イヴ――ひどくつめたい、緞帳の内側。積悪を纏って。テンションを高く張る糸は、既に擦り切れる寸前。
その糸を引き裂いたのは、彼女の手だった。
ああ、母さん。どうしたの? こんな所まで。だからそんな冷たい顔、しないでよ。俺、嬉しいんだよ? 母さんに会えて、すごく嬉しいんだよ。
本当だよ! ねえほら――母さん、笑ってよ。俺は、その顔をずっと待ってたんだよ。ずっと――
「……泣いているのか」
「――え?」
カイナンのその言葉が、俺に向けられたものだというのはすぐに分かった。けれど一瞬、何に対しての言葉か分からなかったから、聞き返してしまう――泣いていた、って? 俺は今、泣いていたのだろうか。頬に手をやると確かに指先が僅かに濡れている気がする。
「あ、」
そう漏らしてしまったのは――カイナンに言われるまでは、自覚さえ無かったから。けれど指摘されてみると、その感覚をより強く認識した、気がした。
「なんで、だろう――俺、泣いてた?」
「……自覚も無しに泣くのは、感心しない」
「はは、そうだね」
俺が笑って頷くと、彼の眉間に皺が寄ったような気がした。なんだか怒らせるようなことをしたかな。まあ良いか、今はそれより――
シーツと俺の服が擦れる音。彼の顔の方に手を伸ばせば、何を言うでもなく受け入れられる。皮膚越しに感じる頬の骨の質感、高い香水の薫り、それから――彼の、体温。ああ、生きてる。
なんだか、また涙腺が弛むような気がしたから慌てて手を離した。でも――カイナンは、そのまま俺の手を掴んだままで。
「……なに?」
「まだ……時間はあるだろう」
俺が出発するまでの時間のことかな。それならたんとあった――いまは日が昇る前だから、二時間程度はあった。
「……そうだね」
何に対して、俺たちはここまで赦しあっているんだろう。
こんなことをしているのはおかしいって分かってて、それなのに――ただ、互いの存在を確かめるだけのようなことをしている。
カイナンが手を掴む力を強くしたのを感じた。そうして彼に触れる瞬間だけ、何故かいつも指先が冷えるような気がする。けれどそれもほんの一瞬のこと。あとはいつもの体温だ。
この行為だけが、俺と彼を繋ぎ合わせている。
「ねえ、カイナン。きみは俺のこと、愛してるのかな」
それは――俺が、ずっと前から訊きたかった、けれど一度も口に出せなかった問いで。
だってもし、愛している、なんて言われたら?
それが嘘でも本当でも同じことだ。彼の答え如何によって、俺の心など、いともたやすく揺らいでしまっただろうから――俺はこれほどまでに脆かった訳では無いのに、いつからかこんなになってしまったらしい。
俺は、カイナンとのセックスが嫌いじゃない。
彼は俺を愛してくれるから。俺を愛してくれているという幻想だけを抱いていられて、それが嘘ではないと分かるから。
「……愛してるって、言って欲しいな」
ひどく滑稽な問いだったと思う。彼はきっとそれを分かっていたし、俺はそれを分かっていたくせに訊いたのだから尚更だ――彼はそれでも、少し考えたあと口を開く。
「お前こそ、私をどう思っている」
――彼が、俺にそう問うのも初めてのことで。
ああ、そうだ。俺たちはいつだって、この関係を言葉にしてはこなかったし、言葉にするのだって恐ろしかった――だからきっと。こんな歪な形でしか、お互いを繫ぐことができなかった。だから、これは仕方のないこと。
「……だいすきだよ」
なんて空虚に響く言葉なのだろうと思った瞬間、目蓋の裏側が熱くなるのが分かった。ああ、また泣いてる。
みっともないな。分かっているのに、駄目だ。俺はいつもそう――どうしようもなく、心が分からない。
「……大嫌い、だ」
大嫌いな、はずなのに――どうしてそんなに優しい指で、俺を触るの?
なんでそんなに、愛しい人を見るような目で俺を見るの。この感情は本当に俺が持っていて良いものなのかな?
「……お前の、ことなど」
境界は、すぐ近く。
「愛している――筈など」
俺を赦さないで。ねえ、もっと痛くして。カイナン、きみの手で、俺に罰を与えてくれないかな。肩口の噛み跡だっていい、首を絞めて息を止めさせてもいい。ただ深い懲罰が欲しかった。優しさがどうしようもなく痛かった。わからなかった。
俺はきっと、わからないままで死にたかった。
前夜の骸はどうしようもなく。慣れれば、絢爛も、痛くて。望まない落陽が、傷口に沁みて、灼いて。沈んで行く。滾々と湧く血と痛みを、愛だと呼べたら。きっと俺はそれを、この手で掴み取ってしまうだろうから――どうかきみも俺に罰を与えて。
瘡蓋を剥がすみたいに、きみに傷つけられて。そうして俺は。
「……きみのこと、ほんとうに好きだったのになあ」
笑って。はじめて、そう言った。
どうしてだろう。彼が俺を呼ぶ声は、まるで、はじめて聞くみたいに聴こえた。
空がゆっくりと、黒を喪おうとしている。女々しい〝コウイ〟なんてものに振り回されて、俺はずっと、馬鹿みたいだと思う。
痛いくらいに時間はあるのに、言葉は、出てこなくて。まるで何かが抜け落ちたような心許なさが、胸中を満たして。でも、きっとそれが正解なんだと思う。俺と彼との間には、もうこれぐらいが適切なんだと思った。
彼は俺の額にそっと口づけていた。それがひどく優渥な行為であると思うくらいには、きっと俺も馬鹿になってしまったのかもしれない――ああでも、そうだったら。こんな気持ちも全部。いつか忘れてしまえる。その優しさの分だけ、きっと俺は彼を傷つけることができる。
「……時間だ」
ねえ、まだだよ。
なんて言える気すらしなくて、「そっか」
答えて身を起こす――彼の指が、名残惜しげに俺の髪を掠めるのが。どうしてか哀しくてならなかった。
「……じゃあね」