かわたれ時の君彼女の意識は電車の中から始まった。
走行音の静かな電車は、まるで宙にでも浮いているように、わずかな乗客とミリアリアを乗せて走っている。
電車に座ったまま、うたた寝をしてしまっていたのか、ぼんやりとした視界が徐々にひらけていく。車窓から見える景色は薄暗い。夜明け前なのか日が落ちた後なのか、それとも嵐の前のような分厚い雲がかかっているのか、そもそもヘリオポリスに嵐など来ていただろうか。そんな疑問が頭をよぎり、今いる場所がヘリオポリスだということを認識する。
昼か夜かもわからない、彩度の落ちた世界の中にミリアリアは居る。
「そうだ授業……間に合うかしら」
そう呟く彼女の膝の上には、学校の授業に使う参考書や筆記具などが入れられた、通学カバンが置かれている。
学校へ向かっている、ということは今は昼なのだろうか。空に太陽はない。
時間の感覚があやふやだ。こんなにも長い時間、電車に揺られ通学をしていただろうか。それ以前に、電車を使って通学していただろうか。友人の運転する車に乗り、たわいもない話をしながら学校へ向かっていたような気もする。
彼女の中で違和感が麻痺を起こし、あぁ……こんなものだったのかも、と疑問は納得にすり替わった。
見覚えがあるのか無いのかわからない風景を、ぼんやり見つめていると殺風景な駅に着いた。降りたのはミリアリアだけだった。他の学生はおろか、誰一人降りることはなかった。遅刻したかなと思い、ミリアリアは一人カレッジに向かう。
「あら、ミリアリアじゃない」
突然隣から名前を呼ばれ、ハッとして振り向くと、一人の見知った少女が立っていた。緩やかなウェーブがかかった、ラズベリー色の長い髪の少女は、ミリアリアがここに来るまでに見た、あやふやな景色の中で唯一ハッキリとした印象を放っていた。
「フレイ? あなたも遅刻?」
「何言ってるのよ、授業はもう終わったわよ」
ふふふと可笑しそうに笑うフレイを見て、ミリアリアはひどく懐かしい感覚に襲われた。もしかして今日は、長期の休み明けの登校日だったのだろうか。もう随分と、フレイとは顔を合わせていないような気がする。
「これから、どこに行こうかなぁ」
視線を外しながら微笑むフレイは、どこかふわふわとしている。フレイのことは知っているのに、目の前にいるフレイとミリアリアの記憶の中にあるフレイの印象が、どうしてか重ならないのだ。心に何かが引っ掛かる。
フレイの周りには、まるで美しい花に吸い寄せられる蝶のように、女友達が集まっていた。それはミリアリアにとって当たり前のような光景だった。
今の彼女の周りに居るのはミリアリアだけだ。ふわふわと風に揺れる一輪の花のように、フレイはそこにいる。
いつも近づけなかった、いや近づこうとしなかった。自分とは違う世界を持つ彼女と話す機会は、他の友達に比べて少なかった。今はそんな彼女と向き合って話してみたいとミリアリアは思った。
「あのっフレイ、予定がないなら、たまには一緒にカフェでも行かない?」
そんなミリアリアの誘いに、フレイは一瞬憂いを含めた笑みを浮かべたかと思うと、フイッと後ろを向いてしまった。
「私に予定はないけど、あなたにはあるじゃない」
「私?」
顔を合わせもせずそう言うと、フレイは歩き出す。彼女の向かう先は、遠すぎるのか暗すぎるのか、何も見えなかった。
「でも、私もあなたとは話したいと思ってたの」
いつかまた、お話ししましょ。そんな彼女の声が聞こえたような気がした。
遠ざかるフレイの背中を見ながら、自分にあるはずの予定とやらを思い出そうとする。すぐそこにあったはずの、遠くなってしまった記憶を辿る。授業の後、カレッジの屋上からヘリオポリスの街並みを見るのが好きだった。整えられた街並み、そこに行き交う人々、植えられた街路樹。その全てが愛おしくて、いつも授業後には屋上に行っていた。彼と。
そう、彼。
ミリアリアよりも少しだけ視線の高い彼は、焦茶色の緩い癖っ毛が可愛い少年だ。エメラルドグリーンの瞳の中に彼女を映し、ミリィという愛称で呼んだ。
どうして今まで忘れていたのだろう。急がなくては、彼の機嫌を損ねてしまう。とはいえ機嫌を損ねても、頬を膨らませて文句を言うだけだろう。先に帰ってしまうことをミリアリアは想定していない。そんな前例がなかったから。彼女もまた、彼を待たせたりはしなかった。
駅から真っ直ぐにカレッジへ入ると、屋上までの階段を駆け上がる。エレベーターなど待っていられなかった。ここに来るまでも、ミリアリアは誰一人すれ違ってはいない。人の気配がしない校内には、階段を駆け上がる彼女の息遣いと足音だけが響いている。
