商店街の居酒屋ってこんな感じ。階下から、酔っぱらったお客さんの楽しそうな笑い声がする。食器が重なってかちゃかちゃ鳴る音やよく味がしみたおでんの出汁の匂い。
「あの、ごめんなさい。ここで勉強、できますか?」
集中、できないかも。
心配そうに眉を下げたスレッタ・マーキュリーに、女の子の部屋のちゃぶ台で参考書を広げたエラン・ケレスは「問題ないよ」と熱いお茶を啜った。
***
駅前商店街の端にある"居酒屋ぷろすぺら"。主人がひとりで切り盛りしている店が、スレッタの自宅だ。
「ただいま、おかあさん!」
「こんばんは」
「おかえり。あら、いらっしゃいエランくん」
口紅をひいた美しい唇が弧を描く。
紺色の暖簾をくぐると、カウンターでは店主のプロスペラ・マーキュリーが天ぷらをあげているところだった。落ち着いた色の着物に襷をかけている様は、どちらかといえば小料理屋の方が似合う。カウンターには、建築業を営むジェターク社の社長とグラスレー不動産の代表。どちらもスレッタの先輩の父親だ。狭い町なかでは、知り合いが常連になることは珍しくない。
「何だ、学生はもう帰りか」
「そういえば、シャディクもテスト期間だと言ってたな」
あいつらももう帰ってるんだろう。
ちびり。冷えた日本酒を舐めた父親たちが、低く会話する。スレッタは時計を見上げた。まだ18時だ。
「お手伝い、する?」
「エランくんが来てるんだもの、今日はいいわよ。お2階に行ってなさい」
「ちゃんとテスト勉強しなきゃだめよ」とプロスペラに釘を刺されながら、厨房横のぎしぎし鳴る階段をあがる。2階がスレッタ母娘のささやかな居住スペースだ。
短い廊下を抜けて、がたがたと襖を開ける。畳の上にうすい桃色のカーペットを敷いたスレッタの部屋は、この女の子らしい賑やかな空間だ。お気に入りのコミックが詰まった本棚。子どもの頃から使っている勉強机。壁に寄せられたベッドの上には、くたりとしたみどり色のうさぎのぬいぐるみが寝転がっている。これは、エランが贈ったもの。スレッタを抱きしめたくてたまらないと思っている男の子は、このうさぎが"えらんさん"と名付けられて、毎晩抱きしめられていることをまだ知らない。
「狭いです、けど」
「…いい部屋だと思うよ」
「ふふっ、あ、座布団使ってください!」
きちんと正座してちゃぶ台に向かったエランが、鞄から参考書を取り出す。2年生向けのそれは、スレッタのために持ってきたものだ。
「はじめよう、スレッタ・マーキュリー」
きみ、前回は追試だったみたいだから。
***
2ヶ月前。放課後の教室でひとりで勉強する後輩に気づいたのは、エランだ。正しくは、"勉強しようと思ったけれど、体育ではしゃぎ疲れて居眠りした"後輩だったけれど。カーテンの隙間から差し込む夕日と女の子の髪が同じ色だったのを先輩は今でもよく思い出す。
自宅が同じ商店街の居酒屋だというスレッタを送り届けて、そのままカウンターで夕飯をごちそうになって以来、ふたりは放課後に会うようになった。はじめは、こっそり。最近は、堂々と。
「エランさんが勉強みてくれるようになったから、前回より、点数良くなると思うんです…」
「良くならないと困るよ」
問題を解くスレッタの手元をじいっと見つめたまま、エランが頬杖をつく。この先輩は基本的に優秀だけれど、後輩の女の子に勉強を教えるために、必ず前日に自分も同じ問題を解いてきている。言わないけれど。
「でき、ました!」
「だいたいいいよ。ここ、活用が間違ってる」
「あれ?…あ、こうです?」
「そう」
スレッタが間違えた箇所をぐりぐりとペンでなぞる。ノートの字は、元気はいいけれどあまりきれいではない。罫線からはみ出してのびのびと踊るそれが、エランはなぜだか好きだった。
