空を見ようよ 「思い出」と書かれた段ボールが崩れ落ちて、風真玲太の部屋に写真やアルバムが散らばった。手に持った段ボールをひとまず置いて、それらを拾い集める。窓辺から吹き込む春風に煽られて、ページがめくられた。
このアルバムたちは、玲太についてイギリスへと渡り、そして今日一緒に日本へと帰ってきたものだ。眠れない夜も起きたくない朝も、この写真たちを見て力をもらっていた。
拾い上げた一枚の写真を裏返す。そこには、幼い頃の玲太と、その隣で笑う「あの子」の姿があった。
「あいつ、どうしてるかな……」
滅多にない独り言をこぼしながら、写真をアルバムの中に収めていく。どの写真も、玲太の隣には必ずあの子がいて、花のような笑顔を咲かせている。
いつもそばにいて、元気をくれていたあの子。離れても心の中にいて、支えてくれた彼女。明日の入学式には再会する予定の、小波美奈子だ。
ついさっき家を訪ねたら不在だったので、彼女の母親にだけ挨拶を済ませてきた。九年前と何も変わらない彼女の家が、自分の家でもないのに妙に懐かしくて胸に沁みた。
だからこそ、美奈子も変わらず自分を待っていてくれているに違いない。心の中でそう呟いて、そっとアルバムを閉じる。箱の中にしまい込むのはやめて、本棚に並べることにした。
ありし日の思い出は、荷解きをする玲太の背中を、そうしてじっと見つめていた。
人生の大事な日はいつも、晴天に恵まれていたような気がする。
幼い頃何度も駆け上がったあの坂道は、入学式の日に相応しい、豊かな朝陽に照らされていた。深呼吸を一つして、美奈子の家の方角の、坂の下をちらりと見やる。彼女はまだ来ない。前髪を整えて、空を見上げて、手のひらを握り込む。彼女はまだ来ない。
一分一秒が、信じられないほど長い。携帯電話をチラリと見ても、全く時間が過ぎてくれない。
いや、大丈夫。日本に帰るまでにかかった九年間を思えば、こんな時間などなんてことはない。そう自らに言い聞かせて、それから、瞼の裏に幼き日の美奈子の姿を浮かべる。
ずっとずっと、会いたかった。離れ離れで苦しかった。それでも、今日この場で再会を果たせる。それを、人は運命と言うのではないのだろうか。
眩しさに目を細める。どうか、どうか、変わらない彼女に会えますように——そう願って坂の麓を振り返った。
眩しさに眉をしかめる、見覚えのある顔立ち。昔と変わらない、風になびくショートヘア。間違いない。「あの子」だ。玲太は胸いっぱいの幸せを抱えて、呟く。
「久々の再会なのに、しかめっ面かよ」
「もしかして、りょう……風真くん?」
前髪の隙間から覗く、大きな瞳がはっと見開かれる。以前とは違って丸眼鏡をかけるようになっているが、その奥の眼差しは変わらない。そう、幼い頃と同じ、可憐で純粋な美奈子がそこに——
「いやあ—————ッ!!」
突然、坂道に響いた甲高い悲鳴。ときめきとは全く違う意味で、心臓が大きく跳ねる。
「こ、小波……」
「来ないで!」
心配で一歩歩み寄ると、三歩後ずさる美奈子の両足。幼い頃と変わらないはずの歩幅。けれど、表情は今にも泣きそうに歪んでいる。別人のような顔をして見せる美奈子の姿に、言葉が出なかった。
美奈子はその隙に玲太の脇をすり抜けて、坂道を早足に駆け上っていってしまう。後に残されたのは、ただ呆然と立ち尽くす玲太一人きりだった。
「小波? 中学同じだったけど、元々ああいう奴だよ。暗いっていうか、地味っていうか」
「あの子、男子苦手なの。知らない?」
「女子ともうまく話せてないよ。さっき花椿姉妹に声かけられてたけど、何も言わずに固まってたし。人が怖いんじゃないかな」
「ただの根暗ぼっち」
美奈子を評するクラスメイトたちの意見は、どれもこれもそんな調子で、玲太の記憶の中の美奈子とはまるで一致しなかった。優しくて快活でほがらかで、どんなときも笑顔で隣にいてくれた、玲太の記憶の中の幼馴染とは全くの別人のようだった。
頭を殴られたような衝撃を抱えたまま、席に着く。美奈子は玲太から遠く離れた、前方の席だった。それがそのまま、二人の距離を表しているかのように感じられて、胸が苦しい。美奈子はあんな風に、背中を丸めて俯く女の子だっただろうか?
