一緒に月を食べてもいい 衣装係として初めて与えられた仕事は、シャツのボタン付けでもなく、布の裁断でもなく、破れたクッションの補修作業だった。
やりやすい縫い方でいいから、と、ゼパルさんから手渡された、紫のクッションと縫い糸。青く塗られた地下の部屋で、初めて見る正方形のクッション。金色の糸で刺繍がされていて、一目でゼパルさんの手作りだと分かった。悪魔執事になって日は浅かったけれど、ゼパルさんが見せてくれた刺繍案の中に、その円形の模様とよく似たものがあったからだ。
触ってみると、長い毛足がとても触りごごちが良かった。けれど、よく注意して指先を這わせてみると、クッションの斜めや縦に縫い目が隠れているのが分かった。
そして、裏側は大きく引き裂かれていて、避けた布の間からボロボロと綿がこぼれ落ちていた。
一体誰がこんなことをしたのか。ゼパルさんに問いかけようとしたけれど、俺はまだゼパルさんに相手にも人見知りをしていて、既にミシンを踏んで真剣に自分の作業に取り掛かっているゼパルさんに、声をかけるなんてできなかった。ゼパルさんなら、尋ねれば快く答えをくれただろう、と思いつつ。
俺はおとなしく、作業机の上の針山を引き寄せ、紫の縫い糸を縫い針に通した。
クッションの中の綿を一度全て取り出して空き箱に入れて、クッションの布地を裏返す。傷のように開いた引き裂かれた穴をまち針で閉じて、ひと針ひと針、すでに縫い合わされている縫い目を真似ながら、縫い合わせていった。
月がかなり欠けたみたいだね。静寂の中、ゼパルさんが呟いた。
それから、三週間が経った。俺はここ数日間、一階の執事室で空いた時間を過ごすよう言いつけられていた。
なぜかと勇気を持って周囲に問うても、たまには他の階の執事と交流を深めることも大切だ、としか。確かに俺は、まだ他の階の、特にボスキさんやルカスさん、ラムリさんなんかとはちゃんと口を聞いたこともなかったかもしれない。
一階の執事は、ベリアンさんろロノの二人だけで、ベッドが一つ空いていて、快く俺を迎えてくれた。執事達のリーダーであるベリアンさんとは何度も話していたし、ロノとは歳が近かったから、一階執事室で過ごすのは、それほど苦痛ではなかった。
そうして過ごしながら、だんだんと慣れてきた魔道服の洗濯を地下でこなしていた。水を吸った衣類は、乾いた状態の何倍も重い。三回に分けて、一階のサンルームに持って行く。
三月が近くなって、晴れた日のサンルームは一足早い春の陽気に包まれていた。二度目の運搬が終わり、もうひと往復のためにランドリーへ直接繋がっている階段を降りる。ラタンバスケットに脱水を終えた洗濯物を詰め、取っ手を掴んで持ち上げる。
バキッと、何かが壊れる音がした。バスケットの取手が取れたのだ、と気付く時、俺はすでに尻餅をついていた。
「いったたた……」
バスケットが壊れたことは多分俺のせいじゃない。でも、なんだか情けない気持ちになる。
一階執事室に送られて、そろそろ一週間。冷たい床に座ったまま、なぜ、地下執事室に戻れないのだろう、という気持ちが湧いてくる。最近は、日中も訓練と洗濯ばかりあてがわれて、縫い針に少しも触っていない。
ゼパルさんみたいに服を作れるようになりたい。洗濯も大切な仕事だと分かっている。最初に教わったのは、それぞれの生地の特徴と、それにあった洗濯のやり方だ。これも衣装係としての訓練、のようなものなのだろう。実際、洗濯物に向き合いながら、ゼパルさんが作った服の構造、縫い方、パーツの分け方などを学ぶこともできた。
できた、けれど……。
「大丈夫かい?何か大きな音がしたが……」
気づけば俺は、膝を抱えて泣いていた。ぎゅっと目を閉じた暗闇の世界に、ランドリーの扉が開く音と、落ち着いた深くて低い声が落ちてくる。
「フルーレくん……?どうしたんだい、どこか怪我をしたのか?」
「……ミヤジ……、さん……」
柔らかく肩に手を置かれて、俺は鼻を啜りながら顔を上げる。大粒の涙が顎から落ちるのを感じた。
ミヤジさん。地下執事室の室長。実は、俺はこの人が少し苦手だ。
