満ちる光のその先へ 「兄さん、次はこのお話読んで…」
何とかベッドの上に起き上がり、“もう限界です”とはっきり顔に書きながらも尚絵本の目次を指さす弟に、カイトは苦笑してみせた。ハルト就寝前の、カイトによる絵本読み聞かせタイム。今夜のハルトは随分と粘る。
「ハルト、もう眠いんだろう。続きは明日読んであげるから今日はもうおやすみ」
「うぅんまだ眠くない、あともうひとつ、もうちょっとだけ…」
「目が閉じているよハルト」
慌てて目を擦るハルトの腕を、カイトは優しく止めた。
「明日、また読んであげるから」
殊更にゆっくり告げる。“明日”をやや強調しながら。
そこに忍ばせた意図を感じ取ったのだろう。ハルトの目から眠気が消え、代わりに明らかな怯えの色が現れた。
恐らくはずっと、眠気の裏に隠れていた怯え。言い出せずにいたハルトの本心。
「明日…本当に明日?」
「ああ」
「明後日も?その次も?」
「明日も明後日もその次もだよ。だから安心しておやすみ」
兄さんはずっと、ハルトの側にいるよ。
ハルトの前髪から額へ、額から瞼へ、そっと掌で撫でていく。眠気に抗い続けていたハルトの瞼も、それにつられるようにして閉じていく。
「兄さんの手、あたたかいね…」
カイトは黙ってハルトの瞼をそっと抑え、頬を撫でた。もう怯えなくても大丈夫だと、この掌のあたたかさが少しは伝えてくれるだろうか。
「約束だよ、兄さん…」
眠りに落ちる直前の小さな呟きに応えるように、カイトはハルトの手を優しく握りしめた。瞳を閉じる寸前まで僅かに声を震わせていた弟が、せめて夢では安らかであるようにと。
ハルトを寝かしつけて自室に戻ったと思ったら、今度はDゲイザーが鳴り止まない。舌打ちしながらカイトが画面を開くと、賑やかな声が耳をつんざいた。
『あーーーっ!!!!!カイト!!やっと出た!!何やってたんだよずっと呼んでたのに!!』
「…遊馬か。うるさいもう少し声量を下げろ。というか何の用だ」
先程まで弟に向けていた眼差しとも声音ともまるで違う、絶対零度とまではいかないが明らかに冷たい態度。だが、遊馬は相手の塩対応に怯むようなタイプではない。
『いや別に?何してるかなーと思って』
「…貴様」
『あ、嘘嘘!嘘!!新しいデッキ組んだから、カイトさえ良ければ明日見てもらえないかなーなんて…さ…』
明日。
『なんかシャークもカイトとデュエルしたいみたいだった!Dゲイザーでずっと呼んでるのに繋がらないってさっき俺んとこにかかってきてさー』
神代凌牙も。
『でさぁカイト、明日…会える?』
明日。
カイトは静かに息を吐いた。
「明日も研究だ」
『あ…そうか…そうだよな…』
「だが、夕方からなら空いていないこともない」
『え?!』
「実験の結果次第だがな…それで良ければ相手をしてやる。凌牙にもそう伝えておけ」
ミザエルにもな、と付け足すと『なんでわかんの?!』という素っ頓狂な声が返ってきた。
わからない筈がないだろう。
ハルトが寝たがらない理由も。お前たちが連絡を寄越す理由も。
「わかったらもう寝ろ。ハルトも寝た」
ハルト6歳じゃん一緒にすんなよーという不満気な声を聞きながら、一方的に通信を切る。
約束はした。そして守る。
今の自分にできるのは、それまでだ。
テーブルに置きかけたDゲイザーが再び通信を知らせた。画面を見やって軽く目を見開く。
…無理もないこととは言え、どうやら自分の周りにはよほど心配性が集まったようだ。
いや。
最後の相手に関しては、責任も感じているのかもしれない。
―そんな必要はないのに―
通信を繋げる。
「…どうしたクリス。あんたまで明日の約束か」
『あぁカイト、起きていたんだね』
画面の向こうで柔らかく微笑っているのは、かつての師であり、今の研究仲間だった。
『私まで、とは?誰かと明日、何かの約束をしたのかな』
なら行って来るといい、明日の実験は私一人でも十分できるから。
友達ができて良かったねと言わんばかりの表情で続けるクリス。未だに自分を庇護対象として見ているかのような物言いに、苛立ちと嬉しさを半分ずつ感じながら、カイトは口を開いた。
「遊馬から連絡があった。新しいデッキを見てほしいと」
『相変わらずだね遊馬は』
「凌牙も、俺とデュエルをしたいらしい」
『凌牙とは久しぶりじゃないかい?デッキを見直したほうがいいかもしれないな』
「恐らくミザエルも来る」
『…そう』
「ハルトからは寝る前に読む絵本のリクエストだ」
『…そうか』
「あんたは」
『………』
「あんたも俺と、明日の約束をしに来たんじゃないのか」
今夜は、年の瀬の満月だから。
バリアンとの戦いのなかで、カイトは一度命を落とした。
カイトの命が尽きる瞬間を、遊馬とハルトは通信画面越しに、ミザエルは目の当たりにした。