御影と名乗る担任教師の挨拶に、教室全体が沸き上がる。冷やかしたり、笑ったり、目配せしたり。
俯いて机を見つめるだけの美奈子を置き去りにして、教室は何の滞りもなく回るのだ。玲太の世界は、美奈子なしでは回らないというのに。その現実がどうにも腑に落ちない。
結局、何ひとつ頭に入らないまま入学式は滞りなく終わって、終礼とともに生徒たちは散り散りになっていく。幾人かの女生徒に呼び止められたが、振り払って真っ直ぐに帰路を目指した。
「……………」
河川敷を真っ直ぐに歩く。前方には美奈子がいる。家の方向が同じなのだから当然だ。美奈子は時折こちらを振り返りながら、早足に歩を進める。怯えているのが、その足どりでわかった。
「……小波」
丸まった背中に呼び掛ければ、美奈子の足は少し加速する。
「なあ、小波」
再び呼び掛ければ、美奈子の足は地面を強く蹴り、家の方角に向かって一目散に走り去ってしまった。遠ざかっていく、リュックを背負った小さな背中。またしても取り残される、何も知らず何もできない玲太の背中。美奈子を真似て項垂れて、ローファーの爪先を見つめてみた。
あの頃は、こんな風に下なんか向かずに、空ばかり見つめていた気がする。抜けるような青空に響く教会の鐘の音と、玲太を走って追いかける美奈子の笑顔。それだけが宝物だったのに。九年が経った今、美奈子の背中は遠ざかるばかりで、鐘の音も空の青さも、今の玲太には届かない。
そのまま、玲太はなかなか顔を上げることができなかった。美奈子の踏みしめた地面の褪せた色を、しばらくじっと見つめていた。
翌日から、美奈子を遠くから見守る日々が始まった。いじめられている様子はない。除け者にされているわけでもない。クラスメイトたちは必要があれば美奈子に話しかけた。だが、そのたびに美奈子は今にも泣き出しそうに顔を歪めて、ぼそぼそと聞き取れない返事をするばかり。
特に、男子生徒からの声掛けにはまともに応じることができず、耐えきれずにその場から逃げ出すこともしばしばだった。下を向いて人の間を縫うように廊下を歩く後ろ姿は、どこか痛々しくもあって見ていられなかった。
『あの子、男子苦手なの』
『人が怖いんじゃないかな』
美奈子をそう評したクラスメイトの声が、何度も脳裏に響き渡る。そんなはずがない。美奈子はいつだって明るくて元気で、いつだって俺と一緒にいて——人が、ましてや俺が怖いなんて、そんなこと——
思考がぐるぐると渦を巻く。深い深いため息を吐く。すると目に入ったのは、沢山の人にぶつかられながら、廊下の端を歩く背中。美奈子だ。いつまでも変わらない自分を残して、すっかり変わってしまった美奈子だ。
わけを知りたい。あんなにも無邪気に青空を眺めていた美奈子が、どうしてそんなに変わってしまったのかを知りたい。湧き出した衝動に抗う術もなく、玲太は気づけば廊下を駆け出してしまっていた。
「小波!」
か細い手首を掴んで、力任せに引っ張った。大きく息を呑んでこちらを振り返る美奈子。玲太の顔を見上げた瞬間、その血の気が引いていくのがわかった。それでも、今更引っ込みなどつかない。
「おまえ、一体どうしたんだよ。昔はよく一緒に遊んだだろ。誰とでも普通に話せただろ。どうして、そんなに俺を怖がるんだよ……」
周りの生徒たちが足を止めてこちらを振り返る。教室の窓から身を乗り出して様子を伺う者もいる。美奈子はそんな周囲の生徒ばかりを気にし、怯えていた。玲太の方には一瞥もくれなかった。そのことが悔しくて苦しくて、折れそうにか細い手首を握りしめる。
「わけを話してくれ! 俺、おまえのためなら何だってするから! 知りたいんだ、おまえのこと」
「やめて……風真くん、やめて……」
「せっかく九年ぶりに会えたんだから、おまえともっと話がしたい。俺のいなかった九年間のことを話してほしい。昔みたいに戻りたい。大丈夫だ。何も怖くない。俺は——」
「やめて!!」
ようやく捕まえたと思った手は、あまりにもあっけなく、そして力強く振り払われてしまう。目に涙をいっぱい溜めた美奈子は、もう一度「やめてよ……」と呟くと、踵を返して駆け出していってしまった。
