秋月「晴れてよかったな、月がよく見える」
丹恒はベランダで満月を見ている。今日は中秋の名月と呼ばれる日らしい。テレビのニュースでもこぞって特集していた。眩い月光に彼の顔が照らされている。
「中秋の名月と十五夜は何が違うんだ」
俺は丹恒が買ってきた月見団子を食べていた。月見団子には中に何も入っていない物が殆どだが、これにはこしあんが入っている。丁度いい甘さで美味い。丸くて食べやすいのも良い。
「十五夜とは旧暦における毎月15日の夜のことで…中秋の名月は旧暦の8月15日に見える月のことだ。月見は旧暦の8月の十五夜にする決まりがあるので、ほぼ同じ意味だと捉えても良いだろう。」
丹恒は大学で民俗学を専攻している。大学でもその話は出たのだろうか。俺は自分から聞いておきながらほお、と一言だけの感想しか出なかった。今時旧暦で物を考える人間も居ないというのに、行事となるとこの国の人間達は目敏いことだ。
「俺の生まれ故郷でも毎年こうやって月見をしていた。大人達は酒を酌み交わしていたな。俺は月餅が好きだった」
だからこうやって応星さんと月見ができて嬉しい、と丹恒は語る。
俺はそれならよかった、としか言えなかった。丹恒が素直な気持ちを露呈してくれた時、なかなか気の利いたことが言えないし照れくさい。今度はカフカが昼にくれた兎の描かれた饅頭を食べる。こちらも素朴な甘さで美味い。こういった和菓子は早く食べないと傷んでしまう。
「…夕飯の後に食べすぎじゃないか?応星さんって結構甘いものが好きなんだな」
「俺が食いしん坊みたいな言い方はやめろ。お前に食べるか?と聞いてもいらないと言ったから俺が処理しているだけだ」
しかしそう言われたらそうかもしれない。菓子類は自分から進んで買わないが、甘いものは嫌いではない。甘いものを食べていると何かが満たされていくようで落ち着く。
さすがに饅頭をただ食べているだけなのも風情が無いと思ったため、俺もベランダに並んで立って満月を眺めることにした。秋の澄んだ夜空に月がいつもより大きく見える。
「中秋の名月の日に満月が見れるのはなかなか無いことらしい」
輝く満月と丹恒を見ていると、思い出せそうな気がしてくる。思い出すんだ。早く。早く早く早く。
…はて。思い出すとは一体何を?記憶喪失になる前のことだろうか。記憶を失う前に丹恒とは出会っていない筈だが…昔の記憶を無理やり呼び起こそうとすると、俺は決まって頭痛が起こる。そして結局何も思い出せない。
「応星さん?どうしたんだ、なんだか顔色が良くない」
やはり食べすぎたんじゃないのか、と月に照らされた碧い瞳が少し下から俺を覗き込んだ。碧の瞳を眺めていると痛みが少しずつ和らいでくる。月より尚、輝く光だ。
俺は真上に輝く満月を無視して、碧い瞳の持ち主に衝動的に口付けた。
「…餡子の味がする」
碧い瞳の持ち主は苦笑した。
やっぱり俺も食べることにする、と丹恒が言ってくれた為、兎の饅頭は無事仲良く俺達の胃袋に収められた。あと俺は食いすぎで気分が悪くなった訳じゃない。
満月は雲に隠されることもなく、星の見えない空をただ静かに照らしていた。