十分に知っている。
この街で暮らす以上、星は常に全てを見ている。
耳をふさいだところで、星の声は聞こえてくる。
星の理に抗うすべなど何もない。
星に抗えるのは、確固たる意志を持った――ヒーローくらいだ。そして自分はそのヒーローになれなかった。星の意志に屈する今となれば、だからこそヒーローになれなかったのだとわかる。
ヒーローになる資格も、血性も失われ、星の示す道こそが正しいと思いこむことで、自分の弱さを補強している。星の示す道から踏み外せば、絶望より深い恐怖が待っている。
星の意志にがんじがらめに縛られてしまった自分ができる精一杯は、狭い道での歩き方を考えるくらいだ。
(人と街を守るために。ヒーローを……彼等を守るために。私自身を守るために……)
(今の私ができることは――…まだ何か、あるのか…?)
時枝は深い溜息を吐きだした。思考がばらばらと砕けていく。近いうちにヒーロー登録が抹消されることが決定した少年に、神ヶ原はカウンセリングを勧めると言っていた。それは間違いなく必要になるだろう。活動停止処分になるだけで、あれほど荒れたのだ。問題を起こさない筈がない。
ALIVE社内や学校にいる、同じように星の縄が首にかけられた人々に、根回しをしておかなくてはならない。
やるべきことがある。それもできるだけ早く、やらなくてはならない。
けれど椅子から立ち上がることができずに、時枝はファイルを抱えてうなだれた。飲み残したコーヒーがすっかり冷めるまで、どうしても座り込んだまま、動けなかった。
「時枝さんかあ。真面目な人なんですけどね。あ、これ差し入れです」
本部長室の机に書類とコーヒーの缶を置いて、神ヶ原はそう呟いた。
「ふむ。神ヶ原くんは相性が悪そうだな」
「たまにおしゃべりはしますよ。あとヒメさん、僕だって真面目にやってますからね」
「はは、失礼」
文章を打ち込んでいたパソコンから顔を上げ、室媛はやわらかく微笑んだ。微笑んだつもりらしい。けれどそれは神ヶ原から見れば随分怪しい笑い方だった。少なくとも幼い子供が見たら怯えるか逃げるかするだろう、と確信できる程度には。
「時枝くんか……」
顎のあたりを撫でて、室媛が視線をさまよわせる。
時枝に関して、一部のヒーローから苦情が上がっていることは室媛の耳にも入っていた。苦情というよりも、愚痴と呼ぶほうが合っているかもしれない。ヒーローと親しく接する機会の多い神ヶ原相手に「あの監視官、むかつく」というぼやきがこぼされていることを、神ヶ原が室媛に告げたのだ。
「神ヶ原くんとやり方は異なるが、彼は彼なりに、子供たちを守ろうとしている」
「ええ。高校を卒業して、ヒーローでなくなってからも、彼等の人生は続きますからね」
「ヒーローであることで奢り、法や礼節を軽んじて、将来しっぺ返しを喰らうのは彼等自身だ。ヒーロー時代に顔と名が知られ、恨みをかって、卒業後に仕返しに遭った事件もあれば、傷害事件を起こし、ヒーロー登録を抹消され、それをきっかけに非行に走った例もある。時枝くんはそうした『可能性』から子供たちを守っている」
神ヶ原にもそれはわかっている。
時枝が立場上、公正さを保つために、ヒーローたちと親しく関わらないようにしていることも。
けれどそのせいで、時枝に対しての反感が放置されていることも懸念せざるを得なかった。実際、時枝から処分を下されたヒーローが激昂して暴力を振るい、処分がより厳しくなったこともあった。そうした話もまた、ヒーローたちの中で時枝を『わからずやの大人』の代表に仕立てるのに一役買っているらしい。
「ルールを徹底し、秩序の範囲内で活動することを意識させる。これはヒーローを統括するALIVEの責任だ」
「はい」
神ヶ原が頷くのを確認し、室媛が言葉を継ぐ。
「時枝くんが監視官に就いてから、警察や市民からの苦情はだいぶ減ったよ。ヒーロー活動に伴う法令違反も少なくなり、ヒーローを辞めざるを得ない子たちも減った。時枝くんの厳しさは、子供たちが道を踏み外さぬよう、彼等の未来を慮ってのことだ。子供たちにはなかなか伝わりにくいことだがね。先程のように悪態を吐かれることのほうが多いようだし」
「あ、ヒメさんも聞かれていましたか」
「少しだ。管理部のほうに用事があったものでね」