近づいたと思ったら、またしても遥か遠くに消えてしまう、彼女の背中。俯いて丸くなった、小さな背中。
振り向いて欲しくて追いかけたのに、全く逆のことをしてしまった。大きく息を吐き、玲太はその場にへたり込んだ。玲太の頭上では、心配を装う女生徒の声や男子生徒の揶揄が飛び交う。
「風真くん、あの根暗に何かされたの? 可哀想〜」
「あの言い方ひどいよね」
「風真ぁ、女口説くならもっと上手くやれよ!」
返事をする気にもなれなかった。取り落としたスクールバッグを掴み、大きく肩を落とす。廊下を行き交う、沢山の生徒たちの靴と無機質な床の素材が視界の全てだ。その靴たちのうちのいくつかは、自分に爪先を向けている。それをただ呆然と見つめていた。
だが、その靴たちはやがてある方向に爪先を向け、立ち止まり始めた。小さな歓声や息を呑む音も聞こえる。やがて、二つの靴音が近づいてきて、玲太の前で立ち止まった。そこでようやく、玲太は顔を上げた。
「女の子泣かすとか最低なんですけど」
「ひかる、言い過ぎよ」
見上げれば、明確な侮蔑の視線を送るツインテールの少女と、困惑気味の表情を浮かべるショートカットの少女。美奈子に何度か話しかけている、花椿姉妹。みちるとひかるだ。
「んだよ……」
美奈子のことで頭がいっぱいで、女子と諍う余裕などない。わざとぶっきらぼうに返事をし、そのまま立ち去ってしまおうと立ち上がった。
だが、二人がかりでバッグとブレザーを掴まれて、玲太は逃げ場を失くしてしまう。
「待って、風真くん。私たち、話があるの」
「ちょーっと屋上までツラ貸してくれるかな?」
「……………」
周囲をちらりと見渡せば、野次馬がどんどんと増えていていたたまれない。ここで何か下手を打てば、美奈子に対するクラスの風向きが変わってしまうことだろう。そう考えて、玲太は曖昧に頷いた。こんなにも人目を気にしたのは生まれて初めてかもしれないと思いながら、美奈子はずっと、こんな気持ちでいるのかもしれないとも思った。
「マリィには言わないでって言われてるんだけどね」
そう言って、困ったように視線を落とすみちる。
「でも、今のままじゃマリィが辛いだけだから教えてあげる」
そう前置いて、気だるげにツインテールの毛先を弄ぶひかる。
玲太は二人の方を見る気にもなれず、美奈子のように下を向いて、ただ屋上の風を感じていた。頭上には呆れるほど青い空が広がっているというのに、顔を上げることさえ億劫に感じる。きっと美奈子も今ごろ、こうして俯いているに違いない。
「風真くんって、マリィの幼馴染なんでしょ?」
「……そうだよ」
幼馴染で、友達で、初恋の人で、教会の鐘に結婚を願った人。顔を上げてほしい人。この青空を一緒に見上げて、一緒に笑ってほしい人。それだけだ。
そんな『幼馴染』がどうして変わってしまったのか。何度も話しかけてようやく少し話してもらえるようになったという花椿姉妹は、そのわけをかわるがわる語って聞かせてくれた。
九年前、玲太がイギリスに引っ越してしまうまで、美奈子は確かに明るく快活な少女だった。玲太の記憶にある美奈子のままだった。
だが、玲太が引っ越してしまった後、彼のいなくなった教室である変化が起こった。
「なんていうか、いじめっていうほどではなかったらしいんだけど、少し意地悪なことを言われたみたいで……その、風真くんとの関係のことで」
みちるが躊躇いがちに語ったそれは、聞けばよくある話だった。
今まで一人の男の子とべったりで、どこに行くにも一緒で、その関係をよくからかわれていた女の子。そのたびに幼馴染の男の子は守ってあげていて、クラスのみんなが二人を遠目に見守っていた。
いわば公認カップルのようなその関係が、片方の引越しによって崩れてしまったらどうなるか。男子からのからかいを跳ね除けてくれる存在がいなくなったらどうなるか。そんなこと、玲太は想像すらしたことがなかった。