寡黙で、口数が少なくて、澄んだ青い目は悲しげな心を隠そうともしてなくて、どう接していいか分からない。人を見た目で判断してはいけないと知っているけど、見上げるほどの高身長も、顔面に大きく走る傷痕も、俺に緊張感を与えるのには充分だった。
つい、明るく話しやすく、同じ衣装係でもあるゼパルさんにばかり質問をして、室長であるミヤジさんとはあまり深い話をしたこともなかった。
薄暗いランドリーで、白い燕尾服と湖のような瞳が眩しい。
「怪我、怪我はないです……ただ、バスケットが……」
「バスケット?ああ、取手が壊れてしまったんだね。この屋敷は古いからね、つい古い道具を使い続けてしまうことも多いんだ。すまない。上司の怠慢だね……手を見せてごらん、もしかしたら棘が刺さっているかもしれない」
驚いたね、もう大丈夫だよ、大丈夫、大丈夫……。と俺に言い聞かせるように、ミヤジさんは俺の背中をさすりながら、握りしめた手を開かせる。
丁寧に目を凝らして俺の手のひらを見つめる熱心さと、なるべく俺を安心させようとゆっくりした声で語りかけるミヤジさんを前に、俺は情けなくもまだ泣いていた。
優しくされると、自分の居場所が分からなくなってしまう。
「……ミヤジさん、あの、俺……俺は……いつ地下に戻れますか……?」
「フルーレくん……?」
ミヤジさんが開かせた手に、力が入る。みっともなく声が震えて、自分で耳を塞ぎたかった。それでも、一度訴え始めたら、俺は自分の言葉を止めることができなくなっていた。
「俺が、ダメな奴だってことは分かります……人見知りするし、初めて会う人とろくに会話もできないし、……こうやって、ミヤジさんと話すのもすごく緊張する。………衣装係って言ったって、自己流でちょっと人形の服を作ったくらいだし、教えてもらって知ったことのほうが多いくらいで、ゼパルさんの足元にも及ばない……身長も低くて、力も一番弱くて、天使と戦うなんてもってのほかで、勇気も自信も全然なくて……それでもミヤジさんは、最初、俺の居場所は地下だって、……同じ部屋の仲間だって、言ってくれましたよね……!?」
同じ部屋で、寝食を共にする四人だから、協力し合っていこうと、何だって頼ってくれていい、と、初めてあの青い地下執事室に入った時、ミヤジさんは言ってくれた。そのことが、誰に頼っていいかが分かって、俺はこの屋敷に来て初めて少しだけ安心したのだ。
それなのに、今はそんな地下の仲間達から遠ざけられている。一階の二人が意地悪してくるわけじゃない、洗濯ばかりの毎日に、不満があるわけじゃない。ぎゅっと目をつぶると、熱い涙が次々に目尻からこぼれ落ちた。
ただ、約束したのだ。
「他の、部屋に追い遣るくらいなら、……いらないならいらないって、はっきり言えばいいじゃないですか!!」
「…………」
俺の叫び声を最後に、沈黙が広がる。しばらくして、しまった、と思った。大先輩相手に生意気なことを言ってしまった。ミヤジさんは怒っているかもしれない。怒りのあまり、言葉を失っているのかもしれない。
……目を、開けるのが怖い。
「フルーレくん」
精一杯の優しい呼び声と共に、遠慮がちに俺の拳が撫でられた。痛々しいほど弱い力だった。
思わず目を開くと、ミヤジさんが座り込み、背中を曲げ、俺に目線を合わせようとしていた。銀色の前髪の下で、今にも溢れてしまうんじゃないかというくらい悲しみが瞳の中の湖に満ちている。
「すまない。不安だったね。つい、こちらが立て込んでいて、君の心に気が回っていなかった。君はまだ、この屋敷に来て二か月にも満たないというのに……」
室長失格だ、とミヤジさんは自分の額に手を当てる。それから、深い深い深呼吸をした。
その時、俺はミヤジさんの首に、包帯が巻かれていることに初めて気づいた。ラトさんの首にも包帯が巻かれているが、それより顎に近い位置にニ巡。
「……守るためだったんだ。君と、ラト君のことを。しかしそれで、君を傷つけてしまったのでは意味がない。本当に、申し訳ない」
「ラトさん、を……?」
そう言えば、しばらくラトさんの姿を見ていない。
「どういうことですか……?」