会議室の近くを通りがかるだけで聞こえるほどの勢いで、年若い高校生に威嚇され、罵倒されながら、淡々と処分についての通達を行う。それをこなせるだけでも尋常なメンタルではない。
「さすが、元白星の方ですねえ」
ヒーロー希望者が多い白星第一学園では、レギュラーに求められる水準が都内で一番高い。他校でレギュラーになれる実力があっても、一度もレギュラーになれず、候補生のまま六年間の活動を終える学生も多い。時枝もそうした元・候補生のひとりだと神ヶ原は耳にしていた。
成人してから随分経ってるとはいえ、都内トップ校出身の元ヒーロー候補生のメンタルは伊達ではない。
室媛も小さく頷き、「だが」と言葉を続けた。
「嫌われる役目は負担も大きい。彼もまた、自分自身を追い詰めなければいいのだけれど――悩みごとがあればフランクに相談してもらいたいものだ」
「上にいるヒメさんがそれをわかってくれているだけでも、違うと思いますよ」
「そうであることを願っているよ。近いうちに面談を設けてみるかな」
「いいと思います。立場上、他の人にも相談しづらいでしょうし」
定期的な面談は職務の一環だけれども、雑談の中でふとこぼせる心情というのもあるだろう。
そう考え――神ヶ原は先程自販機エリアでの時枝との会話を思い出した。話すことははっきりとしていて、神ヶ原とスタンスが違うことを理解した上で、己の指針を曲げなかった。
その在り方は彼の職務には適しているが、子供たちと会話する上ではどうしたって反発を招くだろう。人の話に耳を傾けないわけではなく、むしろ神ヶ原が言葉に迷っている間もじっと待っていた。話をよく聞く人だ。相手の言い分に耳を傾けた上で答えを返す。けれど、言うべきことをはっきりと告げ、やわらかさを挟まない。
時枝は自分の職務に賭けて、その在り方を曲げないだろう。
「難しいですねえ」
ぽつりと言葉をこぼして、神ヶ原は小さく首を振った。親しい友人でもない自分が口を出せることではない。
「彼の負担を軽くするためにも、西と北の代表校が早く決まるといいのだが」
「評価担当の時枝さんが厳しい上に、代表校を狙う学校同士が競い合っていますからねえ」
「互いに邪魔してマイナス点を積み上げていては、決まるものも決まらない」
ふう、と嘆息して室媛がデスクの引き出しから一冊のファイルを引き出す。
各校の評価点を月別にまとめたリストだ。未だに代表校が決まっていない西エリアと北エリアは、いずれも拮抗していて、代表と呼べるほど突出した成績を残す学校がなかった。学校同士が競い合うこのシステムでは、ヒーローたちが点を得るために無茶な行動をした結果、役所や市民からの苦情を増やす一因にもなっている。
代表校さえ決まれば、そこをトップとした指示系統が組めるのだけれど。
「その上、エリアの線引き自体を見直す話も出てきている」
「ああ、例の星乃一族からの打診の件ですか。その場合、北エリアの学校からは反発が出そうですねえ」
「なかなかすんなりとはいかないものだな」
ぱらぱらとめくったファイルを閉じて、室媛が溜息を吐き出す。
神ヶ原も深々と頷いて、視線を揺らした。
部屋の壁には都内全域を映した地図が表示され、各エリアの定点に設置された計測器が各地のブリンカー濃度を示している。一定以上の値になれば、イーター出現警報としてアラートが鳴るシステムだ。今のところ、都内ですぐにイーターが出そうな数字になっている場所はない。
「イーターの対応だけに頭を絞れたらいいですねえ」
「全くだ」
神ヶ原の呟きに、室媛も苦笑した。
「君も何か悩みごとがあったら遠慮なく相談してくれ、神ヶ原くん」
「ありがとうございます」
ふにゃりとやわらかく笑って、神ヶ原が会釈する。
それから二、三、話をして神ヶ原が退出すると、室媛はデスクの電話に手を伸ばし、管理部にかけようとして――思い直して、手元の私用端末を操作した。時枝本人と話をする前に、確認しておくことがある。それによって室媛も対応を変えなくてはならない。
そうして室媛は、星に連なる番号をタップした。
「――こんにちは。室媛です。時枝くんのことで、少しよろしいですか」
本部長室は機密管理のためにしっかり防音処理が施されている。だから声を潜めることもなく、室媛は喋り出した。