「『旦那はどうした』とか『離婚したのか』とか……そういう、くだらないことでよく揶揄われるようになったんだって。風真くんのことが好きな女子もこれに便乗して、好き放題言われたことがあるみたい」
「小さい頃のマリィは、風真くんと離れ離れになった上に心無い言葉を言われる環境に耐えられなかったんだって。人が苦手になって、人に見られることも怖くなって。メガネで顔を隠して、引きこもってた時期もあったみたい」
「それでも外に出て、こうしてまた学校に通うようになったのはね——」
そこから先の言葉を全て聞き届けて、玲太は踵を返した。青空まみれの屋上を飛び出して、美奈子の見つめる地面へと下りていく。もう、九千キロの距離なんてどこにもない。会おうと思えばすぐに会うことができる。伝えたいことをすぐに伝えることができる。そんな距離にいるのに、どうして自分は何一つうまく伝えることができないのだろう。自己嫌悪を噛み潰して、階段を駆け下りていく。頭には、みちるとひかるの言葉がいつまでもこだましていた。
『こうしてまた学校に通うようになったのはね、風真くんがいるからなんだって。二人で同じ学校に通いたかったからなんだって』
息を乱しながら、一目散に玄関へと向かう。
『マリィ、風真くんのことずっと気にしてた。男の子が怖くなって、上手く話せなくなってからも、風真くんと話せるようになりたいって言ってた』
階段を下りて、無数の生徒たちが行き交う廊下を駆けていく。
『入学式の日に風真くんと会って悲鳴上げちゃったんでしょ? そのことを謝りたいんだって。でも、怖くて話しかけられないんだって』
下駄箱に辿り着き、靴を履くのもそこそこに玄関を飛び出した。
『ねえ風真くん、これは私たちからのお願い。もしもマリィを大事に思ってるなら——助けてあげてほしいの。マリィがまた、顔を上げて笑えるように』
頼まれなくたって、そのつもりだった。放課後のチャイムが鳴ってからそう時間は経っていない。まだ校内にいる可能性が高い。玲太は部活動に励む生徒たちの傍をがむしゃらに走って、美奈子を探した。
こんなにも思い続けていたのに、こんなにも大切な人なのに、彼女が行きそうなところひとつ思いつかない自分を情けなく思いながら、それでも懸命に走る。
すると、人気のない校舎裏へと辿り着いた。初夏の日差しを受けて、濃厚な木々の緑たちが生き生きと茂っている、そんな人ひとりいない場所。誰の目も届かないそこに、彼女はいた。
「美奈子……」
そうだ。本当は彼女を、そう呼びたかったのだ。今更そんなことに気づかされた。
美奈子は、木に背中を預けて座り込み、地面に咲く花を見つめていた。まだ、顔を上げることはできない。空の青さに気づくことはできない。それでも、地面に咲く花の美しさに気づくことができる。自身と同じく、地べたを生きるものたちに微笑みかけることができる。
好きだ。稲妻のようにそう感じた。叫びだしたいくらい、好きになってしまった。
思い出のあの頃のように戻ってほしいとは思わない。自分の理想の姿でいてほしいなんておこがましい。
ただ、彼女のもつ苦しみだけは取り除いてやりたいと、そう願って、玲太は一歩踏み出した。
「さっきは、悪かった」
その一言で玲太の存在に気がついたのか、びくりと肩を弾ませる美奈子。傍らの鞄を引っ掴み、逃げようとする姿勢を見せる。
「待て!」
そう言った瞬間、美奈子の体は硬直する。待てと言われたから待っているのではない。怯えているから動けないのだ。
「今からそっちに行く……でも、何もしない。絶対に触らないし、怖がらせない。だから、そのまま……」
出せるだけの低く優しい声色で、宥めるように声をかけながら、じりじりと一歩ずつ歩み寄っていく。いかにも格好の悪いその姿を、美奈子は身じろぎもせずじっと見つめていた。
躊躇いがちな歩幅はやがて美奈子がもたれる木のそばまで辿り着く。玲太は木を一本間に挟んで、背中合わせになるような格好で地べたに座った。これで、互いの姿は見えない。感じるのは背中の木の硬い感触だけだし、聞こえるのは風のさざめきと互いの声だけだ。
