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    KTR_0101

    字書き。成人済。0と1のLについて考えて生きている。色々とお気遣いなく。皆さんの降新ライフが満たされたものとなりますように!

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    KTR_0101

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    降新。支部掲載中の同タイトル作品に手を入れた【加筆修正版】。以前、その後の二人の話(降さん嫉妬編みたいな笑)を書き足した上で一冊の本を作ろうと考えていたのだけど、すっかり時期を逃してしまったので…いつか出せたら出したい。供養。

    ##小話

    蜂蜜の海に溺れちまえ【加筆修正版】※※支部掲載中の同タイトルの加筆修正版。
    ※※支部の方もいずれ此方に差し替える予定。


     壁一面に嵌め込まれたアクリルガラス。分厚く透明なガラス板越しに魚たちを見つめる横顔は、同性の目から見ても格好良かった。前額から鼻筋、唇から顎先まで、はっきりとした顔立ちのラインには非の打ち所がない。幻想的な青に染まる金色の髪。灰青の瞳。大水槽を照らす明かりが水面からゆらゆらと差し込んで、光の影を端正な顔立ちの男に落とす。
     じっと見つめていると、気付いたように男が顔を向けた。
    「どうかしたかい?」
    「……何でもないです」
     見惚れていたとは言えなかった。言ったところで微妙な空気が流れるだけだろう。素直な感想とはいえ、反応に困らせることは本意ではなかった。
     ワーカーホリック傾向にある男に頼まれ、彼の休日に付き合うために訪れた水族館。どこに行こうかと尋ねる男に、この場所を提案したのは新一自身だ。元から水族館に行きたい気持ちがあった訳ではない。思いついたのが、ここしかなかったからだ。
     破れた初恋に纏わる、思い出の場所しか。
    「誰かを好きだという気持ちは、捨てられないよ」
     掛けられた声に、思い出に沈みかけていた心が現実に返った。脳裏を埋め尽くす長い髪の少女の色味が薄くなる。
     男の方を見遣ると、垂れた目元に慈しみを宿した眼差しが新一を捉えていた。
    「たとえ自分の想う相手が他の誰かを求めたとしても、想い合っていた相手と同じ方向を見つめられなくなったとしても、好きな気持ちは消せやしない。忘れるべきだ。捨てるべきだ。もう、先のない想いに見切りをつけるべきだ。前向きに、建設的に、終わったことだと割り切って振り返らずに、生きていくべきだ……と。そんな正論が頭を過っても、心はね、言うことを聞かないんだ。未練がましいと思いながらも、その人にばかり想いを馳せてしまう。誰かを好きになるのは、理屈じゃない。だから理屈を捏ねても、正しさを挙げ連ねても、一度生まれた想いを上手に片付けることは難しいのかもしれないね」
     寄り添うような声音に語り掛けられる。
     この人もそういう想いを抱えたことがあるのだろうか。捨てられない想いに、片付けられない想いに、苦しんだ経験があるのだろうか。そうした経験を乗り越えて、あたたかな微笑みを浮かべる今に辿り着けたのだろうか。
     思いながらも、どれ一つ尋ねることは叶わなかった。
     失恋の痛苦に喘ぐ新一だからこそ、男が似た痛みを知るのであれば不用意に心を暴きたくなかった。己が楽になるため、楽になれるまでに掛かる時間の目安を知るために、男の抱えているかもしれない傷口を無遠慮に撫で擦り、確かめる真似をしたくなかった。
    「上手に気持ちを整理できるまで、好きなままでいたらいい。何か月でも。何年でも。心のままに過ごすのが、きっと一番の特効薬さ」
     優しく細められた瞳。
     恋情を含め、儘ならないものとは無縁に見える男だというのに、その時の言葉は重く響いた。



     恋というものは、いつどこで落ちるか分からない。
     元々の恋愛経験値の低さも影響して、自身の心の動きすら新一は把握できないでいた。日常の合間で特定の人間を頻繁に思い出すのも、その人間を彷彿とさせる風景や色彩、香りを探してしまうのも、全くもって気に留めたりはしなかった。まるでスポットライトを当てたように、その人間だけは遠目にでも見つけ出せてしまう不思議さを、ただただ、目立つ人だしな、の一言で片付けていた。
     だから、驚いたのだ。
     するりと口から零れ落ちた、自らの声に。
    「好きです、降谷さん」
     テーブルを挟んだ向かいに座る金髪碧眼の年上の男は、端正な顔立ちを歪めるでもなく、ただ穏やかな笑みを口元に浮かべて新一の告白を聞いていた。やや濃い肌色にも変化はない。赤らむ。青褪める。分かり易い変化があれば、思わぬ告白をしてしまった新一も焦ることができたかもしれない。
     襖一枚で隔てられた向こう側では、居酒屋店員の活気ある声が飛び交う。食器の触れ合う音。フロアマットを踏む音。他客の笑い声。開け閉めされる襖。騒がしくなる手前の賑わいで各々の時間を満喫する空間で、まるで二人の居るこの場だけが――降谷零という男と向かい合う一室だけが、時の流れが停止したような感覚を新一にもたらした。
    「僕も好きだよ」
    「え」
    「両想いだね」
     さらりと好意を告げた降谷が、陶器の平皿に乗った鶏もも串に手を伸ばした。程良い焦げ目の残る鶏ももを包む、たっぷりの醤油タレ。平皿から離れたタレが滴り落ちる前に、ぱくりと降谷は鶏肉の塊を口に含んだ。
     あまりにも平然とした様子で咀嚼する降谷に、唖然としていた新一も早々に驚きを引っ込める。
    「両想い……」
    「違うかい? 同じ気持ちなんだろう?」
     互いに想い合うこと。好意を抱き合うこと。両想いの定義を思い浮かべて、新一は瞬きをした。
    「間違い、では、ないですね」
     肯定しながら、噛み合わなさに口を結んだ。
    「嬉しいな。君に慕ってもらえるのは」
     ぺろりと鶏もも串を平らげた降谷が笑う。新一は何と答えたら良いかに迷って、手元にある冷えたグラスに口付けた。
     降谷に動揺は見当たらない。想定外とはいえ告白をした新一も、つられるようにいつもと同じ顔で見つめ返してしまう。突然に得た恋心の自覚に気を取られていた部分もあるが、ここで頬染める等の反応をできていたら、この後の展開も多少は違うものになっていたかもしれない、と。
     痛感するのは、もっと後のことになる。



     恋愛感情としての好意を認めた途端、長く眠らせていた恋の有象無象が目覚めた。
    「返事、来ねーな……」
     バスと電車を乗り継いで移動する最中、羽織ったシャツの胸ポケットからスマートフォンを何度も確認しては溜息を吐く。ディスプレイに表示されるのは大学時代の友人や異国に居を移した両親から届いたメッセージばかりで、そこに意中の相手の名前はない。新一はシートに背中を預けて、車窓に目を向けた。
     日差しの穏やかな正午過ぎ。青々とした空には白く透ける積雲が悠々と浮かび、どこからか落ちた葉がくるりと舞う。真夏の頃に比べれば陽光も和らいで随分と過ごしやすくなってきた。それでも外気が汗ばむことに変わりなく、今日も今日とて、文明の発達に感謝しながら公共の交通機関を利用している。
     捜査協力後、馴染みの刑事が申し出た自宅までの送迎を断ったのは、もし降谷から着信があった場合を考えてのことだった。
     意図せず告白をした食事会から、既に一週間が経過している。あの後、居酒屋を出た二人は核心に迫る話もなく別れた。平時通りの降谷に合わせて同じように振る舞い、降谷の運転する車で賃貸マンションのエントランス前まで送り届けられた後は、走り去る白い車体を見送ることしかできなかった。
     以降、降谷とは会えていない。元から多忙な相手だけに、頻繁に連絡を取り合うこともなかった。メッセージだけでも送ってみようか。迷いながら文章を入力し、送信できずに削除した回数はここ一週間で最高記録に達している。だが下書き保存することすらないため、その事実もあってないようなものと云える。
     そうして昨夜遅く、いい加減に迷うことに飽きて、なるようになれといった心境でメッセージを送ったのだった。
     飯でも行きませんか――と。
    「らしくねーっつの」
     苦く零して、窓ガラスに映る見慣れた顔を見遣る。明るい陽光に世界は満たされているというのに、この黒髪の男は沈痛な面持ちで物憂げな眼差しを浮かべている。堪らずに目を閉じて、訪れる闇に束の間の安息を感じながら、ゆっくりと瞼を上げた。
     ――僕も好きだよ。
     冬空を思わす灰青の瞳が、晩夏の空に浮かんだ。
     ――両想いだね。
     あれはどういう意味だったのか。言葉通りに受け取れば、新一と同じ気持ちで好意を抱いているということになる。だが降谷の態度からは、とても両想いの相手に接するとは思えない素気無さが感じられる。
    「慕われるのは嬉しい、か……」
     慕うという言葉は、恋心に限定しない広義の想いも内包する。
    「親のように、ってことはないだろうし」
     降谷との年齢差は十二歳。干支を一回りする区切りの良さはあるが、流石に親のように慕われて嬉しいとは思わないだろう。今年で三十五歳になるとはいえ、年齢不詳の若々しさは健在だ。恋人の影は窺えず、結婚の予定も見受けられない。年下の友人相手から親のように慕われたところで深い感慨もないに違いない。客観的に考えて、兄のように慕われて嬉しいと思うことはあるとしても。
     ディスプレイに新着トピックはない。
     確認してから、また無意識にスマートフォンを取り出して連絡を心待ちにしている自身に気付いた。
     あらゆる意思決定、行動選別に、制御不能な力が作用している。冷静に捌かれる手綱を軽々と解いて走り出す、感情の迸り。終着点に降谷を据えて新一を支配しようとするのは、甘く苦い、想いの炎。
     良くも悪くも恋をしているのだと、新一は複雑な心中を持て余した。
    「……っ! き、きたっ」
     ブルルと胸元で震える感覚に、慌ててポケットから薄板を取り出す。ロックを解除して目にしたのは、増えていた一つのトピック。新着メッセージを知らせるボックスをタップする。
     瞬時に舞い上がる心を、律しようとする声はなかった。