階段が終わり、最上階の廊下を南へまっすぐ。突き当たりのドアを開けると、いつもそこに彼がいた。ドアに近づく数秒間、ミリアリアの鼓動は速いリズムを鳴らし続けている。それは、階段を駆け上がったが為に生じるものだけではない事を、彼女は気づいている。
ドアを開けたその先の世界に、彼はいるのだろうか。あれだけ揺らぐことのなかった景色を、ミリアリアは疑いかけている。
ドアノブを握る。手がひりつき、汗がじわりと滲む。
(どうか、神様)
私の世界から、彼を消さないで。
そんな願いを込めてドアノブを押した。
ミリアリアの視界に広がったのは、電車の中から見た時と同じ鈍色の空と、僅かな彩度をまとったヘリオポリスの街並みだった。
いつも見ている風景のはずなのに、古びた写真を見ているようだ。
ミリアリアの違和感がようやく働き始めた時だ。
「ミリィ!」
ミリアリアが彼を見つけるより先に、彼に名を呼ばれた。
声のする方へ顔を向けると、東側のフェンスの前に立つ人影がある。この世界の色のせいなのか、顔が暗くてよく見えない。声は確かに彼のものなのに。
彼に近づこうと歩み寄るも、全く距離が縮まらない。彼が離れているのか、ミリアリアが進めていないのか。一定の距離を保ったまま、彼はずっとこちらを見ている。目の前にいる彼は、本当に彼なのか。暗くて見えないその顔は、焦茶色の髪の毛で、エメラルドグリーンの瞳をしているのか。その瞳に自分は映っているのだろうか。
「 」
彼の名前を呼んだが、それは音にならなかった。
音にならない名は、ミリアリアの耳にも届かなかった。ちゃんとその名を呼べたかどうかもわからない。どこからともなく押し寄せる不安に駆られ、彼の元へ駆け出した。
「俺さ」
その声は大きくないのに、体の中で反響するように響いた。思わず立ち止まるミリアリアに構わず、彼は続けた。
「ミリィの顔が見たかったんだ」
泣きたくなるような優しい声が、風に乗ってミリアリアの髪を撫でる。
穏やかな空気を纏う彼に影響されているのか、鈍色の空が薄明るくなっていく。彼の背後の東の空から光が差し始めているのだ。
ヘリオポリスの人工的な太陽が、ビルの合間から顔を覗かせ、街並みを色づかせる。
暗い影で覆われていた彼の顔が、陽の光によってその色を取り戻しつつある。焦茶色の髪の毛が光に照らされ、その顔の輪郭を描いている。
なのに、よく見えない。逆光で暗いのか? いや、むしろ光ってしまっていて直視ができない。彼自体が発光しているわけではないのに。
朝日だ。
朝日が彼の体を透かして、ミリアリアの目をくらませている。それでも強い光の中で彼の姿を掴もうと、顔の前にかざした手の、指の隙間から、薄目を開けて彼を見る。彼の腰あたりから登った朝日は、あっという間に彼の胸元にまできていた。手の指を動かし朝日を隠すと、かろうじて彼の口元が見えた。
「今日、会えてよかった、顔が見れて良かった」
声のトーンから、彼の嬉しい心情が伝わってくる。
「また、会いに来るから、この場所で、また会おう」
朝日は彼の喉元まできていた。
太陽のレベルを超えた光は、カレッジや街並み、ミリアリアを飲み込もうとしていた。世界が白く染まり、その輪郭が消えかける。
ミリアリアはまだ彼を捉えようと抗っている。瞼を必死に開き、放たれる光をかき分け、ほぼ光と同化しつつある彼を見つめ続ける。
かき分けていた指が光源に重なり、瞬間彼の表情を捉えた。彼はミリアリアの記憶の中のまま微笑んでいた。薄いグリーンの瞳が、儚げに光っていた。
「トール」
最後にもう一度彼の名前を呼んだ。
今度はしっかりと音となり、消えゆく世界に響いた。もう姿の見えない彼の耳にも届いていたらいいと、光の中でミリアリアは願った。
窓から差し込む光に照らされ、ミリアリアはあくびをしながら目を覚ます。セットしためざまし時計のアラームよりも、自然光の刺激の方が効果があるのか、予定よりも1時間早く目が覚めてしまった。
なんだかとても懐かしい気持ちがするので、そういう夢でもみ見たのかなと、もう一度大きなあくびをして、固まった身体を伸ばしてみる。涙腺が刺激されたのか、涙が頬を伝っていることに気づく。まどろみながら、夢の内容を思い出そうとしていると
「おはよ」
低く、そして甘ったるい声の主が、隣から朝の挨拶をしてきた。
褐色の肌の腕をミリアリアの腰に回し、ぎゅうと抱き寄せる。その褐色はミリアリアの白い肌の上で、彼の存在をこれでもかというほどに主張してくる。
「ディアッ……カァ」
