恋椿逃げて、逃げて。
あの炎に追いつかれる前に。
――全部、失くしてしまったんだから。
『恋椿』
御影玲王の寂しくも穏やかな日常が崩れるのは一瞬だった。
その日もいつもと変わらず早朝に目覚め、良家淑女の嗜みとして両親より課せられた様々な稽古事を一通り熟した後にさて就寝の時間かと床に入ろうとしていた、まさにその時であった。
「玲王様!お逃げくださいませ!!」
玲王が産まれた時から身の回りの世話をしてくれていた穏やかで、一度も怒った顔を見せなかったばあやが初めて見る形相で玲王のいる部屋へ飛び込んできた。
「ぇ?ばあや?どうしたんだよ…なにが」
何があったのかと聞こうとしたその声は強引とも呼べるばあやの手に引き摺らる形で部屋を出されたことにより途切れた。
「落ち着いて聞いてください。何者かが屋敷に火を放ちました。お父上も、お母上も襲われ倒れられました。玲王様…玲王様だけでも、どうかお逃げくださいまし」
初めて感じるばあやの焦りと恐怖が握られた手を通して伝わってくる。
それよりも玲王の身体の中心を貫いた衝撃は先ほど告げられた余りにも唐突で惨い事実であった。
「あ…?倒れた?お父様とお母様が?なんで…誰に…」
「分かりません。賊なのか、謀反なのか…。でも一つだけハッキリしていることがあります。それは、次に奴らが狙うのは玲王様、あなた様です」
玲王の手を引きながら広い屋敷を駆け抜けながらばあやが固い声で告げる予感に、玲王は目の前が真っ白になった。
気がつけば、ばあやに手を引かれ屋敷の隣にある鬱蒼と生い茂った森の入り口に立っていた。
「玲王様、ばあやがお連れできるのはここまででございます。この先は一本道、どうか後ろを振り向かず真っ直ぐ前だけを向いて駆け抜けてくださいませ。森を出ましたらその先の道を進みますと隣村に出ます。その村の長にご事情を話せばきっと、お力になってくださいますでしょう。どうか、気をしっかりとお持ちくださいませ」
そこまで一息で話し切ったばあやはくるりと背を返し屋敷を包み始めた炎の明かりに向かって歩き始めた。
「なんで…!嫌だ!ばあや!一緒に、一緒に行こう!」
大好きな、それこそ実の両親よりも自分を可愛がってくれたばあやとここでお別れなのだと、その背中がハッキリと語っていることに玲王は耐えられなかった。
「ひとりにしないで…ばあや!!」
顔中を涙でぐしゃぐしゃに濡らしながら大声で玲王が叫ぶと、やっとばあやが振り向いた。
「玲王様、どうかこの御影家の矜持をお持ちください。何処に居ても、何処で生きても、気高さだけは失いませんよう。それがばあやの願いでございます」
そう厳しい顔で、しかし声だけはいつもと同じ優しさのまま告げたばあやは玲王の元に近寄ると早く行きなさいと言うように玲王の背中を押した。
その時、二人の背後から複数の足音が屋敷から響いた。
「玲王様、これが最後です。早く、早くお行きくださいませ」
迫る足音の恐怖に震える足が、玲王の奥底にあったのだろうか生存本能に突き動かされ森へと駆け始めた。
「そうです。そのまま、前だけを向いて、どうか」
最後に振り向いた時、ばあやは森の入り口で深々と頭を下げていた。
それは祈りのようであり、しかし二人を裂く永遠の別れの合図であった。
■■■
決して泣き声を上げるまいときつく、きつく噛みしめた唇からは一筋血が滴っていた。
しかし、そんなことには目もくれず玲王はひたすらに暗い森の中を走っていた。
普段人があまり立ち入らない道は一本道と云えど真夜中、早々に道を見失った玲王はそれでも何とか前に、前にとその一心で何度も転びながら暗闇の中を進んでいた。
慌てて出てきたため履物もなく、白い柔肌の足は土と泥にまみれ、また転んだ拍子に身体のいたるところに擦り傷をこさえていた。
「っう、んっ…。うぅ、だめだ、泣くな。だ、め」
幼い心にあまりに辛い突然の別れと、身体の痛み。
最も耐え難かったのは暗闇での孤独であった。
泣くな、泣くなと自身に言い聞かせながら一歩、また一歩と着物を汚しながらも進み続けると、遠くに小さく木々の切れ目が見えた。
「ぁ…出口?」
この暗闇が終わる!出口かもしれない!そう脳が認識した瞬間、玲王は持てる最後の力で光に向かって駆け出した。
「やっと…、出れた」
正しくそこは森の出口であった。
何時間森を彷徨ったのだろうか、薄っすらと空が明るくなり始めていた。
そのまま隣村に歩こうとした玲王は一瞬安堵したせいなのか、急激に目の前が暗くなりその場に倒れ込んだ。
あぁ、はやく、ばあやの言いつけ通り隣村に、長に助けを請わなくてはいけないのに…
最後に玲王が思った言葉は声にならず、深い意識の闇へと溶けていった。
玲王が覚えている故郷の記憶はこれが最後であった。
■■■
次に玲王が目覚めたのは、自分の全身が強く何かに叩きつけられた衝撃とともにであった。
「ッいた!」
目の前には土、それが真っ先に目に入った。
「お?やっと起きやがったか、お前」
頭上から知らない男の声が聞こえる。
どうやら自分は横になっているらしいと声の主の方に頭を上げると、そこには見知らぬ男がニヤニヤをこちらを見下していた。
「え?は…なに…だれだ」
「誰だ、とは失礼なガキだな。せっかく行き倒れてるお前をここまで連れて来てやったのにな」
行き倒れ?連れてきた?