「これなら、怖くないか?」
空を見上げながら、玲太は恐る恐る問いかけた。たっぷりとした沈黙のあと、微かな声で「……う、うん」と返ってくる。全く会話ができないわけじゃない。手に触れるとか、人前で話しかけるとか、目と目を見るとか、そういったことが苦手なだけなのかもしれない。
「さっきは本当にごめん。俺、なんていうか……九年ぶりに戻ってきた日本で、昔のままのおまえに会いたくて必死で……今のおまえのこと、少しも考えてやれなかった」
「そ、そ、そんなこと……ない、よ」
喉につかえながらも、一生懸命話そうと努力しているのが息遣いでわかる。玲太は美奈子の言葉が出てくるまで、その呼吸ひとつひとつに耳を澄ませた。
「あ、あ、あの……わ、私の方こそ、えと、お、おっきい声……ていうか、悲鳴上げちゃって……ご、ごめんなさい」
「いいよ。怖かったんだろ。怖いのに、俺の話聞いてくれてありがとな」
そう言って、玲太はつい振り返って美奈子の顔を覗き込もうとしてしまった。美奈子は両膝を抱えてそこに頭を乗せ、出来うる限りのコンパクトサイズとなって背中を丸めている。それは、無力な小動物が外敵から身を守ろうと必死であるかのような姿勢で、いかにも怯えていた。見てはいけない姿を見てしまったような気持ちで、玲太は視線を逸らして正面に向き直る。背中越しでも伝えられることは沢山あった。
「……花椿たちから聞いたんだ。俺がいなくなった後のこと」
美奈子は何も言わない。
「何も知らないのに……ていうか俺のせいなのに、みんなの前で『話してほしい』なんて勝手だった。悪い」
「りょ……か、風真くんは……悪く、ない……よ」
ぐすんと鼻をすする音が聞こえる。あの頃と変わらない、痩せ我慢のような泣き方だった。
「わ、私が……よ、弱いから……だから、風真くんのいない教室で、上手く息ができなくて……風真くんに出会うまで、どうやって生きてたか忘れちゃって……だから、ご、ごめんなさい……あなたの思い出の中の私じゃなくて、ごめんなさい」
「小波」
「こ、こうやってまた会えただけでも、学校に来てよかったって、思ったよ……風真くんのおかげ。ありがとう……」
涙の粒が滴る音を、聞いた気がした。
「で、でも……でもね。私、前みたいに上手くおしゃべりできないし、お出かけすることもできない。人が……男の子が、怖くて。だ、だから……風真くんはもう、私なんかに関わらない方がいいと思うの」
「……なんで」
「だ、だ、だって……風真くんは勉強もスポーツもできて、みんなの憧れだし、みんな風真くんと仲良くしたいと思ってるし……わ、私なんかが近くにいたら、きっと風真くんまで変な噂が……」
「どうでもいい。そんなこと」
名もなき花が風に揺れるのを見つめながら、玲太はぶっきらぼうにそう呟いた。
「……俺は、おまえが今の一人の生活を望むなら、それでもいいんだ。学校だって、行っても行かなくてもいい。昔みたいに、なんて……ただの俺のエゴだったよ。でも、今のおまえ——笑ってないだろ」
はっと小さく息を飲み込む音を聞き届けて、玲太は懸命に言葉を紡いだ。
「ずっと何かに怯えて、泣きそうな顔して……これも俺のエゴだけど、おまえには笑っててほしい」
「か、風真く——」
「だから、おまえが顔を上げて、心の底から笑顔になれるように……練習しないか、二人で」
「練習?」
「そう。人と話す練習」
口の端を吊り上げてにやりと笑い、玲太はもう一度振り返った。美奈子も同じく振り返っていたのか、至近距離で目が合う。途端に美奈子は悲鳴を上げて、尻餅をついたまま後ずさった。それを無理に追いかけたりはしない。玲太はただ微笑みかけた。
「俺に、とびきりの笑顔を見せてくれよ」
眼鏡の奥の瞳がわずかに見開かれる。彼女の頬が桜色に火照っていることに気づいて、思わず見惚れる。
このなめらかな頬が、蕩けるような笑顔に縁取られますように。そう願って、玲太はまた空を見上げた。その青さに気がついているのは、まだ玲太だけだった。