「それは……」
ミヤジさんが、額に当てていた手を口元に当て、何かを考え込む。
視線をじっと伏せ、しばらく考えた後、独り言のように呟いた。
「……いつかは話さなければいけないことだったんだ」
「え?」
「フルーレ君。私の、言い訳を聞いてくれるかい。ここは寒いし、暗いから、……そうだな、洗濯物を一緒に干しながら」
ミヤジさんが転がった洗濯物用のバスケットへ視線を送りながら言う。そこで俺は、自分が洗濯作業をしていたことを思い出した。
「あっ……」
仕事に戻らなければ。そんな気持ちもあり、俺が頷くと、ミヤジさんは立ち上がって、軽々と丸いバスケットごと残りの洗濯物を持ち上げた。
洗濯物を一緒に干しながら、と言ったのに、ミヤジさんは食堂からサンルームへ椅子を一脚持ってきて、俺にそこに座っているように言った。
「捻挫や、腰を傷めていたりすると、しばらく経ってから痛みがくるからね。今日は安静にしていてくれ」
頑固とも取れる強さでそう言い聞かされて、俺はおとなしく椅子に座った。それを確認して、ミヤジさんは慣れた手つきで洗濯物を洗濯竿に掛けていく。
その左横顔を見ながら、あの傷も、ゼパルさんが縫ったのかな、なんてことを思う。いや、きっと違う。ゼパルさんならもっと目立たせず縫えるはずだ。それなら、やっぱりあの大きな傷を縫ったのは、医療係であるルカスさんだろう。
そんなことを考えながら、明るい場所で見つめて、初めて気づいた。褐色の肌の色で分かりにくかったが、ミヤジさんの目の下にはひどい隈が刻まれている。
俺の怪我より何より、この人は自分の体調を気遣ったほうがいいんじゃないんだろうか。
「何から話せばいいかな……まずラト君の行方だが、彼は今、拘束室にいるんだ」
「拘束……室……?」
晴れやかな空と順調に干されていく洗濯物に、似つかわしくない言葉。理解するのに時間がかかった。拘束室、ともう一度口の中で唱えてみる。
「そんな部屋が、この屋敷にはあるんですか?」
「ああ。……それも、私達が暮らす地下執事室の隣にね」
「えっ?」
「普段は扉も棚で隠れているけどね。満月が近付くと、必要になる部屋なんだ」
そう言って、ミヤジさんはサンルームの硝子の向こうの空を見上げる。釣られて見ると、よく晴れた青空の中に、うっすらと欠け始めた白い小さな月が見えた。
「つい昨日まで、ラト君をそこに監禁していたんだ。今はいつものベッドで眠っている」
「監禁って、なんでそんなことを!!」
俺は思わず立ち上がった。
ラトさんは、同じ地下一階の執事室所属で、少し変わった人だ。なぜか俺を一目で気に入って、弟扱いをする。天使と戦うのを心待ちにしていて、他の執事を挑発するように模擬戦を申し込む。パセリと、裸足で外を歩くのが好き。綺麗なものも好きで、これからの季節に備えた春色の布を広げてはゼパルさんを困らせる。時々、一人でふらっと森に行って、ウサギを捕まえて帰ってくる。その毛皮を俺にくれると言う。出会って二か月程でこれだけエピソードが出てくる人だ。
でも、悪意のある人ではない、と俺は思っている。その心のままに歩いたり走ったりするように過ごす様が、実は少し羨ましい。
ミヤジさんは振り返り、困った顔で俺を見た。洗濯物を干す手を止め、それから首の包帯に触れながら俯く。
「私もそんなことはしたくはない。ただ、彼はとても不安定で……満月が近くなると、より衝動的に、凶暴になってしまうんだ。自分も他人も、見境なく傷付けてしまうほどに……」
「満月が……?だ、だからって、監禁だなんて、そんな……」
まるで狼男の伝説だ。俄には信じ難いし、あんな……自由な人を、地下の部屋に数日間閉じ込め続けるなんて酷い。
彼は俺達と同じ人間で、俺より付き合いが長いはずの仲間なのに。
俺の言いたいことを察したのだろう、ミヤジさんが、君を怖がらせるつもりはないのだけど、と言って、首元の包帯に手をやる。
包帯を緩め、その下のガーゼもずらす。そして、俺に包帯の下が見えるように少し屈んだ。
ひっ、と息を呑んだ。歯型だ。皮膚を突き破って、薄い首の肉まで抉った、深い深い人間の歯の形の傷。まだ血が滲んでいて、傷痕と呼ぶには余りに生々しい。