     新一と降谷の付き合いは、かれこれ五年程になる。
     尋ねられても吹聴できない出会いを果たしたのは十八歳の頃。しかし奇妙奇天烈な経験により外見が幼児化するという前代未聞の渦中にあった新一は、別人になりすまして降谷と対面した。その降谷も公安警察官として潜入捜査の最中にあり、別人として新一の前に現れた。互いに偽りの姿で繋がった縁だというのに、紆余曲折を経て元の姿を取り戻した後も、解けることなく結ばれたまま五年が過ぎた。
     気の抜けない張り詰めた間柄から始まり、今では多忙な日々の合間を縫って食事を共にする仲にある――が、つい先日には恋人関係に発展した可能性もあり、人生、何がどう転ぶか分からない。
     そもそも、これは恋なのか。
     いつから降谷に向かう感情に恋の色が混ざり始めたのか、新一には分からなかった。意図せず零れ落ちた告白が示すもの。それが友愛ではないと断言できるのか。
     昔から一途な性質だった。過去の経験から今回の一件を振り返ろうとしてみても、比較できる恋は一つきり。それも幼少期から育てた初恋という特殊なもので、物心つく頃から当たり前に常駐した恋心は、ターニングポイントとなる恋の始まりを見定めるには役立たない。初恋相手の幼馴染とは長く共に過ごし、時には家族のように、友人のように、明確な境目もなく愛を覚えていたからこそ、新一は降谷に向かう気持ちがどういったものなのか決めかねていた。
     恋愛と友愛のボーダーラインはどこか。
     落ち着いてあの夜の告白について考えるたび、本当に愛の告白だったのかと自身に対して懐疑的になる。
     だが強がりめいた冷静さも降谷からアクションがあるとたちまちに吹き飛び、滑稽なまでに動揺してしまうのだ。
     これが恋でなければ何なのかと、騒ぎ立てる心臓を持て余しながら。
    「こんばんは。こんなに短いスパンで会うのは、新鮮だね」
     とっぷりと日も暮れた時分。愛車で現れた降谷は涼しい夜風に金色の髪を揺らしながら、いつもと変わらない物腰で挨拶をした。それだけで新一の鼓動は飛び跳ねて、飼い主を前にした犬のように尻尾を振り乱す。緩みそうになる表情筋を引き締める心中は、恋に一喜一憂する道化そのものだ。
     市街地に建つ三階建てのテナントビル前。最上階に開業した探偵事務所を施錠し、階段を下りて道路に出たばかりのところで、FDから降りて来る降谷と視線が合った。
    「そうですね。いきなり誘っちゃいましたけど、大丈夫でした?」
     大丈夫でなければ応じていない。また、本気で心配するのであれば急な誘いをしなければ良い。白々しく尋ねる見え透いた気遣いに、自身の底の浅さが露呈するようで憂悶する。もっとマシなことを言えなかったのか。
    「大丈夫。ここのところは落ち着いてるんだ。色々とね」
    「色々と、ですか」
    「そう。色々と」
     言葉数を減らしてにこりと笑う降谷には、詮索を受け付けない空気がある。これ以上は探るなという圧を感じて、新一は唇を尖らせた。
    「そんなに警戒しなくたって、探ったりしませんよ」
     公安警察の取り扱う案件に興味がない訳ではなかったが、好奇心だけで現場を荒らす向こう見ずな若さは十代の頃に置いてきた。しかし降谷の目を通すと違うのか、ははっと笑って流された。
    「君は怖いからなあ」
    「どういう意味ですか」
     怖い。それは悪い意味で使用されることの多い言葉だ。他の人間に言われたなら鼻を鳴らして終わらせる程度だが、降谷に言われたとなれば受けるダメージは威力を増す。繊細過ぎる精神。いつの間にこれほど軟弱になってしまったのか。
    「別に、怖くなんてないと思いますけど」
     否定を口にした時、生温い風が吹いて前髪が乱れた。毛先が目に入らないよう瞼を半ば閉じると、すっと何かが視界を暗くする。色濃い肌。節の張った指。伸びてきた大きな手が、額から耳上までの髪をさらりと梳いて整えていた。
    「……っ」
     通り抜けていくはずの風が遮られて、瞬きも容易になる。地肌に感じる微かな体温と、髪に触れる指先。心の準備をする暇もない接触に、新一は思わず頭を後退させた。祭太鼓のように打ち鳴らされる心臓。露骨な態度に気を悪くさせたか。避けた手の主をそろりと窺う。
     降谷は感情を窺わせない微笑みを浮かべ、伸ばしていた手を下ろしていた。
    「――行き先に予定はあるかい?」
    「な、ないです」
     誘った側でありながら、失念していた。どれだけ会えること一点に気を取られていたかを思い知って、新一は地中に埋まりたい気分になる。
    「だったら、僕が提案しても良い?」
    「それは、ええ。勿論」
    「良かった。鍋の店なんだけど」
     夏場の鍋も中々に良いんだよ、と降谷は言う。先程の遣り取りに心動かされた風も見当たらない。気分を害していないのは幸いだが、あまりにも淡々とした態度を見せられると、感情の温度差を見せつけられるようで悄然としてしまう。
     下がりがちになる口角を上げて、新一は気乗りした風を装った。
    「いいですね、鍋。予約、まだ間に合いますか」



