艶髪髪を、切った。
誰に頼むこともなく自分で。
じゃく、ばつりと音のしたあとでもう取り返しがつかないと遅れて気づいた。
当然、道行く知り合いなんかに何があったのかと聞かれたが、周りには「暑かったものだから」と言って押し通した。
そんな嘘をつくたびに胸が締め付けられるような気がして、逃げるようにその場をあとにした。
今日はあの人の所に行く予定があったのだ。
着いてからあの人が一番に口にしたのはオレの髪のことだった。
「ヘルメス、どうしたんだその髪」
暑さのせいですよ、最近はとてもじゃないが耐えきれない暑さだったもので、と言いかけた言葉は、あの人の声で遮られた。
「まあお前のことだ、失恋でもしたんだろう」
ああ、そのとおりだとでも言ってやりたかった。貴方のせいでこんなことになってるとでも言えばよかった。そしたら嫌でも記憶に残って離れなくなっただろう。
でも言えなかった。忙しい中、慣れない嘘をつき、他の人の心配も払い除けて、朝早くに髪を切り、ここまで来たのに。
貴方はもう、オレに見向きもしなくなったのですね。
雄弁の神のくせに何も言えなかった自分をひどく恨んだ。
髪を、切った。
幼少期に一度、用事が重なりなかなか散髪に行けない時があった。
その時に伸びきった自分の髪を見てあの人が少し微笑んで褒めてくれたのがきっかけだった。
おそろいみたいだと少しこぼした自分の言葉をあの人はすくって、「そうだな」と言ってくれた。
あの人の長さまでは伸ばす勇気がなかったけれど、それでもまた褒めてくれるのではないかと、お揃いだと言ってくれるのではないかと思って伸ばしてきた髪だった。
髪には気を遣って、あの人みたいな真っ直ぐな髪になるよう毎日くしでといていた。オレは生まれつきくせ毛だったから丹念な手入れもしてきた。それでもやはり生まれつきの体質には逆らえずうねるばかりであったが、次第に愛着も湧いてきていた。毎回綺麗に切りそろえてきた髪だった。
髪を、切った。
自分で髪を切った。
勢い任せに切ったものだから綺麗に切りそろえられてなどいなかった。
それでもよかった。
この感情を捨てるきっかけになるのならばそれでよかった。
ああ、オレは、オレは髪を切ってしまった!
あの人への恋を、感情を、恨みを全て捨ててしまった。共に育ってきたそれをオレは切り刻んでゴミ箱に捨ててしまった。
今更涙が出てきて、後悔ばかりがとめどなく押し寄せてきていた。
オレはあの人のことが好きだった。
振り向いてくれないことはわかっていた。
なにもあの人に意中の人ができたと告白された時に気づいたわけではない。
それならあの人が手紙を渡してきてほしいと頼んできたときに気づいたわけでもない。
パーティーを開けだの、椅子に座れだの、無茶振りをたくさんしてきたときに気づいたわけでもなかった。
初めからわかっていたのだ。あの日、すべてのはじまりの日、自分の髪を褒められた時に既にオレは気づいていた。
それを気づかないふりをして今の今まで、この数百年にもなるような永い時を生きてきたのだ。あの人と一緒に。
もしかしたら、という僅かな望みに縋るように生きてきた。
無意味だとわかっていながら、あの人に尽くした。
オレにはもう、その道しか残されていなかった。
身長だってあの頃より随分と伸びて、あの人との距離はずいぶんと縮んだ。自分の声だって聞こえやすくなっていたはずだった。
しかし、この数百年の間にあの人はオレに目を合わせてもくれなくなってしまった。オレの言葉をすくってもくれなくなった。
ああ、オレは一体どこで、何を間違ってしまったんだろう。
それともこの想いのすべてが間違っていたとでも言うのですか。
誰か教えてくれませんか。
どうしてだれも、教えてはくれなかったのですか。
まだ太陽が照らす夕暮れ時の中、髪の短い男が誰宛てかもわからぬ恋文を持って歩いていた。