昼下がりのまほろば 初めてアルハイゼンの家に入った時、無一文の自分の立場も忘れて趣味の悪い家具の配置や雑貨にひどく呆れたのをよく覚えている。この男は聡明な頭脳と美しい顔の対価にセンスというやつを草神様に捧げてしまったのだ。行く宛てのない身を家に置いてもらう以上、何か役に立てるものはないかと考えて、僕の建築デザイナーとしての経験を活かそうと思いつくのは自然なことだ。
だけど、アルハイゼンの家にはひとつだけ、スメールで名の通ったデザイナーである僕さえも手が出せない場所がある。
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「アルハイゼン!」
「……なんだ」
家の中でも自作のヘッドホンを外さない男はたっぷりと間をとって返事をした。遮音機能は使っていなかったらしい。しかし反応こそあったものの、わずかに細められた目が読書を邪魔された不満を語っている。
「なんだはこっちの台詞だ。また僕に相談せずに食器を買っただろう! しかもこんな、鮮やかな黄色なんて普段君が選びもしないものを……おかげで他の食器と並べた時に浮いてしまうじゃないか!」
「俺の家に置く物を俺の金で自由に買うことに何の問題がある?」
「いいか、君は味さえよければいいと言うが食事は見た目からの刺激も重要な要素なんだ。建築デザイナーとしてインテリアも手掛けている僕をどうして頼らないのか理解に苦しむね。それに、僕だって家賃は払っているのだから同居人として君も少しは気遣うべきだろう?」
そもそも家自体の造りは悪くない。スメールの烈しい太陽光を遮るもののない立地に建てられたこの家の窓はステンドグラスになっていて、日中は床に美しい図画が描かれる。一番広いリビングルームにあたる部屋も広々としていて友人達との会合にはうってつけだ。僕ならこの家をもっといいものにできるはずだった。引きこもりの後輩は家にいる時間が長いのだから、家が快適になっていくことにはメリットしかないというのに、ちっとも協力的じゃない。
「ふむ、その家賃とやらが今月は家主に支払われていないようだが?」
「うぐ……今月は急な入用で少し遅れているだけだ、払うつもりはある」
「そうか。俺は金には困っていないから遅れても構わないが、君の理論では家賃の支払いが完了するまでは俺の買う物にとやかく言う権利はないな」
「君ってやつは……!」
そう、僕が借金を返すまでの仮住まいにしているこの家(年単位で住んでいる家を仮住まいと呼ぶかに関してはここでは議論しないものとする)を居心地のいい場所にしてやろうという計画の進捗はあまりよろしくない。家のことで口論になるとアルハイゼンはこうして金の話を出して僕を黙らせてくるのだから困ったものだ。
しかし絵画や楽器、食器類の一部など僕のセンスによって選ばれた物は確実に増やされている。今はまだそのありがたみが感じられていないようだが最終的には僕の努力に感謝する日が来るだろう。
「それで、昼食はまだか?」
「今作るところだ! ピタの具材はとっくに出来てたのに君が起きるまで待っていたんだ」
「そうか」
そうかってなんだよ! ここで謝るなんてことはしないのがアルハイゼンという男だ。賢者の仕事さえこなす能力があり、外でも冷静沈着に物事を進める理性的な面が目立つが家では案外だらしない。普段は子どもみたいに早寝なのに面白い本があると夜更かしして休日の昼まで寝ていたりする。本もすぐにテーブルの上に積むし、食事だって本を読みながら食べたり……スメールの英雄だとかいって持ち上げているやつらに家にいる時のアルハイゼンを見せてやりたいくらいだった。
✧ ✧ ✧
「カーヴェ」
昼食に使った食器も洗い終えた頃、キッチンまでやってきたアルハイゼンに呼びかけられる。
「……今朝挽いたばかりの豆がある。それでいいか?」
「ああ、それでいい」
「それでいいって君ねえ……まあいい、そっちに持っていくから待っていてくれ」
「わかった」
用件が終わったアルハイゼンはまたリビングの方へ戻っていった。それを見届けてコーヒーを淹れる道具と二人分のマグを棚から出す。あの男ときたら昼食後にはコーヒーを淹れてくれるものだと当たり前のように思っているんだ。しかも僕の名前を呼んだだけで、コーヒーとすら言わなかった!