     誘われるまま助手席に乗り込み、案内されたのは鍋専門ダイニングバーだ。一番の売れ筋というカレースープ鍋は口内を火傷しそうなほど熱々で、刺激すら美味しさに変わる絶妙な味わいだった。混ざり合う、スパイシーな辛味と和風出汁のまったりとした旨味。口でとろける牛肉。甘苦いパプリカ。歯応えを楽しめるキノコ類。程良く絡み合う素材の味とカレースープに舌鼓を打ち、引き出しの多い降谷の話に耳を傾けている間に、気付けば時刻は零時前。自宅まで送るという降谷にまだ共に過ごしたい意思を伝えることもできず、新一は悶々としながら相槌を打ち続けた。
     今夜もまた何事もなく別れることになるのか。
     あの言葉の意味も明らかにしないまま。
     腹を満たして店を出た流れで車に乗り込んだ新一は、通過する街灯や看板の灯りを焦りと共に眺める。法定速度を超過しない安全運転は、まるで降谷の心の在り様のようだった。落ち着きを無くした新一とは正反対に。
     膝頭をぐっと掴む。
    「ふ、降谷さん」
     気を奮い立たせて顔を運転席に向けると、横顔まで端正な男はちらりと新一を一瞥した。
    「うん?」
    「その、まだ、帰りたくないんです、が……」
    「ああ、どこかに寄りたい? いいよ。遠慮なく言ってごらん」
    「寄りたい、というか……」
    「というか?」
     穏やかな声音で先を促されて、新一は言葉に詰まった。
     帰りたくない。もっと一緒に居たい。更に言えば、互いを指して両想いと言ってのけた前回の夜の真意を問い質したい。だがそれらを叶えるためには自宅を避け、どこかに寄る必要がある。即ち、どこかに寄りたい、という返答になるのではないか。
     デート帰りに別れ難くなり、時間延長を望む恋愛ドラマの一場面が思い浮かぶ。
     格好良く決めるヒーローにも、可愛く気持ちを伝えるヒロインにもなれはしない。
     急に恥ずかしさが込み上げた。
    「えと……寄りたい、です」
    「どのコンビニが良い?」
    「へっ?」
    「拘りがなければ一番近いところに行くけど」
     思わず間抜け面を曝しながら、隣の降谷を凝視する。本気で言っているのか。互いに想い合う関係にあるはずだというのに、本気で降谷は、新一の渾身の誘い文句をコンビニまでの足代わり依頼と思っているのか。
     もしくは、わざと受け取り違いをして、遠回しに突き放そうとしているか。
    「ほら、言ってごらん」
     突き放そうとしているにしては、声音が甘い。
    「工藤君」
     やんわりと急かす声に、その柔らかさに、新一は横髪を耳に掛けて熱を持つ頬を隠しながら、考えることを放棄した。
    「……どこでも、いいです」
    「了解。少し戻るよ」
    「はい」
     ウインカーを操作する音がして、左側フロントライトが点滅する。大通りから曲がって小道に入ると、見るからに街灯が減り薄暗くなる。時間帯のせいか、走行車も歩行者も他にはない。晩夏の過ごしやすさを教えるように、虫の鳴き音もよく聞こえた。
    「君、変なところで遠慮しいだよね」
    「変なところって」
    「外見からは想像できないくらい図太い神経してるのに、たまに物凄くいじらしいというか」
    「はあ? 誰の話ですか」
    「僕の目を通した、君の話」
     ふふっと吐息で笑う気配。点々と灯る明かりの下を通過するたびに、降谷の顔も明滅する。
    「どうしようもないくらい、可愛く思えることがある」
     冬空の瞳が温かく細められた気がして、慌てて新一は視線を引き剝がした。上手い切り返しを思いつけない。鼓膜に拾う、速まる血流の音。速度を上げた鼓動は煩いほどだというのに、車内には沈黙だけが降り立つ。
     隣から咳払いが小さく上がった。
    「――なんてね。引いた?」
    「若干」
     虚勢が吐かせた嘘を、高鳴る鼓動が咎める。引いていない。好きだから嬉しい。欲を掻けば格好良いと言わせたいが、好ましく思ってもらえているのであれば何でも良かった。
    「君を甘やかしたいんだ。年上だからね」
     好きだから、とは言わないのか。頭を過る考えは、しかしすぐに遠ざかる。太陽不在の空を赤々と照らすコンビニエンスストアの明かりが、そこまで来ていた。
     その夜、用もなく立ち寄ったコンビニで会話の整合性を保たせるために購入したのは、簡素なパッケージに包まれたシャツとボクサーパンツ。買い物かごに入れたそれらを注視する視線に気づいていながら、新一は何食わぬ顔で四五〇〇円弱の支払いを済ませたのだった。



     両想いなのかもしれない。
     相思相愛の土台の上、歪に描いたスタートライン。感じる噛み合わなさも仕方ない。スタートラインに並び立ったばかり二人だ。回り始めの歯車のように軋む音も、いずれは噛み合い、消えていくだろう。程良く回り始め、いつかはしっくりとくる二人になる。そう、仕方ないのだ。きっと。今は――。
     この感情は恋愛か、友愛か。真剣に悩んでいたと口にするのも烏滸がましいほど、降谷を前にすればどちらの側に己の心が在るかも瞭然としていた。どの友人に対しても、降谷に向かう感情に似たものは生じない。甘く、苦く、切なく、苦しい。執着に近い独占欲を掻き立てられるのも、降谷に限ったことだった。
     色恋沙汰における経験値が著しく低いなりに降谷との関係を分析していた新一も、次第に二人の未来に光明を見出すようになっていた。
     理由は幾つかある。まず、降谷は新一の誘いを高確率で断らない。勇気を出して会う約束をこまめに提案してみれば、断られる回数の方が段違いに少なかった。次に、会うたびに感じる言葉や態度の甘さ。恋心を擽る言動の数々は甘過ぎて、直視できない面映ゆさを新一に教え込んだ。何より、降谷は新一に纏わる一切合財を大切にしてくれた。時間を。感じ方を。価値観を。家族を。友人を。社会性を。大切にしてくれている、大切にされていると分かるからこそ、新一は不安定さも承知の上で両想いの関係を信じることにした。
     信じてしまえば、有頂天になった。
     恋が叶った。成就した。同じ想いを抱き合った。
     これからは二人でこの恋を育んでいくのだと前向きに思考を展開させては、デートスポットで親密に見つめ合う光景や左手に指輪を光らせる光景、共に暮らす家、その間取り、果ては老後に至るまでを延々と想像しては幸せを噛み締めていた。
     転機は、居酒屋での告白から一カ月後。木々の青葉が枯れ葉に変わる季節。弱まる太平洋高気圧の影響で数日後に本土へ台風が上陸するという時に、思い描いた想像は単なる独り相撲の妄想でしかなかったのだと知ることとなった。



    「降谷さん……?」
     色とりどりの傘が開く街の片隅で、大きなコウモリ傘を差す降谷を見かけた。バス停の屋根の下、呆然と立ち尽くしてしまったのは、遠目にも分かるキラキラとした恋人の隣に、見知らぬ女性が居たからだ。
     花飾りで纏められた黒髪。雨模様にくすまない白系色の明るいワンピースを着込んだ女性は、スカートの裾を軽やかにひらめかせながら綺麗な足取りで降谷と並んで歩いていた。楽しそうな笑顔。浮かれた雰囲気。上背の高い隣の男を見上げる白い顔は生き生きとして、鮮明には視認できないながらも、好意に満ちた眼差しだと直感した。
     降谷は女性と一つの傘に入って駅に続く通りを進んでいた。相合傘の呼称に相応しい、仲睦まじい距離感。女性の肩が濡れないようにと配慮してか、傘布は女性の方に多く差されていた。そうする降谷の肩は水気を含んで、スーツの色味も濃い。
     見覚えのある穏やかな笑みを降谷の顔面に確認して、カッと頭の芯が燃えた。すぐさま点火した炎は理性を焼いて、心臓まで焼き焦がした。
     その顔を、なぜ他人に見せるのか――。
     新一にだけ許されたはずの甘やかさを伴う穏やかな笑みが、見知らぬ女性にも向けられていること。信じられなかった。信じたくなかった。ドクドクと不穏に脈打つ心臓に突き動かされて、新一はバス停を飛び出した。朝から降り続く小雨は水溜まりを所々に作っていたが、気を取られる余裕もなかった。視線の先には、己の恋人であるはずの男と見知らぬ女性の相合傘。
     パシャパシャと水音が上がる。
     しかしコウモリ傘が近付くにつれて、その音は潜められた。
     無数の雨粒が髪を濡らし、頬を伝う。睫毛に重く溜まった水滴を瞬きで落とすと、眼窩にまで侵入してきた。視界がぼやける。コウモリ傘が滲む。身を寄せ合いながら雨をしのぐ二つの背中。不可視の花が鮮やかに咲いているような錯覚をして、ついに新一の足は止まった。
     水溜まりに沈んだ靴がじわじわと色を変えていく。濡れた服が肌に張り付いて体温を奪う。心なしか強まった雨脚。
     ずぶ濡れになりながら、新一は遠ざかる二人を見つめ続けた。
     降谷の傘は、新一ではない人間を雨から守っている。濡れないように。冷えないように。新一ではない人間を、大切にしている。そこまで考えて、違う、と声がした。
     そもそも降谷は、誰でも大切にできる人間だったのだ。新一に限らず。かつてはこの国を指して『恋人』と断言できる男だと忘れていた。それほどの男がただ一人の人間に対して、しかも干支一回り分の年下の相手に対して、格別な深い感情など抱くはずもなかった。ましてや恋愛感情なぞ、考えてみればあり得ない話だ。その確証のように、降谷の口からはっきりとそういう類の好意と告げられたことはない。向けられる好意を恋愛感情に分類したのは、飽くまでも新一の一存だ。恋愛感情にしてしまいたい新一の願望を反映して、投げられた軽口を都合よく解釈してしまった。
     ――僕も好きだよ。
     弟のように。
     ――両想いだね。
     友人として。
     告白に返された言葉たちに重なって、あながち外れとも思えない幻聴が聞こえる。握りしめた拳が緩く解けた。
     ――誰かを好きだという気持ちは、捨てられないよ。
     閃くように思い浮かんだ、青い世界。虚無に侵食され、沈殿する塵芥に埋もれて息をした日々。寄り添う声音。包み込む慈しみの眼差し。やわらかく差し込む光のように、降谷はあたたかな存在感で新一に選べる道を一つ示してくれた。喪失に囚われてどん底で蹲る新一に、その傷を無くすことに専念しなくとも良いのだと教えてくれた。新一の感じる痛みを尊重してくれた。
     降谷は、平等に大切にできる人間なのだ。
     新一であっても、新一ではない誰かであっても。
     思い描いていた二人の未来に走る亀裂。間を置かずに砕けて、気楽に天に昇っていた心が凋落に濁る水溜まりのように黒くなっていく。歓喜の絶頂から突き落とされた心境で、新一は現実を刻み込むように固く瞼を閉じた。