思わず椅子にへたり込んだ俺に、ミヤジさんは、昨夜ラトさんに噛まれたのだと言った。
「こんなものを見せておいて何だが、どうか彼を怖がらないでほしい。満月になんらかのトラウマがあるんだろう。酷く怯えているだけなんだ。危害を加えられるのを怖れて、我を忘れて、見境なしに人や物を傷つけてしまう。正気に戻った時にはそんな自分を知って、ショックで自傷行為に走ってしまう。そしてそれを止めようとした相手に怯えて、また発作を繰り返す……そんな日が一週間ほど続くんだ。ゼパル君やフルーレ君を、そして彼自身を守るには、静かな部屋に閉じ込めて、時間が経つのを待つしか、今の私達には手段がないんだよ……」
ミヤジさんはずっと眉を寄せ、悔しげな表情をしていた。
誰も傷つけないためにラトさんを監禁しているのに、ミヤジさんは酷い傷を負っている。きっと、怯え、自分を傷つけるラトさんをひとりにすることもできず、ラトさんと共に監禁室で満月を乗り越えているのだ。
「どうして、俺には教えてくれなかったんですか」
思わずこぼした言葉は、責めるような口調になったかもしれない。実際、少し俺は怒っていた。自分だけ傷つくことで、問題を丸く収まらせようとしているミヤジさんに。
「俺は、ラトさんのことを知る資格もないくらい……弱く、見えますか」
「それは違う!ただ、君にはラト君のことを恐れてほしくなくて、期を伺っていたんだ。君はまだ悪魔執事になったばかりで大変な時期だ。それに、ラト君は君のことをとても気に入っている。もし君に恐れられたら、ラト君は悲しむかもしれない。だから、いや……これだとラト君のためにフルーレ君を利用しているみたいだな……違うんだ、私はふたりに仲良くしてほしくて……」
いつも諭すように、落ち着いて話すミヤジさんが、俺の前にしゃがんで混乱したように言葉を次いでいる。
「つまり私はただ……私のエゴで君達に仲良くすることを強要していたのかもしれない……」
すまない、と、サンルームで膝を突いて、俯いてしまったミヤジさんのつむじを新鮮な気持ちで、俺は見つめた。
ああ、この人も疲れているんだ。こんなに俺が怖がって、取っ付きづらいと感じていた人でも、こうやって疲れて、落ち込んでしまうことがあるんだ。そう思うと、普段見上げている頭を、つい撫でそうになって、俺は慌てて両手を背中へ引っ込めた。
代わりに、今度は責めるような言い方にならないよう、なるべく優しく声を出す。結局、俺がそんなことをしても、ただただ弱気に聞こえてしまうんだけど、それでも。
「あの……ミヤジさん、俺に何か、できることはありますか……?」
拘束室には、青空が広がっていた。窓があるわけではない。壁一面、青空と雲の壁紙で彩られている。
あとはベッドと一人がけのソファがひとつがあるだけの、簡素な部屋だった。ベッドの上には俺が縫い直したクッションがあった。それと、三体のテディベア。それぞれ色違いのリボンが首に巻かれている。
そのうちの、茶色いリボンを巻いたテディベアを、ミヤジさんが俺に差し出す。
「そのテディベアの耳が取れてしまってね……直せるかい?」
部屋に入ると、床に落ちている、ファンシーにも思える内装に場違いな手錠に、靴先が当たって金属音が響いた。
俺はテディベアを受け取って観察する。縫い糸数本でかろうじて丸い頭に留まっている半円の耳。テディベア本体が破れたりはしていない。俺は頷いて返事をする。ミヤジさんが、疲れた目元を細めて僅かに微笑んだ。
「ありがとう。それと、今ラト君は見張り台にいると思う」
「分かりました」
俺は自分の作業机にテディベアを置き、屋根までの階段を駆け上がる決意をする。
隣の机で、帰ってきたらこっちも手伝ってね、と夥しい数の房飾りを作っているゼパルさんが手を振ってくれた。
外はすっかり夕暮れだった。赤みが強い夕焼け空を、長い三つ編みを揺らして、ラトさんはじっと眺めていた。
俺は切らせた息を整えながら、その背中に声をかける。
「ラトさん!」
「その声は、フルーレじゃありませんか」
