「平田平男」早朝に飛び込んできたけたたましい通知音で叩き起こされる。
眠気と戦いながら携帯を開くと、そこに届いたメールにはとある"治験バイト"の『合格』を伝える文面が書かれていた。
「…マジか」
眠気などとうに消えさっていた。
─数週間前
「おーい?…聞こえてんのか?起きろって、授業終わったから帰るぞ〜」
そう声をかけられ目が覚める。
「ん…悪いな、起こしてもらっちゃって。先帰ってても良かったのに」
「寝てる友達ほっとけねーだろ普通。それにお前、帰りに漫画買うって言ってただろ?早くしないと売り切れちゃうぜ。」
「はは…ほんとお人好しだなお前、別に漫画くらい今度買うよ」
「ネタバレ嫌いなくせによー言うわ」
そんなふうに他愛のない会話を交わしながら帰りの支度をしていると、やはり自分は恵まれているのだと実感する。
そこそこいい大学に入れて、友達も人並みにいて、尚且つ良好な関係を築けている。その上金や暮らしにも特段困っていない。傍からみたら「幸せ」そのものだろう。それでもどこか満たされないのは、何故なのだろうか。
オレの世界には、ずっと色が存在しない気がしている。誰かこのつまらない世界から連れ出してくれないか、なんていうのは贅沢な悩みだろうか。
「そういやさ、お前あの"事件"知ってる?」
そんな思考に耽っていた帰り道、友人の話を聞いているとおもむろにそう質問された。
「事件?なんだよそれ」
何も知らないオレを見て、やっぱりかと呆れたような顔をしながら友人はその"事件"について教えてくれた。
端的に言えば、とある治験バイトに採用された人が軒並み失踪する奇妙な事件が全国の大学で多発しているというものだった。彼が言うには範囲が全国というのもあり、警察も動く大きな事件になっているが捜査は難航しているらしい。何の治験バイトなのか、誰がどういう目的で募集しているのか、採用基準は何なのか…そういった詳しいことはまだわかっていないそうだ。
そして、この事件はどうやらオレ達の通っている大学も例外じゃないようだった。
「って感じでさ…めっちゃ怖くね?しかも戻ってきた人は軒並み様子がおかしくなってるらしいし…」
「まあ怖いというかオカルトじみてるというか…不気味だよなあ。でも100年前にはいなかったらしい巨大ロボだとか云々が今わんさかいるんだから100年後には定着してるんじゃねーの、その治験バイトも。」
「まあそうだけど…お前なあ…」
そう言ってしかめっ面になる友人をよそに、オレはその"治験バイト"とやらになぜか興味をそそられていた。
気づけばもう辺りも暗くなってきていて、友人と分かれたあと急いで本屋に向かった。
表通りで行くとおそらく着いた頃にはとっくのとうに閉店時刻を過ぎてしまうだろう。仕方なく、比較的近道である裏路地を通ることにした。一刻も早く通り抜けようと駆け足で歩いていると、ふと遠くの壁に貼られたポスターが視界に入る。
誰も通らないような裏路地にはあまりにも不相応な派手な色使いのそれに、急いでいた足を止められじっくり見てしまう。
そしてその紙切れに書かれているものを見て、思わずゾッとした。
【次元を超えるための実験の治験ボランティアを募集しています】
そうでかでかと書かれている文面の下には、参加条件や報酬、どこの組織が募集しているだとかは一切書いておらず、応募するための連絡先しか書いていなかった。また、参加期間に関しては「個人によります」とだけ書いてあり、あまりにも必要な情報が欠けすぎている。
オレは直感で理解した。これはあの"治験バイト"だ。
こんな目立たない路地に貼られていたら普通見つかるわけがない。それに、見つけたとしても全く持って情報が得られない。捜査が難航してもおかしくない。
何より恐ろしかったのは、このポスターを見つけたのが偶然とは思えなかったところだ。
今日までこの事件のことを知らなかったのに、
話の流れで友人から教えられ、
それになぜか興味を持って、
たまたま普段通らない道を通ったらその事件に関係する物事に出くわす、
なんてあまりにも話が出来すぎている。まるで、小説や漫画みたいな、それこそフィクションみたいな展開だ。
