えにしをくくる。龍巡りが始まって間もない頃。
セルジュとの何気ない会話で、『もう一方の世界』の自分の顛末を知った。
「ザッパさん、ずーっと心配してたよ。おとうさんとおかあさんに会いに行った方がいいよ!」とセルジュにしては珍しく強引に事を進め、もう一方の世界のテルミナへ連れて行かれた。
そして、『死海から帰還した息子』を演じ、『三年ぶりの再会』を終えた。
人生の中であんなに泣いた両親は見たことがなかったので、少し胸が痛んだ。
湿っぽい雰囲気になった実家を出ようとすると、涙で目を赤くした母親が手招きをする。
「カーシュ。ちょっと、こっちへいらっしゃい」
「…なんだよ」
「いいから、ちょっと」
明らかに俺だけを呼んでいる雰囲気だったので、セルジュ達には先に外に出てもらい、母親の後へ着いて行った。
父親にも見られないように別室に移動すると、母親はスカートのポケットから小さな赤い箱を取り出した。
「これ、持っていきなさい」
受け取り中身を確認すると、指輪が台座に収まっていた。鮮やかな青の流線と銀の流線が絡んでおり、宝石はついていない。飾り気のないシンプルなデザインで、やや大きめなのも相まって男女どちらにも合いそうだ。
「どうしたんだ、これ?」
「あたしがあの人からもらった婚約指輪だよ」
「俺にか? なんでだよ」
「おまえ、忙しくてなかなか戻って来れないんでしょう? なら、渡せる時に渡そうと思ってね。大事な人ができたら、渡してあげなさい」
大事な人、と言われ、真っ先にリデルの顔が浮かんだ。幼い頃からずっと大好きで大好きで仕方ない、憧れの人だ。
エルニドには『婚約の際に親から受け継いだものを相手に渡すことで、家族の一員として迎え入れる』との習わしがあるらしい。母親はこの習わしを意識して指輪を渡したのだろう。確かダリオも、リデルとの婚約の際に母の形見のペンダントを渡しているはずだ。
「…俺は…」
ただ、あの方の指にはいまだにダリオとの婚約指輪が輝いている。あれを外して新しい関係を結ぶことなど、できない。俺に振り向いてくれたことなんて、ただの一度もない。彼女は、ダリオだけを想い続けているのだから。
リデルとダリオのことを思い浮かべて、胸が苦しくなった。
この指輪は間違いなく父親の手製で、母のお気に入りに違いないが、おそらく出番を迎えることはないだろう。違う世界とはいえ、母の想いも無駄になると思うと、余計に心苦しい。
言い淀んだ様子を見て、母親は何かを察した…かどうかはわからないが、困ったような笑みを浮かべながら俺の右手を両手で包み込んで、箱の蓋を閉じさせた。
「おまえがどこにいても、幸せでいてくれたらそれでいいから。この指輪は、好きに使いなさい」
「…おふくろ」
「…だから、元気でいなさいね」
「……ああ」
おそらくは『金に困ったら質にでも入れろ』くらいの意味で、『好きに使え』と言ったのかもしれないが。
いつか、好きに使えるときが来るのだろうか。
愛しいあの人の繊指に、この指輪が輝く日が。
今はとても、そんなことは考えられないが。
異世界の存在でも、母親の掌はとても暖かく感じられた。
好きに使うなどできず、指輪はしばらく懐に入れたままだった。
龍巡りの間に、落ち込むセルジュとさまざまな話をして絆を育んだ。
やがてダリオと再会し、死闘を経て、リデルやダリオへのわだかまりも解消され。
セルジュは、元の姿を取り戻し。
気がつけば、セルジュの強さや優しさに惚れていた。
気持ちを仕舞い込んでおくことができず、好意を伝えた。
初めて芽生えた気持ちに戸惑いながらも、セルジュは想いに応えてくれた。
以降、仲間の目を盗んでは逢瀬を重ねた。
ふたりで過ごす時間は、いつも楽しくて。
肩に力を入れず、笑い合えて。
時には、身体を寄せて、触れ合って。
彼を構成するすべてが魅力的で。
誰よりも、大切な存在になった。
時は巡り。
旅は、終わりを迎えようとしている。
龍神は、『時喰い』という新たな生命体へと姿を変えたらしい。
キッド曰く、「戦い方」が鍵になるという。
セルジュはその言葉を聞いて、ずっと歌を口ずさんでいる。
