お部屋探しは計画的に。「あんのクソ親父!!」
ミオリネ・レンブランは、グラスレー不動産の来客用ソファの上でふんぞり返った。傍には、膨らんだ旅行鞄。今月3回目の家出である。
***
ベネリット駅前商店街にあるグラスレー不動産は、この街で地道に営業してきた店だ。お手頃価格の賃貸物件の取り扱いも豊富で「進学でひとり暮らしをするなら、まずはグラスレー不動産を訪ねろ」と学生の間で引き継がれているくらい。
「また会長と喧嘩したのかい?」
美しい目にじろりと睨まれて、シャディク・ゼネリが肩をすくめた。土曜日の午後は学校も休みで、店主のサリウスも物件案内で外出している。小さな店には、シャディクとミオリネしかいない。腐れ縁で幼馴染のご近所さんは、父親と喧嘩する度に八百屋レンブランから数十メートル先の不動産屋へ『家出』してくるのだ。お泊まりセットを抱えて。
「いい子のあんたには、わからないのよ」
「信頼されるように頑張ったんだよ」
これでも、ね。
事務机でデータ入力していたシャディクが、ノートパソコンをぱたりと閉じる。作業が終わったらしい。学生の身分だけれど、この男は義父の仕事を手伝っている。居酒屋ぷろすぺらのスレッタやリパティ書店のリリッケも店番をしているから、たぶんこれが商店街の子どもたちのスタンダードなのだろう。ちなみに、ミオリネは実家の手伝いをしたことはない。
「貰い物の羊羹があるけど、食べるかい?」
「食べる。この前のお煎餅、まだある?」
「買い足しておいたよ」
ざっくりしたニットの腕を捲って、シャディクが給湯スペースでお茶の用意を始める。それを横目に、ミオリネはごろりとソファに寝そべった。当初は「それ、商談用の応接セットなんだけど」と注意していたシャディクも、近頃は何も言わなくなった。物件が動く時期は決まっているし、お客さんなんてめったに来ないのだ。
物件情報がぺたぺた貼られたガラス張りの壁からは、穏やかな秋の日差しが降り注いでいる。窓の外を見知った顔が何人か通り過ぎていった。その中に、やわらかい赤毛の女の子が男の子と手をつないで楽しそうに歩いていくのを見つけて、ミオリネはため息をつく。色ボケ。
「ねえ、シャディクって氷の君と同じクラスだったよね?」
「そうだけど。どうかした?」
「…手、つないで歩いてた。今、スレッタと」
「あははっ」
仲が良いことで。
喫茶店ぺいるに下宿している三つ子の次男は、スレッタにご執心なのだ。氷の君なんて呼ばれているくせに、好きな女の子には驚くほど素直にぐいぐい行くタイプだったらしい。氷どころか焔だ、あれじゃあ。スレッタもめろめろで、ふたりが一緒にいるのはもう珍しくない。
「…本当は、今日は水星ちゃんのところへ行くつもりだった?」
「何で?私、家出先はグラスレー不動産って決めてるんだけど」
「…そう」
「パジャマ、もううちに置いていけば?」とか「きみのお父さんに睨まれるのは俺なんだよ」とか、言いたいことはあったけれど、シャディクは黙った。好きな女の子が来てくれるのは嬉しいから。
まだ、好きとも言えていないけれど。
***
緑茶の香りがふわりと漂う。
正面でばりばりお煎餅を齧るミオリネを眺めながら、シャディクは熱いお茶を啜った。養父はまだ帰ってくる気配はない。何件か内覧を済ませてくると言っていたっけ。
「…進路、あんたはどうやって決めたの?」
「そうだな…俺は店を継ぐ気はないから、自分で事業を起こせるように経済学部にしたけど」
「ちゃんとしてるのね」
ぼりっ。
八つ当たりするみたいに、きれいな歯が力強くお煎餅を噛み砕く。ミオリネの小さな手が、スカートに落ちたかけらをつまみ上げた。ひとつ年下の女の子は、自分の中で消化できないことがあるとシャディクを訪ねてくる。
「もしかして、進路で喧嘩した?」
「…まあ、そんな感じ」
「ミオリネなら、どこでもやっていけると思うよ」
「それはそうだけど」
ミオリネは、特進クラスの成績トップだ。大学だって、好きなところへ行けるだろう。八百屋レンブランのひとり娘は優秀なのだ。
「家、出たいな」
「遠くの大学に行きたいのかい?」
「まあね。クソ親父は、うちから通えるところにしろって」
「あー」
お気持ちはわかりますよ、お父さん。
シャディクは、笑いを噛み殺した。目の前のお嬢さまは、全くと言っていいほど生活能力がないのだ。一人暮らしなんてさせたら、すぐにごみ屋敷をつくってしまうだろう。彼女の自室だって、なかなかの有様だし。
「笑うな!」
「ごめん。では、ミオリネは、どんな部屋をお探しですか?」
じとりと見上げてくる女の子に笑いかけて、シャディクは物件探しの申し込みシートを差し出した。希望の間取りや設備などにチェックを入れて、物件を探すためのものだ。お煎餅を持ったまま、ミオリネがシャディクの隣に移動する。
「そうね。マンションの2階以上の部屋で」
「女の子だし、オートロックもあるといいね」
「1LDKとか?」
「ミオリネ、掃除できる?」
「じゃあ、広さはどうでもいい」
「他にご希望は?」
「トマトのプランターを置くから、ベランダが広い部屋にして。日当たりがいいやつ」
「はいはい」
ボールペンでサラサラとシートに書き込んでいく。シャディクの手元を覗き込んだミオリネの機嫌も直ってきたようだ。腐れ縁は伊達ではない。特別な女の子には、いつだって笑っていてほしい。
「あ、住む場所はどこにするんだ?」
肝心なことを聞いてなかったな。
シャディクが見つめると、ぷいとそっぽを向いたミオリネが「あんたの大学の近く」なんて言い出した。目の縁が赤い。
「え」
「春に引っ越すんでしょ、あんた」
「え」
だから。
シャディクと同じ遠くの大学に行きたくて、お父さんと喧嘩したの。責任、とってよね。
唇を尖らせた女の子と真っ赤になってボールペンを握った男を夕焼けが染めていく。ちょうど16時のチャイムが鳴った。