     雨曝しの濡れ鼠の体でトボトボと帰宅した新一は、見事に体調を崩した。高熱と発汗。咳嗽と嘔気。典型的な感冒症状――所謂風邪症状を出現させてしまい、久々に医薬品ケースを開くに至った。過去に経験した諸事情から服用できる市販薬は限られているため、主治医代わりの知己によって成分表から厳選された物のみ常備している。そこから解熱薬を取り出すとコップに注いだ水道水と共に喉奥に流し込んだ。
     げほっ、ごほっとむせ込んで、空にしたコップをシンクに置く。荒い動作になってしまったのは、力のコントロールが上手くいかなかったからだ。背筋を這い上る寒気と脱力感。新一は壁伝いにフラフラと脱衣所に向うと、ランドリーボックスに濡れた服を放り捨てる。びちゃびちゃに濡れた布地でも保温効果はあったのか、脱いでしまうと寒気は増した。
    「あー……しまった……」
     肝心の着替えを準備していないことに気付いて、眉を寄せる。洗濯機を囲う形で設置したアルミラックの上部、収納ボックスからタオルを抜き出して、せめて水気だけは取り除こうと全身を拭った。
     肌がゾワゾワとしている。タオルで軽く触れるだけでも強い摩擦を受けたような痛みが生じて、鋭敏になる肌を感じる。気持ちが悪い。寒い。カチカチと鳴る音。噛み合わない歯に悪寒が来ていることを悟った。
     まずい。
     脱衣所を出て廊下を進む。目指すは寝室だが、全身を襲う倦怠感に関節も筋肉も十分な機能を発揮しない。荒くなる呼吸。それほどの負荷を心臓に掛けたつもりなどないというのに、息遣いは荒くなる一方だ。寝室ドアを開けて中に入り込むと、明かりをつける気も起きずに記憶頼りで暗闇に鎮座するベッドにダイブした。服を着なければ。だがクローゼットを開ける気力がない。このままで身体が冷える。ぼんやりと考えていると、今朝脱いでベッドに放ったシャツが目に入った。新一は力の入らない手で白い塊を掴んで引き寄せる。そのまま試行錯誤しつつ、ノロノロとうつ伏せのまま着衣した。
     下着は、いい。
     眠りたい。
     起き抜けで乱れた布団類を引っ被って縮こまる。手の平で触れる肌は熱いが、身体は異様に寒さを訴える。ぶるぶると震える身体。ふーふーと忙しない呼吸音。手足を畳んで赤子のように小さく丸まっても、奥歯は噛み合わずに氷水に沈められたような猛烈な寒気が止まらない。明らかな悪寒。正確には、悪寒戦慄が起こっている。
     悪寒は高熱の前触れだ。寝室に到着する前に体温計と水分補給可能な物を用意しておくべきだった。解熱薬も熱が完全に上がり切ってから服用するべきだった。恐らく三十八~九度台の体温に達している身体を抱き締めて、新一は意識散漫な頭で後悔する。
     頭が回らない。
     脳裏で傘の花が咲いた。絶え間ない雨の音。鮮やかな彩りの多い花の内、黒い傘が踊る。微笑む男。見上げる女。白いスカート。濡れたスーツ。
     降谷さん――。
    優しい顔をしていた。穏やかな眼をしていた。あれは仕事の顔ではない。他の誰かに成りすましたものではなく、降谷自身の表情だった。胸が苦しい。特別になれたと思っていたのは、勘違いだった。先走った想いが事実を誤った願望に摩り替えた。
    「ばか、だ……な」
     笑えてしまう。
     なぜ夢を見てしまったのか。なぜ己に都合の良い意味で、降谷の曖昧な言葉を受け止めてしまったのか。
     予定外の告白から一か月。浮き沈みを繰り返した期間は、幸せといえば幸せなひと時だった。両想いか、そうでないのか。受け止め方に悩みながらも、もしかしたら同じ想いを抱いているのかもしれないと自惚れる時間は確かに心満たされるもので――だからこそ余計に喪失感や落胆感は大きいのかもしれない。冷静な判断力を鈍らせる麻薬のように。
     思い返せば、昔から思い込みの激しい性質だった。恋愛事に限ってという注釈は付くが、初めての恋に一生懸命になっていた時も、見当違いの嫉妬に胸を焦がして妙な行動に走っていたことを記憶している。想いを通わせてすらいないのに初恋の君である幼馴染の言動を深読みして後を付けたり、彼女に色目を使う男に敵意を向けたり、まるで小学生じみた幼さで視野を狭めながら奔走していた。堂々巡り。空回り。独り善がりな恋に熱を上げていた。
     ――新一は、いつもそう。何でも独りで決めちゃうの。
     別れ話は彼女からだった。諦めた風に、許した風に笑って、赤く潤んだ瞳で新一を見つめていた。
     ――私はもっと、話し合いたかったよ。
     言い返そうとして、できなかった。彼女の気持ちや考えを軽んじてきたことはない。だが、互いの意見を擦り合わせて一つの答えを出してきたか。話し合いと称せるほどの対話を重ねてきたかと云えば、そうではないと気付いてしまった。
     彼女は新一の良き理解者の一人だ。幼稚園生の頃から高校生の頃まで途切れずに付き合いのあった相手とくれば、双方の良い面も悪い面も知った仲になる。彼女の隅から隅まで好ましかった。好ましいとしか思えなかった。しかし彼女はそうではなかったのだと、別れ際になって思い至った。
     ――きっと、近過ぎたんだね。私たち……。
     だから大切なことが見えなくなって、言えなくなってしまったのだと彼女は続けた。さよなら。またね。涙を堪えた笑顔で去る華奢な背中を、新一は引き留められなかった。彼女が長く抱えていたのだろう苦悩。微塵も感じたことがなかったからこそ、二人の関係で片寄っていた苦しみの比率に打ちのめされた。
     どれだけの我慢を強いていたのか。
     どれだけの苦痛を与えていたのか。
     恋人関係を解消して疎遠になった彼女とは、数年を経てやっと幼馴染としての距離感で接せるようになった。実際に会うことはなく、メッセージだけで完結する近況報告に留まるとはいえ、今更になってあの頃はどうだったと蒸し返す無神経さは持ち合わせていない。
     ただ無性に、彼女に懺悔をしたくなった。
    「また、やっちまった……」
     布団の中で呻く。早とちりをして、また独り善がりな振る舞いをしてしまった。向けられる好意は恋愛感情に属するものと勇み足に解釈して、まるでストーカーのように、両想いだ、恋人同士だと思い上がってしまった。不幸中の幸いと捉えるべきは、今回はまだ降谷に新一の想いを悟られていないことか。
    「ばか、っだよ、なぁっ」
     ふっふっと短く震える吐息は悪寒からか。それとも、似合わない自嘲か。我がことながら分からず、新一は布団に包まったまま意識を途切れさせた。