その意味はいまだにわからず、その先に待つものもわからないが。
どうしても、その前に。
二つの月が、煌々と輝く夜。
全てが始まったというあの砂浜にセルジュを呼び出し、母親から預かった箱を開けて、右手で捧げた。
「これ、なあに…?」
「この先、どうなるかわからねえけどよ。受け取ってくれねえか」
開けられた箱の中身に、大きな青い瞳を二度三度瞬きさせる。
どこかひとつ好きなところを挙げろ、と言われたら、間違いなく『瞳』と答える。改めて見ると、指輪の青い意匠がセルジュの瞳を思い起こさせる。母親の瞳の色をイメージして作ったのかもしれないが、時間経過により深みが増して、セルジュの瞳に近い色になっている。
「おまえの横に並んで、最後まで戦い抜きたい。戦いが終わっても、おまえとずっと一緒にいたい…だから、俺の『家族』になってくれ」
本来なら会うこともなかった異世界の存在同士で、
肩を並べていくつもの窮地を抜けて来た仲間で、
なんでも腹を割って話せる親友で、
成長し続ける姿を見守りたくなる歳の離れた弟のような、
愛らしい恋人でもあるこの少年との、
不思議な関係性にあえて名前をつけて、かたちにするなら。
『家族』になりたいと思った。
波の音だけが辺りを支配する。
青い瞳を大きく見開いて、指輪と緋色の瞳を交互に見ながらぽかんと口を開けたセルジュ。…やっぱり、言葉の選び方が変だっただろうか。初めてのことに直面して、戸惑う姿をたびたび目にした。今もそうなのだろう。それに、強要はしたくない。
「…….悪い、また困らせちまったよな。嫌なら、断ったっていいんだぜ」
「ううん、嬉しいよ….」
小さく首を振ったセルジュは、ほんの少し目を潤ませている。固く結んだ口は、涙を堪えているようにも見える。
「ボクも、旅が終わってもカーシュとずっと一緒にいたいって考えてた。けど、どうしたらいいかわからなくてずっと悩んでた。ボクのわがままで、困らせちゃいけないから…」
言葉尻を消しながら、大きく一歩近づいて。
箱を抱えた右手が、そっと少年の両手で包み込まれる。表情はとても優しい。
「『家族』って、すてきだね。ぜんぜん思いつかなかった。ボクはひとりっこだし、とうさんもいないから、そう呼べるのはかあさんだけだと思ってたけど、カーシュが『家族』になってくれるなら嬉しい」
青い瞳が、ひとつひとつの言葉を噛み締めるように大きく瞬く。
「それに、ボクは『お嫁さん』にはなれないけど、『家族』ならなれるよね」
『恋人』らしいことをし始めた頃に、たびたび『ボク、女の子じゃないけど、平気…?』と気にしていたのを思い出す。そのたびに『好きだから関係ねえ』と伝えてきた。もしかしたら、性自認をどうしても変えられないだとか、目の前の男が同性の自分にこんなに好意を向けてくるのが不思議だとかで悩ませていたかもしれない。
だから、『結婚』という言葉を避けた。
そのままのセルジュを愛しているから。
「ボクが困ってたり悩んでることから、カーシュはいつも優しく助けてくれる。
ボクが思いつかないことばで、いろんなことをたくさんたくさん教えてくれる。
だから、だいすき」
「セルジュ…」
『だいすき』の言葉が身体中に染み渡って、心が温かくなる。
救われているのはいつもこちらの方だ。
セルジュは、すべてを許してくれる。
肯定的な言葉で、認めてくれる。
関わったすべての者を、その優しさで包み込んで救おうとする。
悩んだり涙することがあっても、いつも前向きだ。
そして、常にたくましく成長し続ける。
だから、好きになった。
「ボクも、カーシュと家族になりたい。ずっとずっとカーシュの隣にいたい」
両手でそっと箱を受け取り、宝物をしまうようにゆっくりと閉じて、胸元で包み込むように抱きしめる。
「ありがとう。大切にするね」
目を閉じて、頬を赤らめながら愛おしそうに箱を抱きしめるその姿は、幼い子どものようで可愛い。
胸が高鳴る。
きっとこの先、年月を重ねてもセルジュに何かしらの可愛さを見出すに違いない。
それだけ、惚れ切っている。
ただ、それは。