ゆったり寝たいからとダブルベッドを買ったはずなのに。長身の彼が泊まりにくると途端にシングル以下のサイズになってしまうのが、多少不満ではあったけど、こうやって目が覚めた時に、瞳の中にすっぽり収まる距離に彼がいるのは悪い気はしない。
ふっと、ミリアリアを見つめるアメジストの瞳が視界から消えたかと思うと、唇を重ねられ軽くリップ音を立てられた。
「ようやくお目覚めで、お姫様」
そう言うと、さっきのキスは挨拶がわりと言わんばかりに、深めのを一つ、ミリアリアの口に落とした。
「ちょっと、朝から何よ。もう目が覚めてるんだから、おとぎ話はもう終わりよ!」
「先に目が覚めちまって寂しかったんだって。まっ、可愛い寝顔を見てんのも良かったけど。中々見る機会ねえし」
寝顔を見られるなんて事は、今に始まった事ではないが、見ていたと言われると途端に恥ずかしくなる。自分の寝ている時の事なんて、他人にしかわからないので、一体どんな顔をして寝ているのか、想像するだけで怖くなる。涎は垂れてなかったか、いびきなどかいていないか。ミリアリアは恐る恐るディアッカに尋ねる。
「ねぇ……私変な事言ってなかった?」
自分が寝言を言うタイプなのかもわからないが、特に今日は、目覚める直前に夢を見ていたのだ。内容は覚えていないが、覚えてないからこそ怖いのだ。
「変な事……ねぇ」
視線を外して記憶を辿ったあと、ディアッカは普段の軽い笑顔を見せる。
「別にー。夜は可愛い声いっぱい出してたけど?」
それは昨夜。数ヶ月ぶりに会う彼との僅かな逢瀬。会えなかった空白を埋めるようにキツく抱き合い、溜まりに溜まった想いを、上からも下からも注がれた。受け止めきれず溢れる欲と共に、自身の口から出る声はオンナだった。湿度を含んだその声が恥ずかしくて、誤魔化すようにディアッカにキスをした。
ディアッカがそれを忘れているとは思わないが、わざわざ指摘されると、あまりの恥ずかしさに腹が立つ。
「さいってー……」
ぷうと、頬を膨らまして見るが、本心で怒っていないのがバレバレなのだろう。目の前にいる男は、ヘラヘラと幸せそうに微笑んでいた。
***
ディアッカが目を覚ましたのは、ミリアリアが起きる少し前だった。
日が登る前に起きるなんて事は珍しく、窓の外の薄明るい空を確認しては、もう一眠り出来そうだと寝返りを打った時だ。
いつもは先に起きてることが多いミリアリアが、すぐ隣で寝息を立てている。スウスウという呼吸音すらも可愛く思えて仕方ないのは、もう恋の病としか言いようがない。病気にかかりにくいとされるコーディネーターの心を、これほどまでに蝕んでいるとは知らず、彼女は無垢な顔で眠っている。
愛おしさでたまらず、ディアッカの手がミリアリアの頬に触れる。彼女を起こさないよう、輪郭をなぞるように指を滑らせた。数時間前は赤く火照り、しっとり汗ばんでいたとは思えないくらいに、その肌は白くサラサラとしていた。
そうしているうちに、いつのまにか外は明るくなり、窓の外から日が差し込んできた。朝日がミリアリアの白い肌を照らし、より輝かせるので、ディアッカは今まで触れていたその人は、もしかして女神だったのでは? と疑ってしまった。光の刺激を受け、眉間に皺を寄せるミリアリアが面白くて、ディアッカは口元を緩ませる。
動画でも撮ってやろうかと思っていると、ミリアリアが何やらムニャムニャと口を動かしている。
何か言いたげな口元を注視していると、その名前が彼女の口から出てきた。
「トール……」
ディアッカの鼓動が、ほんの一瞬跳ねた。
夢の中でミリアリアはトールに会っているのだ。記憶の中でしか会う事が出来なくなった、かつての愛しい恋人に。
幸せな夢なら良かった。
しかし、ミリアリアの顔を歪ませているのは、陽の光だけではないのかもしれない。そう思ったのは、トールの名を呼ぶミリアリアの声が、酷く悲しげだったからだ。まだ、トールは彼女の悲しみの記憶の中にいるのだろう。
ミリアリアの閉じられた目から、涙が滲み出る。彼女の泣き顔にディアッカは弱い。あの日アークエンジェル内で、嫌というほど見せられた涙を、もう二度と流させたりしないと、その強い意志で彼は今も軍服を着ている。
目に溜まった涙が溢れ、頬をつたい落ちる前に手で拭った。
目を覚ましたミリアリアは、まだ夢と現実の間を彷徨っているようだった。ディアッカはそんな彼女を抱き寄せる。褐色の腕の中で、まどろみながら彼の名を呼ぶミリアリアの声に、悲しみは感じなかった。柔らかくて優しくて、ほんのり甘い、いつもの彼女の声だった。
それが嬉しくて、ディアッカは再びミリアリアに口付けた。
いつか、幸せな夢の中で
その名前を呼べるように。