     一面に広がる青い世界。
     巨大なアクリルガラス越しに見上げる水中には、回遊魚を始め、ジンベエザメやナンヨウマンタが悠々と泳ぐ。水面から差し込む屈折光。無数の気泡がキラキラと輝き、照明の絞られた海中ルームを青々と満たす。
     ここはどこだろう。
     新一は見覚えのある眺めに首を傾げながらも、優雅な動きで方向転換する魚の群れに、ああ、と思い出した。ここは米花水族館だ。
    「――それは君、予想以上だなあ」
     横から聞こえた声にパッとそちらを振り向くと、金色の髪を青い光に染めた美丈夫がくすくすと笑っていた。冬の装いをした降谷だった。
    「年頃の女の子に下着の話は中々できないよ」
    「へっ?」
     下着の話。年頃の女の子。話の内容を理解できずに瞬くと、降谷は笑いを引っ込めて眉尻を下げた。
    「笑って悪かったね。気を悪くさせたかい?」
     顔を傾けた降谷が、新一の顔を下から窺うように見遣る。
    「え、っと……」
     どういう状況なのだろう。戸惑いつつも新一は降谷を上から下まで観察する。
     緩めたマフラーが巻かれたピーコート。首元に覗くハイネックセーター。すらりと長い脚はデニムパンツを穿きこなし、足元ではスニーカーが光沢を放つ。
     どこからどう見ても私服だ。
    「工藤君?」
    「あ、いや、何の話ですっけ?」
     尋ねながらも、既視感はあった。
     この場面を知っている気がする。
    「何って、君が彼女を怒らせた話だろう?」
    「怒らせた……?」
     年頃の女の子に下着の話をして怒られた話。降谷からの情報を整理すると、記憶の欠片同士がガチリと結合した。
    「あっ」
    「思い出した?」
     笑みを含む声音。細められた灰青の瞳がくるりと光った。
    「ノーブラだと推測してクーバー靱帯が伸びないよう助言をしたのに、『ちゃんと付けてる』って蘭さんを怒らせた話」
    「……思い出しました」
     面白がる眼差しに落ち着かない気分になりながら、新一は頬を指先で掻いた。
     明らかになったのは会話内容だけではない。この場面が過去のものであり、夢の中にいるのだということまで理解した。
     これは、四年前の場面――高校卒業後に蘭と破局し、人生のどん底を這いずる心地で生きる屍と化していた、十九歳の秋頃の記憶。大き過ぎる喪失を受け入れようとして、思うようにいかず自失に近い状態で息だけを重ねていた。自棄を起こしていた訳ではない。心に任せて立ち止まれば二度と動けなくなる予感に、意地でもそうなるものかと日々を多忙に染め上げていた時期だ。
     とうとう学生の本分まで疎かにして欠席講義を増やし、私事を排して没頭できる探偵活動に重きを置き始めた時、まるで新一の予定を把握していたように、約束もなく降谷は現れた。急遽休みを申し渡されたが、久々の余りに過ごし方が分からない。だから、と前置いて、彼ははにかみ笑いで続けた。
     ――良かったら、今日一日、付き合ってくれない?
     生気の薄い心に、微かな風が吹いた。あの降谷の休日。眠っていた好奇心が揺り起こされて、閉じていた瞼が片方だけ上がった。薄らと。受けていた依頼を報告完了と共に手離したタイミングだったことや、タスク増加に努めても浮上しないモチベーションに飽いていたことも、誘いに応じる一因となったかもしれない。
     一人になる時間は極力減らしたかった。一人になれば、蘭の喪失について考えてしまう。夜になるたび引き摺り込まれる後悔の沼。大きすぎる喪失とどう向き合えば良いのか、その頃の新一はもう分からなくなっていた。
     そうだ、と当時の心境を振り返る。新一にとって彼女の喪失は、触れられたくない痛みだった。誰にも干渉されたくない、大切な痛み。
     だが、なぜかこの時、新一は自ら蘭との思い出を降谷に話したのだ。水族館という思い出の場所のせいか。しかしこの場所に行くことを提案したのもまた、新一だったはずだ。
     過去の場面を追体験しながら、新一は考える。
     誰にも干渉されたくない大切な痛みを、過去の己は彼に触れることを許した。とはいえ触れたいと望まれた経緯はない。つまり、彼に触れられたいと望んだ己が居たという答えに行き着く。
     四年前の新一にとって、降谷はその他大勢に分類される存在ではない――一線を画する、特別な存在だったということだ。蘭との破局を抜きにしても、新一には親身になってくれる人たちは沢山いる。それでも抱える痛みに触れさせたいとは思わないのだ。降谷だけが、はっきりと区別されていた。
     導かれる答えは、なぜかすとんと腑に落ちた。
    「目に浮かぶね。怒る蘭さんと、やべえって焦る君の顔が」
    「年相応のガキでしたから」
    「相応ねえ」
     揶揄う響き。新一は青に染まる男を睨んだ。
    「何か?」
    「いいや」
     ふふっと降谷が笑う。ぬくもりを感じる笑い方に、新一は落ち着かない気分になった。過去と現在の気持ちが混ざり合い、頬がほんのり熱くなる。
     この頃から降谷の傍は居心地良かった。博愛とは違う一律の思いやり。新一の日常に近過ぎず、遠過ぎないからこそ、喪失した蘭という大穴を埋める相手としても降谷は都合良かった。保たれる一定の距離感と、両親や友人では得られない程良いドライ加減。あっさりとした付き合いを好ましく思う心が、気付けば淡く色付いて恋の花を咲かせていたのだと、今ならば分かる。
     深入りしない距離感が降谷を特別に振り分けた。
     大切な痛みを、喪失の傷を、癒そうとしない相手が欲しかったのだ。
    「降谷さん」
     夢の主は新一だ。主の意を汲んでか、周囲の客も姿を消している。水を通して揺れる光の影。広い水槽を泳ぐ魚。青の世界には二人しか居ない。
    「何だい?」
     甘く尋ねる柔らかな声音。あたたかな眼差し。穏やかな表情。誰にでも優しい降谷は、ここでは新一だけのものだ。
     白いワンピースの女性は存在しない。
    「好きです」
     灰青の瞳を真っ直ぐに見つめ、噛み締めるように言った。
    「あなたが好きです」
     分厚いアクリルガラスの向こう、ジンベエザメの尾びれが大きな気泡を生む。空気を含んだ泡が光を弾き、ゆらゆらと揺れながら浮上する。
     降谷は微笑んでいた。
     変わらない表情に、新一は力なく笑みを浮かべる。主の意思が反映された光景に、夢の中でくらい想いを成就させてくれたら良いのにと苦く思う。ここが夢だと自覚した時から、鼓膜の奥には雨音が聞こえ続けている。冷たい雨を凌ぐコウモリ傘。傘下の白いワンピース。寄り添う男女――降谷と見知らぬ女性。どんどん鮮明に浮かんでくる光景が、夢の中であっても新一の願望を叶えはしない。
    「好き。なあ、好きだってば」
    「……」
    「降谷さん。聞いてる?」
     微笑んだままの降谷に口を開く様子は見受けられない。目の前の降谷は妄想の産物だ。新一の認識を改めない限り、告白に対して望む答えを返す降谷の姿なぞ想像できはしないだろう。
     降谷の優しさは新一だけに発揮されるものではない。万人に与えられる優しさは、降谷にとっては特別なものでも何でもないのだ。
    「夢の中でくらい、夢見させてくれりゃいいのにな」
     口端に刻んだ笑みは、ひたすら苦い。人形のように動かなくなった降谷を見つめたまま、新一は距離を詰めることもできなかった。