しまっておくために、渡したわけではないから。
「……手、貸してみな」
「ん?」
左手で箱を抱えて、握手をするかのように右手を差し出すセルジュ。…これから何をするのかわかってないらしい。まあ、そんな天然なところも可愛いのだが。
「違えよ、左手だ。ついでに手袋外せ」
言われるがまま左手の手袋を外して、藍染のパンツのポケットに突っ込む。普段は隠れている素手が、掌を上に向けて差し出されるが…まだ向きが違う。思わず苦笑いが浮かんだ顔を見て、セルジュは首を傾げる。
左手を掴んでゆっくりと甲を上に向けさせると、何かに気づいたような「あっ」という声がセルジュから漏れた。ようやく何がしたいか伝わったらしい。掴んだ手がわずかに汗ばんで、指先がぴんと伸びる。大人と子供の中間にある少しずつ骨ばってきた手は、日に焼けた部分よりも白い。セルジュの母親は肌が白く綺麗な人だったので、母親譲りなのかもしれない。
一度箱を預かり、指輪をそっと取り出して、セルジュの左手の薬指に通す。たったそれだけのことだが、神聖な儀式のようで互いの手が震える。ふたりで指に通されるさまを真剣に見つめる。浅く緊張した呼吸が、波に紛れてかき消される。
世界中を駆け巡っていたので指輪のサイズを直す暇がなかったのだが、無事にはまった。母から受け継いだものだが、あつらえたかのようにぴったりだ。若き日の母の指のサイズとセルジュの指のサイズが一緒かと思うと、少し複雑な心境だが。
2色のラインが輝く左手を月にかざして、目を輝かせるセルジュ。頬がほんのり赤く染まり、感嘆のため息が漏れている。
「きれい…」
「よく似合ってる」
縁を結んだ左手をそっと手に取って。
この旅の中で生まれた、新しい感情の数々を込めて。
無垢で滑らかな手の甲に、唇を落とす。
手の甲へのキスは、敬愛の証と聞いた。少しでもその気持ちが伝わったらいいが。
潤んだ瞳でその様を見つめるセルジュが、目を輝かせてひとことつぶやく。
「…絵本に出てくる王子様みたい」
添えた手に力が入った。照れで、顔に熱が集まるのがよくわかる。こうして照れるようなことを、いつも予期せず、飾り気なく言ってくる。発する言葉の全てが、嘘偽りのない本心なのだろう。
……その素直さが好きなのだが。
「…っ、ンン、ま、まあ、オージサマって柄じゃねえけどな…どっちかと言えばだな、エルニドを、ひいてはこの星のすべてを守るために戦う栄光の龍騎士様、って方がいいぜ…」
添えてない方の手で咳払いをするふりをしてなんとか言葉を紡ぐと、セルジュはさらに目を輝かせて添えた手を両手で包み込んだ。
そして、真剣な表情で強く握りしめる。
「じゃあ、ボクは星を守る龍騎士さんといっしょに戦う!」
もしかしたら、最後の戦いを目前にして緊張していたのは、俺の方かもしれない。
心のどこかにあった澱が、溶けて無くなっていく感覚だ。
出会った頃は頼りなく幼い少年だったが、今では誰よりも強く優しい。
さまざまなものを救ってきた両手は、心地良い温かさだ。
全身でその温かさを感じたくなって、空いた方の手でセルジュの背中を引き寄せ、抱きしめる。
腕の中で両手が解かれると、そのまま白い道着の背中に回される。
解放された右腕は、セルジュの腰に添えた。
愛しい青い瞳が上目遣いで見つめると、互いに笑みがこぼれた。
「…おまえが一緒なら、この先何が来たって怖くねえな」
「ボクも、カーシュが一緒なら心強いよ。だって、ボクの『家族』だもん」
——本当に、この少年には敵わない。
今はほんの少し下から見上げて腕の中に収まっているが、そのうち背丈も抜かして身体もさらに逞しくなるに違いない。
その時が来るまでは、少し先を歩きたいから。
顔を近づけ瞳を閉じて、唇を重ねた。
もしかしたら、セルジュはあの時点で知っていたのかもしれない。
『いま一度、時を紡ぐ』という意味を。
世界は救われた。
ひとりの少女は、癒された。
俺達が『家族』でいられた時間は、ほんのわずかの間だった。
それでも——ほんのわずかな間でも、関係を結べてよかった。
縁が結ばれたなら。
いつかまた、巡り会えると信じて。