理解できない言葉を紡ぐ男を見つめていると、すぐそばで老女の声が玲王の存在を無視するように男に向かって投げられた。
「ほぉ、本当に生きてるね。いいだろう、二枚でどうだい?」
「いやいや、それは安すぎるだろう。見てみな、この面。今は泥で真っ黒だが擦ると出てくる地肌は白いだろう、目もデカいしこれは最低でも四枚の価値はあるぜ」
突然男に腕を引き上げられ、身体を持ち起こされたかと思うと目の前の老女に向かって玲王の顔を突き出され、頬のあたりをゴシゴシと力強く擦られた。
突然持ち上げられた腕の痛みはもとより、頬を拭うその手の遠慮のない力加減に男から離れようとした瞬間、目の前の老女が玲王の顔を掴んだ。
「おや、なるほど。これは白いね。ふぅん、なるほど。確かに磨けば中々いける器量はあるかもしれないね」
ジロジロと玲王の顔や体を眺めるのも目に優しさの類は一切なく、その冷たい目に一瞬玲王は身体を強張らせた。
その瞬間、老女が玲王の下顎を掴んだかと思うと無理やり口を開かせ、口腔内を覗き込んできた。
「歯も全部あるね。いいだろう、四枚で買うよ」
「毎度あり。また御贔屓に」
老女が懐から金貨を四枚男に手渡すと、最初に玲王を見た時とは違う笑みを浮かべながら男は出ていった。
何が起こっているんだろう、あの男は誰だ?この老女は?ここは?
何も分からず周囲を見渡せば、そこは土間であった。
しかも、玲王の家に比べると狭いが、そこそこの大きさのある場所であった。
この家はなんだ?俺を、この人は『買った』のか?
尽きない疑問が脳内を巡っていると、老女が誰かを呼び始めた。
「蜂楽!蜂楽いないのかい⁉」
中に向かって大声で呼びかけると何処からか明かるげな声が返ってきた。
「はーい!ここいるよぉ!」
「今すぐ来な!仕事だよ!」
声の主はパタパタと軽やかな音を響かせながら、どうやら階段を降りてくるらしい。
「おかみさん、きたよ~」
そう言いながらこちらに駆けてくる声の主は可愛らしい相貌をした少女であった。
「遅いよ。コレ、今日からウチに来ることになった新入りだよ。汚いから風呂に入れてやんな」
「ん?新入り?」
「そうだよ、あ!ウチの風呂に入れるんじゃないよ。風呂屋に連れていきな、ウチの風呂が泥で濁るからね」
「はいはーい!了解!じゃあ、行ってきます!」
尚も大声で少女に指示しようとした老女は蜂楽と呼んだ少女の元気のよい挨拶に興を削がれたのか口を噤んだ。
その隙に、蜂楽は玲王の手を引き、外へ飛び出た。
「ふふ。あのババアのことは気にしなくていいからね」
嬉しそうに玲王の耳元で話しかけるその声に嫌悪感はなく、ただ新しい友人ができたとでもいうような楽し気な声と表情に玲王は何も言葉が紡げず、されるがままに小さな背中を追いながら歩いた。