ラトさんが嬉しそうに振り返る。唇の右側に貼られた絆創膏が、笑顔を少し歪にした。
「口……怪我したんですか?大丈夫ですか?」
「ええ。これ、貼っておくと食べたり喋ったりするのにとても邪魔なのですが、ミヤジ先生にしばらく付けておくように言われてしまって」
「そうですね、俺も、付けておいた方がいいと思います」
ラトさんは、まっすぐ俺の前に立って、頭から爪先までをじっくりと観察する。それから良かった、と言った。
「私はフルーレのことを傷付けなかったのですね」
「俺は平気です。その……ラトさんはもう、大丈夫……ですか?」
「心配してくれるんですね。優しいね、フルーレは。さすが私の弟です」
「お、弟じゃありません!」
「おや、照れなくていいのですよ。弟らしく、もっと私に甘えてもいいのに」
暖簾に壁押し、糠に釘。やっぱり、ラトさんは少し変わっている。
「もう!そんなことより、もうすぐ晩御飯ができますよ」
「私を呼びにきてくれたのですか?」
「そうです!」
俺にできることのひとつは、壊れたテディベアの修繕、そしてもうひとつは、自分の世界に行ってしまったラトさんを、俺達の元へ呼び戻すことだった。満月の発作の後、しばらくラトさんは静かに自分の世界にこもってしまうことがあるらしい。特に、大切な誰かを傷つけた時などの後に。そんな背中に声をかけるのが、俺がラトさんにできる数少ないことだった。
「もうすぐなら、まだできていないと言うことですね?それならもうすぐがもう既に、になるまで、私とここにいましょう」
「いや、それじゃあ料理冷めちゃいますよ」
「ほら、ご覧、フルーレ。今日はいっとう夕日が綺麗ですよ」
ラトさんが俺の手を引き、見張り台の欄干まで連れていく。とても冷たい手だった。まだ二月の暮れだ。こんなところにずっといては、体が冷え切ってしまうのは当然だろう。
そんなことお構いなしに、ラトさんは沈んでいく夕日を指差す。確かに、西側の森へと沈んでいく夕日は、息を呑むほどに、炎のように紅かった。
「すごい……」
「森が燃えるようですね。ここまで沈んでしまえば後はあっという間です。瞬く間に夜が来る。夜がくれば、西の森の火事も収まりますよ」
青白い肌を夕日色に染めながら、なんだか筋が通ったような、支離滅裂なようなことを言っている。物語を読み聞かされる気持ちで耳を傾けていると、ラトさんは急にはっきりした口調になった。
「フルーレのことは私が守ります。だから安心して」
「なんですか、いきなり……」
「私はフルーレの兄ですから。それだけのことです」
他に何か必要ですか?と言わんばかりに、ラトさんが首を傾げる。やっぱり、支離滅裂だ。俺はため息をついた。
「あ、そうだ!ねえ、フルーレ。私をラト兄さんと呼んでくれませんか?」
「はあ!?だから、僕はあなたの弟じゃないって何度も言ってるでしょう!?」
「それにしても、いつまでもラトさん、だなんて呼び方は他人のようで寂しいです。もっと気安く、私のことを呼んでください」
「……だってあなたは俺より年上じゃないですか」
「ロノ君のことは呼び捨てにするのに、どうして?」
「ロノはその、年も近いし……」
なんだか馬鹿らしい、と思いながらも、ラトさんの、その、「寂しい」という言葉は無視してはいけない気がした。
支離滅裂でも、理解不可能でも、寂しいという気持ちは俺も知っている。寂しい時に、誰にもその「寂しい」を本気にしてもらえないなんて、それこそ本当に寂しいことだ。
「……ロノにするみたいに話してほしいならそうするけど、これでいい?」
「はい」
「ラト」
「なんですか?フルーレ」
「日も落ちたし、ご飯もとっくに出来てるよ。寒いし、早く行こう」
「ええ、行きましょう。今日はパセリはあるでしょうか?」
「もう……いつも欠かさず用意してもらってるでしょ?」
ずっと繋いだままだった手を引っ張り、ラトを屋敷の中へ連れて行く。ラトは、夕暮れから夜空へ塗り変わった景色を一望して、駆け寄るように俺についてきた。
扉を閉める前に、振り向けば、食べかけられた月が小さく輝いていた。
明日もきっと、春にはまだ、少し遠い。