「この参考書、ぼくが使っていたのでよければあげる」
「え、いいんですか?」
「構わないよ」
やった!エランさんのなら、勉強楽しいかも。
ふにゃふにゃ笑ったスレッタが、お下がりの参考書を大事そうに抱きしめる。エランは女の子を抱きしめたくなって、また胸がそわそわした。たぶん、腹に一物のある同じ顔の男たちや悪い魔女みたいな4人の老婆と暮らしているせいで、"わかりやすすぎる"スレッタがかわいいのだ。そのせいだ。
***
「スレッター!エランくん!ごはんよー」
階下から女将が呼ぶ声がする。
ぴょんと立ち上がったスレッタが襖を開けて、「はぁーい!」と大きな声で返事をする。店の喧騒と焼き魚の匂いがふわりとたちのぼってきて、ふたりは急にお腹が空いてきた。急な階段を慣れた足取りで駆け降りる。
「今日、秋刀魚だー!」
カウンターの隅には、ふたり分の焼き魚や味噌汁が並んでいる。小鉢は、お通しにもなっているほうれん草のおひたし。ご飯は大盛り。おでんは好きな具をとってもいいと言われたので、大根やはんぺんをてんこ盛りにした。
「エランさん!いっぱい、食べてくださいね!」
「うん」
「エランくん、スレッタの勉強はどうかしら?」
「試験範囲は問題ないかと」
「ふふ、この子ったら"エランさんにいいところを見せたいから"って、毎日勉強するようになったの」
「おかあさんっっっ!!」
なんで言っちゃうの?!
真っ赤になったスレッタが、手をばたばたさせて呻く。その口によく煮えたたまごを放り込んでやって、エランが「知ってたよ」と涼しい声で告げる。だって、きみの教科書は書き込みだらけだから。頑張ってたよね。
「んむ〜!!」
なんでわかっちゃうの?!
今度こそ首まで朱に染めた女の子が、むごむごとたまごを咀嚼する。うれしくて叫びたいのに、くちの中は大きなたまごでいっぱいなのだ。"とっても忙しそう"な娘を見てたおやかに笑ったプロスペラが、奥の座敷に熱燗を運ぶ。座敷では、デリング商工振興会長たちが商店街のクリスマスイベントの相談をしているのだ。さっきまでカウンターにいたグラスレー不動産たちも合流している。
「エランさんの喫茶店は、クリスマスに何をやるんです?」
「"ぺいる"は、クリスマスケーキセットを出すそうだよ」
「わぁ!楽しみです!」
「きみが気に入るといいんだけど」
エランは商店街の"喫茶店ぺいる"に兄弟で下宿している。レンガに蔦が絡まったレトロな喫茶店は4人のお揃いの衣装を身につけた老婆が営んでいて、店の前を通るといつもコーヒーのいい匂いがする。ちょっと大人っぽい店なので、スレッタはまだ行ったことがない。
「今度、お店に行ってもいいですか?」
「…"あいつら"がいないときなら。金曜で試験期間が終わるから、土曜のモーニングを食べに来る?」
「いいんですか?!」
「もちろん。朝食を食べたら、どこかへ出かけようか」
ちゃっかり朝食とデートの約束を取り付けたエランが、秋刀魚をきれいに骨から剥がした。ご飯をわしわしかき込む。隣のスレッタも、3個目になるふわふわのはんぺんにかぶりついた。こうして夕飯を一緒に食べるのももう7回目だ。女の子は、実はこっそり数えている。
「デートみたい…!」
「デートのつもりだけど、いや?」
いや、じゃないです!うれしいです!
賑やかな居酒屋のカウンターで、顔を近づけてひそひそおしゃべりするのは、特別な感じがしてどきどきする。火照った顔の女の子がもうひとくち、はんぺんを齧った。
「3人なんだけど、席は空いてるかな?」
引き戸が開いて、新しいお客さんが店に入ってくる。プロスペラが「いらっしゃいませ」と出迎えて、カウンターに案内した。
居酒屋ぷろすぺらの夜は、始まったばかり。