そう恐ろしく思ったのと同時に、この機を逃したら一生この募集ポスターには出会えない気がした。次元を超えるための実験、というのも好奇心をくすぐられる。
…それに、もしかしたら。もしかしたら、この実験は自分のありきたりな人生を変えてくれるかもしれない。平凡で、退屈で、つまらないこの世界から抜け出せるかもしれない。
仮にこの実験が終わったあと気が狂ったとしても、それはそれで彩りになるんじゃないか。そのほうが、全く持って色が存在しない世界なんかよりよっぽどマシだろう。
例えこれが神様によって仕組まれ、導かれた甘美な罠だとしても。
オレは神様に嵌められることを選んだ。
ポスターに書かれた連絡先に応募メールを送った後で今更自分が本屋に向かうはずだったことを思い出し、急いで本屋に向かった。が、もうすでに閉まっていた。
すっかり夜も更けてしまっていたので、発売日に買えなかったのは残念だがその日は真っ直ぐ家に帰ることにした。
後日、説明会と面接の日程と待ち合わせ場所が書かれたメールが届いた。ただ、説明会や面接と書いてあるにも関わらずしたことといえば職員を名乗る人物とファミレスで話すことくらいで少し拍子抜けするものだった。
しかし、今こうして自分の携帯には『合格』と書かれたメールが届いている。一体何を見て合格という判断を下したのか自分にはさっぱりわからなかったが、採用されただけ良いのだろう。メールには合否以外に、治験の日取りと治験する施設までの簡素な地図が書かれている画像が添付されていた。
数日後、オレは添付された地図に書かれていた施設まで足を運んだ。
よくあるコンクリートで出来た地味な建物で、良くも悪くも予想通りといったところか。木を隠すには森の中、とはよく言ったものだ。このぐらい小規模な建物だからこそ今まで検挙されることがなかったのだろう。
職員に連れられて中に入ると、不気味なほど真っ白な壁とインクの匂いがこちらを歓迎してきた。
最初に通されたのはパイプ椅子と長机の置いてある部屋だった。パイプ椅子に腰掛け、そこで初めて職員から注意事項と実験内容、それから報酬についてを聞かされる。
実験内容はポスター通りで、正確には二次元空間に飛ばされるというものだった。そして飛ばされた先で「漫画の中のキャラクター」として過ごせれば良いらしい。報酬もちゃんとしたものを用意してくれるようだった。ただ、
どの様な世界に飛ばされるかは自分で選べないこと、
飛ばされる際に自分の記憶は消され「キャラクター」としての記憶のみが上書きされること、
途中で異常が起きない限り、いつ戻れるかはわからないことも聞かされた。
それら全てに二つ返事で承諾すると、次の部屋に案内された。
部屋にはカーテンで遮られた空間と簡単な服がおいてあり、どうやらこれに着替えればいいらしい。
言われた服に着替えている最中、カーテン越しに職員からこう言われた。
「今から記憶を消され、別の人生を歩まされるというのに随分と呑気ですね。場合によっては何年、何十年とこちらに戻ってこれないというのに…先程の迷いのない返事といい、後悔はないんですか?」
この実験が本質的には輪廻転生であることは理解している。それでも後悔なんてなかった。自分の記憶が消えようと、別の"ヒト"の人生を歩まされようと、自分の知り合いが全員いなくなるまで戻ってこれなかろうと、そんなものは大して足枷にならなかった。
そのことには悪趣味な質問ですね、とだけ返し着替え終わったことを報告した。
最後に通された部屋は今まで以上に無機質な部屋で、小さな机の上にボタンが置いてあるだけの狭い部屋だった。このボタンを押すことで二次元空間へ飛ばされるとだけ職員に告げられ、部屋の扉を閉められる。
─正直、この治験に応募したのは一種の賭けだった。このつまらない世界から連れ出してほしいという、誰にも言えずただひたすらに夢みていたことを叶えられるチャンスだと思ったからだ。
全てが終わる前に深呼吸をし、全てが始まる前に願掛けをして、ボタンを押した。
『神様どうか次は面白い世界に生まれることができますように…』
周囲にあるのは山のみの広大な野原、辺り一面何もなく空は雲一つない青空。誰もいないその世界に唯一いる存在。そして、全てを知っている存在。
「オレの名は─」