クリスは、わかっていながらカイトを死地へと向かわせた。
月へと。
極寒の地での開発を終え、紅く染められた世界を見たあの頃、季節感なんてものはなかった。だが、ヌメロンコードで蘇ったあとに街の装飾を見て逆算し、自分が死んだのは1年の終わりだったのだと気付かされた。1年の穢れを祓う日に、多くの人間の魂を刈り取ってきた自分が生から祓い落とされるとはなんと理にかなったことだと、一人嗤ったことを覚えている。自分の帰還を願った者達が悲しむだけなので、その自罰的な考えは口が裂けても言うことはないが。
自分が戻ってきたとき、全身をぶつけるようにして抱き着いてきた弟が、涙を流して縋り付いてきた父が、師が、仲間が、好敵手が、あれ以来さり気なく満月の夜を避けるようになったことには気付いていた。例えば、市街も夜空も一望できるハートの塔の最上階は、満月の日は夕刻には全ての窓にカーテンを下ろしてしまう。空が近いから眩しくて眠れないんだとハルトは笑うが、眼下のテーマパークの方がよっぽど眩しくて賑やかな筈だ。
ヌメロンコードは、戦いの記憶も喪失の悲しみも無かったことにはしなかった。その真意は皆がわかっている。しかし、だからこそ未だ怯え続ける家族や仲間に何ができるか、カイトはずっと考えている。
もしかしたら、それこそが自分の贖いなのではと思いながら。
「クリス、今夜は今年最後の満月だそうだ」
『知っているよ。凄く綺麗だと父様がはしゃいでいたからね』
「あんたも見たのか」
『いや、私は…』
「だったら見ろ。この時間ならまだよく見えるだろう」
『カイト、それは』
「見ろ。俺もこれから見る」
立ち上がり、Dゲイザーを片手にカーテンを開ける。
ハートランド最大の塔の最上階は伊達ではない。
驚くほどに大きな月が、カイトの眼前に広がっていた。
ゆっくりとDゲイザーを傾ける。画面の向こうのクリスにも、月が見えるように。
「見えるか、クリス」
『…見えるよ』
「こんなに近く見えるのに、実際は遠いんだな」
『そう、だね』
「曖昧だな、具体的な数字はあんたが教えてくれたんじゃないか。地球と月は38万Km離れている、光が届くには約1.8秒かかるって」
『そうだったかな……』
「クリス」
そわそわと生返事を繰り返す相手の名を敢えて強く呼べば、画面の中の小さな体がびくりと震えるのが見えた。なんだ。だらしがない。
「今年最後の、こんなに綺麗な月をあんたと一緒に見られて、俺は良かったと思っている」
あんたはどうだ。
俺の向かった月を、俺の死んだ月を独りで見上げているわけじゃない。
もう俺のいない月を、俺と一緒に見ているんだ。
生きている、俺と一緒に。
「…あんたは」
宇宙の真空もかくやと思えるほどの沈黙の中、カイトはただ相手の返答を待つ。
「………そうだね」
Dパッドが届けた声音は、優しく力強かった。
「とても綺麗だね、カイト」
静かな部屋に、どちらのともしれない吐息が響く。張り詰めた空気が、解けていく。
月光が、ゆっくりと部屋に満ちていく。
「カイト、これは教えたかな。月の土地にはそれぞれちゃんと地名がついているんだよ」
「それは…どうだったかな。聞いたかもしれないが覚えていない」
「失礼な生徒だな君は」
「七日七晩あんたに吹っ飛ばされ続けたせいで、殆どの知識は飛んだ気がする」
クリスの笑い声が聞こえた。部屋を満たす光に負けないほどの、明るく朗らかな笑い声。
「明日、」
月明かりに照らされたまま笑うクリスに、カイトから約束を持ちかける。
「明日教えてくれないか。月の地名。研究の合間にでもいいから」
必ず行くから。
あの時迎えられなかった“明日”に。自分が大切な人たちを置き去りにしてしまった“新しい日”に。
クリスが頷くのを確認し、おやすみと挨拶をしてからカイトはそっと通信を切った。
明日。
研究の合間に、クリスから月の講義を受ける。クリスのことだ。きっと白熱するに違いない。だからその後のスケジュールは押してしまうかもしれないが、そうなったら遊馬とミザエルはハートの塔に押しかけてくるだろう。そこには凌牙もいるかもしれない。そうしたらハルトも喜んで混じって、夜には絵本を読む暇もなく寝ついてしまう可能性もあるが…それならまた次の日に読んでやればいい。明日も明後日もその次も、と約束は続いているのだ。
そう。
まずは明日。カイトは皆をいつも通り出迎える。明後日も。その次も。1年の最後の日を超えて、満月の夜を超えて、堂々とした、不遜にも見える姿で皆の前に立ってみせる。勿論ハルトの前では優しくだ。
天城カイトは、生きている。
そんな日が、当たり前になるまで。
満月の光が、皆に柔らかく降り注ぐようになるまで。