     臥せった新一が身なりに気を遣えるまで回復したのは四日後のこと。療養を欲する身体に任せ、ベッドから出ることも殆どなく眠って過ごした。
     途切れ途切れに見続けた夢は、時系列に沿わない走馬灯めいたものだった気がする。何となくスッキリとした心地なのは、寝ている間に引き出しから溢れた記憶の断片が整理整頓されたからか。髪や肌に張り付く古い皮脂をシャワーで綺麗に洗い流し、タオルで水滴を拭った後で清潔な衣類に袖を通す。四日振りに下着を穿いたことは誰にも明かせない秘密だ。
    「電話とか出れなくて悪かったよ。ちょっと立て込んでてさ……だから悪かったってば。今度はこっちから会いに行くから……今月? いや無理だって。もう月末だぜ? 十一月に行けるよう予定調整しとくから」
     風呂を済ませたところで電話が鳴り、出てみれば母の有希子だった。どうやら新一が臥せっていた間に、父優作の仕事の関係で夫婦揃って一時帰国をしていたという。既にこの国を発ったとのことだが、二日間の滞在中に息子に会おうと目論んでいたらしい有希子は、何度連絡をしても折り返しの電話もメッセージもなかった息子に立腹しているようだった。
    「いや、本当に忙しかったんだって。依頼先は山ン中だったし、都内にもいなかったし……」
     電話口でプリプリと小言を連ねる母の声を適当に聞き流しつつ、新一はキッチンに向かう。冷蔵庫を開いて扉側のホルダーからペットボトルを取り出すと、耳と肩にスマートフォンを挟みながら両手で蓋を開けた。
     風邪を引いていたと言わなかったのは、明かせば更なる小言が降り注ぐと分かっていたからだ。数日後には養生グッズが段ボールで送られるところまで想像して、新一は面倒回避のために適当な理由をでっち上げた。
    「何も隠してねーって。はあ? 大事な話? そんなもんねーよ……あ」
     タイミング良くインターホンが鳴った。
    「母さん、来客。悪ぃけど切るな。ああ、十一月だろ? ちゃんと覚えとくから。じゃあな」
     プツンと終話したスマートフォンをキッチンカウンターに置いて、新一は玄関チャイムと連動する壁付けTVモニターに向かった。
    「げ」
     TVモニターを点けて映し出された来訪者に、新一は思わず呻き声を漏らした。
     端正な顔立ちをした金髪の男。暫くは会いたくないと思っていた、降谷その人だった。モニター画面を見つめたまま、考えること数瞬。ややして、新一は画面を消した。居留守を選んだのだ。
     一時間ほどして、新一はTVモニターを再び点けた。エントランスが映るばかりで人影はない。罪悪感を覚えながらもホッと安心していると、震えたスマートフォンに肩が跳ねた。
    「び、っくりしたー」
     呟いて、スマートフォンに表示された名前に眉を寄せる。降谷からのメッセージが届いていた。
     ――元気にしているかい? 近頃連絡がないから気になってね。仕事かな。落ち着いたらご飯に行こう。
    「会いたくねーなー」
     ぼそりと本音が零れて、苦笑する。そのままスマートフォンを伏せて、見なかったことにした。
     失恋したばかりの身だ。今日だけは無視する不誠実さを許して欲しいと、誰にともなく願いたくなる。悪態を吐けないのは、失恋に関係なくこの恋を大切に思うからだ。己自身が大切に思うからこそ、想う相手である降谷が同じように二人の恋を大切にしてくれていると感じることが途轍もなく嬉しかった。甘露に浸すように、とろりと心を満たすものだったのだ。端から『二人の恋』というものが存在しなかったとしても。
     明日になったら返信しよう。
     叶わなかった恋の痛手に逃げ道を用意した新一だったが、いざ返信しようとすると相合傘が瞼の裏に蘇り、翌日も翌々日も返信できずに日付を超えた。ずるずると先延ばしにする間も降谷からのメッセージは途切れず、余計にそれが新一の心身に重く圧し掛かった。
     ――危ないことに首を突っ込んでないだろうな?
     ――協力できることは協力する。だから無理はしないように。
     仕事のこと。食事のこと。天気のこと。推理小説のこと。お勧めの店のこと。ジャンルを問わず振られる話題に、既読マークだけを残し続ける。頑なに返信を拒む新一をどう思っているのか。送られる文面からは窺い知れなかった。