……甘やかしている自覚はある。元々は僕が眠気覚ましに昼食後の家事ついでにコーヒーを淹れることが多くて、気まぐれに何度かアルハイゼンの分も淹れてやったのが始まりだった。まあ、自分の分を淹れるなら二人分になったところでさほど労力に違いはない。ただ、ほんの少し、甘えられているという事実がアルハイゼンをかつての可愛い後輩の姿に見せてくるというだけで。
胸のうちに湧きあがりかけた感傷を振り払ってドリッパーの中のコーヒー粉に熱湯を少量入れる。蒸らされて芳ばしい香りが広がった。眠気覚ましや嗜好品として好んで飲むものではあるけれど、こうしてコーヒーが抽出されていくのを見ていると適度に頭を空っぽにしてくれる気がする。それで昼食後に仕事をする時のルーティンとしてコーヒーを淹れるようになっていったのだった。何度か湯を注ぎ足し、満たされた二人分のコーヒーカップをアルハイゼンのいるリビングまで持っていく。
「はい、君の分」
「ああ」
アルハイゼンは僕とは違って家に仕事を持ち込まない。だからこのコーヒーはただの嗜好品に過ぎない。
書記官という役職には大袈裟すぎる図体の後輩はコーヒーカップを受け取ると数冊の本と一緒に手に持っていそいそと書斎に向かう。書斎には二つ机があるけれど、この男がどちらに座るかを僕は知っている。
空いている方の机で仕事のアイディア出しでもしようと思って、僕もコーヒーとスケッチブックとペンを持ってアルハイゼンの後を追う。
書斎に続くドアを開けると、ステンドグラス越しの光がやわく室内に注がれている。窓のすぐ前に置かれた机に向かった同居人の銀糸がいっそう輝いて見えた。夜や本格的に調べ物をする時には大きな机を使うけれど、日中に趣味の読書をする際にはアルハイゼンはこの日当たりのいい机を好む。
彼の目線はこちらには向かない。手元の本に夢中の横顔を見つめる。僕はこの光景が好きだった。アルハイゼンの美的センスの無さは言うまでもないことだが、この書斎の一角だけは別だ。
壁に寄りかかって眺めながら想像してみる。彼はこの窓から差し込む光を見て思いついたのだろうか。暖かい日差しを浴びながら大好きな読書をここで行えば心地よいんじゃないかしらって、君はわくわくしながら机をおいたのかもしれない。あるいは、今の僕と同じように幼い君も、穏やかな表情でページをめくる大切なひとの横顔を知っていた? この書斎の本の多くは君の家族のものだから、ご両親かおばあ様か、誰かの真似をしたのかもしれない。そうして初めてここに座った君は何を考えた? 想定通りになったと満足した?
それとも、もうここに座るのは自分ひとりなのだと寂しくなった?
時間はどうしたって戻らない。君の家族は遠くへ旅立ってしまったし、僕の唯一の肉親は僕以外に帰る場所を見つけてしまった。だけど、こうして自分だけの幸せを感じられる場所はまた作れるものだとアルハイゼンは知っている。僕には僕の、君には君だけの幸せがある。この光景はそんな単純で、だけど忘れてしまいがちなことを思い出させてくれる。
しばらく眺めているうちにふと思い立って別の部屋から小さめの椅子を一脚、書斎の入り口まで引きずってくる。そこにどかっと座って立てた膝をイーゼル代わりにスケッチブックを広げる。誰かに見せるものじゃない。仕事に使うものでもない。だけど美しいものというのは手元に残したくなるものだから。
静かな空間に鉛筆を走らせる音とページをまくる音だけが響く。会話なんて無い。だけど、かつて母の帰ってこなくなった家を静かだと感じた時の孤独は感じない。ここは家だ。誰かの幸せが、僕の幸せが、君の幸せが、日々生まれていく場所だ。
やがて簡単なスケッチが終わった頃、読書を中断してアルハイゼンが立ち上がる。
「コーヒーのおかわりはいるかい?」
「家賃の延滞に融通を利かせてほしいのか?」
「ああもう、これくらい素直に受け取ってくれよ。……そうだな、モデル代だと思ってくれていい」
「……君は何を描いていたんだ?」
「家を描いていただけさ」
アルハイゼンは不思議そうな顔をしたまま空になったカップを握っていた。