     このまま会わずに一か月くらい遣り過ごせたら。
     繕わずに云えば、失恋の痛みが風化するまで会いたくなかった。いつかの秋口に降谷が言っていたように、何か月、何年掛かることになろうとも、心のままに痛みが色褪せるのを待ちたかった。一度生まれた想いを上手に片付けることは難しい。理屈ではないと身を以って知ったからこそ、降谷と距離を置いて、想いが自然と潰える時を迎えたかった。
     朝目覚めてから夜眠るまで、時には夢の中までも、色濃く鮮やかな金色に染められる毎日を過ごすとしても。
     考えていた矢先に、降谷はひょっこりと現れた。
    「やあ、工藤君」
    「え、あ、わっ!」
     依頼人への定期報告を終えて喫茶店を出た新一は、大通りに面する路地を素通りしようとしたところで、横から伸びてきた手に腕を取られ捕まった。前方と側方に作用する力に、がくんと大きく身体が揺れる。つんのめりかけた新一だったが、腕を引く力が逆に支えとなり、転倒するには至らなかった。
    「大丈夫かい?」
     マイペースに掛けられる声。恨めしさを込めて肩越しに振り返ると、未だ新一の腕を解放しないスーツ姿の降谷が路地裏に立っていた。
     申し訳なさを窺わせない飄々とした顔を、新一はじとりと睨んだ。
    「大丈夫そうに見えました?」
    「転んではいないね。良かったよ」
    「そうじゃなくて、いきなり危ないでしょうが」
    「先に声は掛けただろう? 待っていたよ。久しぶりに会えて嬉しいな」
     笑顔で甘い台詞を吐きながら、男は新一を路地裏へ引っ張って行く。有無を言わせない力に引かれるまま、新一は重く感じる靴裏を踏みしめて後に続いた。記憶が正しければ、この先には向日葵の植えられた児童公園がある。太陽を追いかける黄色い花を思い浮かべて、すぐ俯く姿に摩り替わった。生気漲る花も萎れる時期だ。恋に破れた憐れな者のように。
    「どこ連れて行くんですか」
    「付いてくれば分かるよ」
     答えにならない答えを返して、降谷は引き摺るように新一を連れて行く。掴まれた腕に感じる痛み。微かな怒りを拾った気がして、新一は唇を結んだ。
     左右に聳えるビルが路地裏に薄暗さを落とす。切り取られた青空を漂う薄雲は、降谷に会える時を心待ちにしてスマートフォンの振動に一喜一憂していたバスの車内を想起させた。
     日差しの暖かさも、昼下がりの心地好さも、バス窓から外を眺めた日と殆ど変わらない。新一の心の在り様だけが変わってしまっているのだ。
     会いたくなかった。
     平静を装い話していても、新一の脳裏には雨格子を遮る傘で見知らぬ女性を大切に守る降谷の姿がこびり付く。
     愛されていると勘違いさせるような、穏やかで柔らかな表情。甘い微笑み。己にだけ許され、与えられていると自惚れた。言葉遊びでしかない睦言めいたやりとりを本気にして、両想いだと心のどこかでは浮かれていた。
     実際には、この男が己のものであった瞬間などありはなしないというのに。
     ふと、降谷の足が止まった。
    「君の気に障ることを、僕はしたんだろうか」
     路地裏に響いた静かな問い。つられて足を止めていた新一は、振り返らないスーツの背中をポカンと口を開けて見つめた。
    「最初は気のせいだと思っていた。連絡がないのも、既読しか付かないのも、仕事が忙しいからだろう、と……だが、そうではなかった。友人とは連絡を取っているようだし、予約した新刊の引き取りも当日に終えているし、その翌日にはいつもより遅めの時間に事務所入りをしている」
     見てきたように降谷が言う。新一は瞬きをした。
     確かに降谷と連絡を絶ってから、気を紛らわせるものを欲して活動的になった。友人との連絡頻度が上がったのも、小説世界に没頭する時間が延びたのも、降谷を思考から追い出したかったからだ。とはいえ半ば現実逃避の積極性を維持できたかと云えば、気もそぞろだったことは否めない。
     誰と過ごしていても、どの本を開いていても、心の半分は雨の中に居た。止まない雨に打たれたあの日から、新一の半分は動けないままだ。
    「僕だけが、君の日常から切り離されていた。教えてくれないか。なぜ、こんな状況になってしまったのかを」
    「なぜ、って……降谷さんこそ、なんでそんなこと知って……」
    「調べたからだよ」
    「調べた……?」
    「おかしいかい? 気になったから調べる。探偵である君にも覚えのある感情だと思うが?」
     二の句を継げずに息を吞むと、掴まれた腕にぐっと力が込められた。突然の圧迫に驚き、筋肉が強張る。その微動を封じるように増した力は圧倒的で、血の流れすら妨げるかに思えた。
     同時にひやりとしたのは、降雨の日、相合傘をする降谷と女性を目撃したことを知られたくなかったからだ。
    「い、たいっ、て!」
    「返信がなくなってから、可能な限り君の動向を調べさせてもらった。その前後の行動から、音信不通となる原因を推測できるものはなかった。つまり、傍目には分からない何かが君の中で起こったということだ」
    「降谷さんっ」
     顔を顰めて痛みを訴えるが降谷の力は弛まない。そうしながらも安堵したのは、あの日の心痛を――失恋の痛みを降谷に知られずに済んだと分かったからだ。
    「原因は分からないが、君は僕を避け始めた。一方的に」
     淡々と語る背中から立ち上る怒気は、恐らく新一の気のせいではない。
    「工藤君。申し訳ないが、僕は多分、恐らく、冷静ではいられない心境にある。現に今も、君に対して攻撃的な言動しか取れていない。冷静さを保てない時に、君に声を掛けるべきではなかった。だが、我慢ができなかった――」
     新一の自由を奪ったまま、降谷がおもむろに振り返った。
     頼りない陽光に反射する金糸の髪。前髪の奥に潜む双眸は昏く沈んで、重苦しい何かを宿らせる。
     鈍く光る瞳に、青白い炎が見えた。
    「我慢が、できなかったんだ」
     言葉を探るように区切りながら繰り返す降谷は迫力に満ちて、新一は見つめ返すことしかできない。
    「さっき、依頼人に言い寄られていたね。喫茶店で。なぜすぐに断らなかったんだい?」
    「それ、は……」
     見られていたのか。驚きながらも、気まずさに言い淀む。
     好きです。困らせてごめんなさい。依頼を受けてくださっただけなのに、こんな気持ちを向けてしまって、本当にごめんなさい。ごめんなさい――涙を浮かべて苦しそうに想いを打ち明ける依頼人の女性に、降谷に恋する己を重ね見てしまった。
     勝手に両想いと思い込んでしまったこと。友としての親愛を、己に都合よく改変してしまったこと。純粋な友愛を裏切り、恋心を育ててしまったこと。申し訳なさと捨てきれない愛しさ。降谷に恋人が居ると分かったところで何も変わらない。好きな気持ちが変わる訳でもなく、殺せる訳でもなく、抱えて行くしかないのだと雷に打たれた心地で理解した。
     依頼人は依頼人だ。新一から一線を越える感情を抱くことはない。これまでに依頼人と探偵という関係には相応しくない、大き過ぎる感情を向けられた経験は数多くある。助けを求めて手を伸ばした人間にとって、握り返される手は救いだ。たとえ悪魔の手だろうと、救いを与えてくれるのならば構わないと思う者もいる。孤独な暗闇に居る者には救いに善悪もない。同様に、たとえ金銭で結ばれた関係だとしても、依頼人にとって探偵の新一は救いだ。心を大きく傾けられやすい。理解するからこそ、新一は依頼人との線引きはきっかりと敷く。互いに気持ち良く仕事を終えるために、禍根の芽は摘んでおく。二十歳を越してからというもの露骨に押し付けられる好意も増え、新一は距離感を保つことを教訓とするようになった。
    「いつもの君だったら、手を握らせることも、胸に縋らせることもなかっただろう」
     地の底から壁を這い上がる風のように、降谷から不穏な気配が漂う。
    「なぜ?」
    「なぜ、って……」
     彼女を突き放せなかった。似通う苦しみを抱える同士のように思えて、線引きをできずに接近を許してしまった。
     もし、己が彼女の立場だったら。
     告白した末、降谷に突き放されてしまったら、と。
    「付き合ってみても良いと思った?」
    「思ってない」
     即答すると、斬り込むように降谷の眼差しが光った。
    「思ってないなら、どうしてすぐに断らなかったんだい。君の恋人は誰? 君は僕と付き合ってるんじゃないのか?」
     高密度の感情がとぐろを巻いた低い声音。だが新一の脳は、感情は、見事にフリーズした。
     恋人は誰。
     君は僕と付き合ってるんじゃないのか。
     胸中で反芻して、言い放たれた言語を噛み砕く。細かく粉砕して含まれた意味を理解していくにつれ、新一の両目は飛び出そうなほど見開かれた。
    「――は?」
    「その反応……まさか、君……」
     段々と降谷の眉目が曇る。先程までの昏さは払拭されているが、信じられないとばかりに険しくなる表情に新一は焦った。
    「だって! 今まで降谷さん、好き、とか、言ったことねーだろっ」
    「言ったよ。両想いだねって話したじゃないか」
    「あんな軽々しく言われて、嘘か本当かも分かんねーよ!」
    「嘘だろう……」
     軽く首を振りながら嘆く様子を見せる降谷に、新一は喜べば良いのか怒れば良いのかも分からない心境で噛みついた。
    「じゃあ降谷さん、あれからずっと付き合ってるつもりでいたのかよっ?」
    「つもりも何も、付き合ってると思っていたよ」
    「すっげー素っ気なかったじゃんか!」
    「君を驚かせたくなかったんだ。少しばかり重い気持ちを君に向けている自覚があったから……君からもそういう空気を嫌がる感じがあったし……なるべく恋人らしい振る舞いをしないように、引かせないように、怖がらせないようにと思いながら慎重に接していたのに……まさか、君の中では付き合ってすらいなかったなんて……」
     とうとう降谷は片手で顔半分を覆ってしまった。苦しげに息が零される。掴まれていた腕が、名残惜しむ仕草で離された。
    「なんてことだ……」
     そっくりそのまま返したくなる言葉だが、新一も混乱の渦中に投げ込まれて抜け出せずにいる。
     独り善がりな思い込み。事実を都合良く改変し、両想いと信じて舞い上がった。いや、違う。改変ではなかった。双方の認識は噛み合い、正しく両想いの関係にあった。今明かされたではないか。降谷自身によって。恋人関係だったのだ、と。思い込みではなく。
     堂々巡りの思考に、返すべき言葉が音にならない。
    「君の中で……僕は、恋人ではなかったんだな」
     離れた降谷の手が脱力するように落とされた。そのまま指先がきつく握り込まれる。節の張った武骨な手。
     あの手に触れても良いのだろうか。
     恋人と名乗って良いのなら。
    「色々と誤解をしていたみたいだ。好きでもない男に嫉妬されて、気持ち悪かっただろう」
    「ふる」
    「茶番に付き合わせてしまって、本当にすまない」
     名を呼ぼうとすると遮られた。新一の思いや考えを丁寧に傾聴する姿勢を見せていた降谷が、対話を拒む空気を発した。
     聞きたくないのか。なぜ。傷付けられる恐れを抱くと、人は耳や目を塞ぎたくなると云う。ならば降谷は傷付けられまいと自衛しているのか。新一の言葉を、傷付けるものとして警戒しているのか。
     降谷ほどの男が。
     知らず喉が鳴った。
     誤解。好きでもない男。嫉妬。茶番。ぐるぐると回る投げられた言葉。焦るな。落ち着け。総合すると甘く心を満たす事実に辿り着きそうで、性懲りもなく騒ぎ出す自惚れに待ったを掛ける。だが冷静に降谷の言動を分析しようとすればするほど、投げられた言葉たちは回り過ぎてメレンゲができそうなほど、甘過ぎる意味を含んでしまう。
     どうしよう。
     暑さのせいだけではない熱に浮かされて、鼓動が速まり血行を促進する。
    「すまない……浮かれていたんだ。君に好きだと言ってもらえて。もっと、早まらずに言葉の意味を考えるべきだった」
    「降谷さん」
    「先のない想いには見切りをつけたつもりだったんだけどな。本当に、思うようにはいかない」
    「誤解じゃないです」
     強めの声で言い切る。何をどう言えば良いのか分からなかったが、まずは伝えるべきことを伝えるべきだと第六感が告げた。
    「好きです。降谷さんが、好きです」
    「慰めは必要ないよ」
     これが慰めになるのか。降谷の硬い表情に申し訳なさを覚えるほど、新一の心は甘く擽られた。
    「違います。気持ち悪くもないです。オレ、降谷さんと恋人になりたかったし、恋人だと思っていたので」
    「……どういう意味だい?」
     疑問符を顔面に浮かべ、降谷は困惑を深めている。新一は構わずに踏み出すと、降谷に手の平を差し出した。
    「上手く言えません。けど、これだけは言えます」
     手汗が路地裏を吹き抜ける風に乾かされる。
    「オレはあなたが好きです」
    「工藤君……」
    「好きなんです。改めて、仕切り直しをさせてください」
     擦れ違ったまま、食い違ったままで終わらせる訳にはいかなかった。降谷の視線が、新一の顔と広げた手の平を行き来する。真意を探る眼。信じていないのだ。向けられる好意を。想いを。新一自身がそうであったように。
    「――降谷零さん。オレと……工藤新一と、恋人としてお付き合いをしてもらえませんか」
     どうか握り返して欲しい。拒まないで、受け入れて欲しい。念じながら根気強く冬空の瞳を真摯に見据える。
     風に運ばれた黄色の花弁が、視界をふわりと過った。
    「あの夜……君が好きだと言ってくれた時、僕は嬉しかったんだ。嬉しくて、信じられなくて、どういう顔で君と向き合えば良いのか分からなくなった」
     ぽつりと降谷が呟いた。
    「叶うことのない想いだと思っていた。君の心はいつでも他の誰かを棲まわせていたから……そちらに笑いかける、君の横顔ばかり見ていた。眩しくて、綺麗で、可愛くて、君の姿を見守れるだけで幸せなんだと、思うようにしていた。望み過ぎないように、求め過ぎないように、君に手を伸ばしてしまわないように、必死に堪えていた……なのに」
     途方に暮れた眼差しで、降谷が拳を握り締めた。
    「君が、好きだと言ったんだ。僕のことを。その瞬間、悦びが全身を駆け抜けた。もう堪えなくて良いんだと、見守るだけに留まる必要はないんだと、呆気ないほど簡単に、僕の思考は染め変えられた」
     居酒屋で告白した時、降谷には動揺した素振りも見えなかった。最初から最後まで穏やかで、感情の波も窺えず、新一の方が戸惑った。あの態度が心の機微を悟らせないために取り繕われたものだとすれば、どれだけ偽ることに慣れているのか。不器用なまでに。
    「年甲斐もなく浮かれた。君を失わないで済む方法ばかり考えた。すっかり恋人のつもりで」
    「オレも浮かれてました。両想いなんだって」
    「今更、君を手離せるかどうかも怪しい……本当に、どうかしている」
     吐露する声音の弱さに、新一は心を整えてから息を吸い込んだ。
    「良いんですよ。さっきから言ってるでしょう? オレもあなたが好きなんです。両想いなんですよ、オレたち」
     米花水族館で降谷が口にした言葉を思い出す。滔々と語られた、捨てられない気持ち。もしかするとあの時、降谷は新一を想いながら話していたのかもしれない。
     想う相手の失恋話を、どういう心境で彼は聴いていたのか。
     元恋人との思い出を話し続け、断ち切れない未練を抱え続ける新一に、そのままで良いのだと言ってくれた。恋心を殺すのではなく、好きなままで良いのだと肯定してくれた。
     青に染まる世界で、確かにあの時、新一の心は救われたのだ。
     時計の針を止めること。踏み出す足を止めること。気の向くまま、楽になれる方法で息をして良いのだと言われた気がした。進まなければ。変わらなければ。立ち直らなければ。焦る気持ちを宥められ、自身のペースで生きることを許された気がしたのだ。
     ――誰かを好きになるのは、理屈じゃない。
     記憶の海から慈しみを湛えた双眸が新一を包む。新一は微笑んだ。
    「理屈じゃないんですよ、降谷さん」
     軽く開かれた灰青の瞳。覚えのある言葉のはずだ。そうして、ふっと降谷の唇から吐息が漏れた。
    「そうだね。理屈じゃない。たとえ君が駄目だと言ったとしても、変わらず僕は君を好きでいるだろう。今までと同じように」
     眉尻を下げた降谷が、観念した風に笑った。
    「君が好きだよ。これからも」
     地面に向かい握られていた拳が解かれ、新一の手の平に重ねられた。触れ合う手の平。汗ばむぬくもり。二つの体温がじんわりと溶けて、やがて大きな手に握り込まれる。心地良さを堪能していると、重ね合う手を優しく引き寄せられた。
    持ち上げられる手。恭しささえ感じられる丁重な扱いで、新一の爪の生え際に唇が落とされた。
    「っ」
    「両想いだね」
     愛しむように触れてくる感触。何をするのかと降谷の動向を追視していた新一は、思わず硬直する。降谷は悪戯を成功させた子どもの顔で笑った。
    「違った?」
    「いいえ、違いません」
    「良かった」
     安堵したような囁き。指先に触れる吐息のぬくもり。いつの間にか残る片方の手で腰を抱き寄せられて、降谷の頭が新一の肩口に埋められた。
     深い呼吸をする気配。新一もまた密接する降谷の体温と甘い匂いに感覚を満たされて、全身の血が沸騰するような羞恥と充足に見舞われる。
     やっと心を通わせることができた――。
     夢見心地に浸りかけた寸前、傘の下で身を寄せ合う男女の姿が急速に意識を引き上げた。
    「あ」
    「うん?」
    「この前……雨の日に、女の人と歩いてましたよね? 相合傘で。めちゃくちゃ親密そうな感じで」
    「……うん?」
     肩の重みがなくなった。顔を上げた降谷が、心なしか気まずげな面持ちで視線を泳がせる。分を悪くする場面を押さえられた。声が聞こえてきそうな表情に、詳細を尋ねることへの躊躇が吹き飛んだ。
     メラメラと胸奥で嫉妬の炎が渦巻き始める。
    「あの方とはどういったご関係で? 一応、その時のあなたは、オレの恋人だという認識をされていたご様子ですが」
    「待って。誤解しないで」
     ぎょっとした風に新一を見遣った降谷に、心置きなく半眼で疑いの念を注ぐ。
    「誤解とは何の? オレは関係についてお聞きしているだけですよ。ただ一つ言わせていただくならば、オレの常識では恋人のいる状態で傘という簡易的プライベート空間に異性を招き、尚且つ肩を寄せ合い親しげに微笑み合うなんていう行為は、立派な、それはもう見事な浮気、もしくはそれに準じる行為とされているんですけれども」
    「いや。いやいや、ちょっと待って……っていうか、君、本気で気付いてないのか?」
     焦りを滲ませていた降谷が、意表を突かれた顔で首を傾げた。
    「あの女性は、君の御母堂だよ」
     見込み違いの真実を明かす爆弾発言に、路地裏に反響するほどの大声で素っ頓狂な声を上げてしまったことは言うまでもない。



     翌日、降谷宅で家主が入浴の隙を見計らい、異国の母宛に問い詰めるメッセージを送ると、秒速で国際電話が掛かってきた。
     曰く、互いに成人しているとはいえ一生を添い遂げる心積もりのため、交際を始めるにあたってご両親にご挨拶をしたいという連絡を降谷から受けたのだという。これまでの諸々から降谷とは顔見知りであり、新一自身の口から親しい友人として降谷の名を聞いていたこともあって、有希子は夫の仕事にくっついて帰国することを決めたらしい。
     そうしてあの雨の日、変装姿で降谷と会い、買い物に付き合わせながら新一に対する想いの真剣さを測っていた――という話だった。
     因みに優作は宿泊ホテルで仕事関係者と会っており、買い物後に妻たちと合流したという。
     両親が降谷と会ったことを新一に伏せていたのは、降谷の希望だったと教えてくれた。降谷の真剣さを伝えてしまうことで、新一の重荷となることを避けたいのだと話していたらしい。快諾したのは有希子で、優作は物言いたげながらも了承したとのことだった。
    「新一のこと、すっごく愛してくれてるんだな~ってひしひし感じて、お母さんもう、もう、嬉しくなっちゃった」
     語尾にハートマークを付けた声音で楽しげに締め括られて、新一が羞恥に震えながら蹲ったのも仕方ない。
     体調不良から快復した際、有希子からの電話で大事な話はないのかとしきりに聞かれたことを思い出した。そういえばあの時の母の声音はウキウキとしたもので、何をそれほど浮かれているのかと怪訝に思っていたのだが、今回の種明かしで合点がいった。
     音もなく床に影が落ちた。
    「黙っていてごめんね」
     電話を終えた後も恥ずかしさで動けなくなっていた新一の隣に、浴室から出てきていた降谷がしゃがみ込む。機嫌良く笑う顔は幸せに緩んでいるように見えて、近くで直視するには威力の高過ぎる輝きだ。
    「僕からは君を離せない。逃げるなら捕まえて、何度でも追いかけてしまう。ずっと……君が好きなんだ。外堀を埋めるような狡いやり方でごめん。こんな僕だけど、死ぬまで一緒に居てくれる?」
    「ばーろ、死んだ後も一緒に居るっつの」
     赤い顔で睨みつけて、新一は首を伸ばすと降谷の唇に噛み付いた。キスのやり方も知らない幼稚な口付けだが、それでも降谷は嬉しそうに受け止め、勢い余って倒れ込む新一ごと抱え込んで床に仰向きになる。身体にぎゅうぎゅうと巻き付く力強い腕に締めつけられながら、新一は息苦しさに喘いだ。
    「く、くるしいっ」
    「ごめんね。嬉しくて」
     ははっと笑う声。抱き込まれたまま温かで張りのある胸筋に耳を付けると、躍るような心音が聞こえた。
    「幸せだなぁ」
     屈託のない呟きが聞こえて、新一は絡みつく力に負けじと抱き返した。
    「もっと幸せにしてやるから、覚悟しとけよな」
    「恋人が漢前過ぎる……」
    「だろ?」
    「スパダリだな」
    「すぱだり?」
     耳慣れない言葉に胸元から顔を上げようとすると、大きな手でぐっと頭を押さえ込まれた。
    「顔、伏せたままで居て」
    「なんで?」
    「君が可愛いから」
    「はあ?」
     とくん。とくん。生きている証に耳を傾けながら、新一は目を閉じる。優しい音がする。
    「表情筋がおかしくなりそうだ」
     ぼやくような声と共に、頭を押さえる力が消えた。今度こそ顔を上げると、目尻を更に甘く滴らせた年上の男が困ったように笑っていた。
    「蜂蜜みたいだな、君は」
     眉尻を下げて照れ臭そうに笑う顔には、溢れんばかりの愛しさと慈しみが見て取れる。
     可愛いのはあんただろ、と喉の奥で反論しながら、新一も満更ではない気分で勝気に笑った。
    「一生、蜂蜜の海に溺れちまえ」



    おわり
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