「愛の奴隷よ、目をさませ」② あのホテルの一件から一週間。若王寺は人生の頂点と奈落を同時に味わった気分だった。
思い出しても身体が熱くなるような一夜。文字通りのワンナイトに、この一週間頭のリソースを取られっぱなしなのだ。
あれから桜木清右衛門について社内で探りを入れた結果手にした噂話。
誰が告白しても、「忘れられない人が居るから」と振られるという話だ。
その人は何でも絶世の美女だったとか。何でも有名俳優だとか。何でもどこかの国のお姫様だったとか。
尾ひれ背びれのついた噂に、若王寺は思わずため息をつく。
忘れられない恋人だなんて。そんな人間に自分は勝てるのか。
ゲイでもバイでも構わないが、あの一夜が彼にとっての過ちだったとしたら。もしストレートだった場合、そもそも対象から外れている可能性もある。
それならば付き合えない、と言われたことにも納得はいく。
しかし男同士のセックスには慣れた様子だったし、そもそも誘ったのは桜木だ。例えヘテロ寄りだったとしても、まだチャンスはあるだろう。若王寺は自分に言い聞かせる。
昼休憩。そんなことを考えながら若王寺は社食に居た。
トレイを持ったまま歩いていると、ふと綺麗な髪色の男が座っているのが見える。
――生憎だったなヘプバーン。記者は俺が貰っていくぞ。
若王寺は想像上の”お姫様”に喧嘩を売ると、桜木の隣にトレイを置いた。
「隣、失礼」
若王寺が笑顔で声をかける。桜木の返事は無かったが、椅子を引くとそのまま座り『いただきます』と手を合わせた。
「……まだいいって言ってないけど」
「ここしか席、空いてなくって」
桜木はきょろきょろと辺りを見渡した。どこもかしこもちらほら空席が目立つ。
「フラれたこと、忘れちゃった?」
「覚えてる。でも、アタックするのは駄目って聞いてない」
今日のランチは肉じゃが定食。若王寺は小鉢のほうれん草から手をつけるが、いつもより緊張で味がしなかった。
軽口を叩いてはいるが、どうしても付き合いたい好いた相手だ。嫌われてしまっては元も子も無い。
桜木の返事が無いのが不安で、ちらりと横目で見る。変わらない顔色に、表情は読めなかった。
「……でも本当に駄目って言われたらやめる」
好きだから、迷惑をかけたくない。その気持ちは本物だ。それでも愛を伝えていいのなら、いくらでも伝えられるのに。どうしてこんなに気になるのか。
若王寺は不思議で仕方なかった。この前会ったばかりの男に、こんなに心を動かされて。
まるで動物のようだ。若王寺はディスカバリーチャンネルでよく見ていた鳥の求愛行動を思い出す。好きな相手にアピールするために羽を広げて踊る。その時は滑稽で可愛いと思っていたが、今の自分はきっと桜木からそう見えているだろう。
その必死さが伝わったのか、桜木が小さく吹き出して笑った。
「別に。駄目とは言ってない」
若王寺は思わず持っていた箸を落としそうになった。目を細めて笑う桜木の、なんて綺麗なこと。春の訪れを告げる一番風が、若王寺の心に吹き荒れる。
「週末は空いてない?映画とかどう?」
すかさず若王寺が予定を聞くと、桜木が少し考える素振りをする。
「気になってるやつあるから、それならいいよ」
桜木が持っていたスマートフォンでささっと何かを調べて、若王寺に見せる。
カンフーらしいポーズを取った女性が主役の映画だ。ハリウッドで一番名誉のある賞の名前も書かれている。
タイトルくらいしか聞いたことはなかったが、若王寺は二つ返事でOKすると自分のスマホを取り出した。
「連絡先教えて」
一瞬桜木はしまった、という顔をする。が、しぶしぶ自分のメッセージアプリのQRコードを出した。
「余計なこと送ってこないでね」
図星をつかれた若王寺だったが、素知らぬ顔をしてコードを読み込む。
出てきたのは『桜木清右衛門』という名前と、桜のアイコン。隣に本人が居なかったら。ここが社食でなかったら。彼は今頃大声で叫んでガッツポーズをしていただろう。
*
週末、待ち合わせは映画館の前だった。昼過ぎに集合ということだったが、若王寺は気づけば朝の日の入りに目が覚めた。
次の日に遠足があるから早く起きる。そんな子供のような体験を久しぶりに味わった。
映画の始まる15分前にロビーで待ち合わせだったが、1時間前には駅に居たし、なんなら三十分前には映画館についていた。
することもないのでベンチでぼんやり映画について調べていると、どうやら意外と難解なストーリーらしい。ネタバレの要素は極力避け解説を読んでみたが、それでもいまいち頭に入って来なかった。
桜木が何故この映画を見たいと言ったのか、それを含めて途端に楽しみになる。
若王寺は期待に胸を膨らませスマホを開いたり閉じたりしていると、時間丁度くらいにデートの相手が現れた。
装いはいたってシンプルだったが、そのシンプルさがかえって素材を際立たせている。すらっとした長身によく似合うコート。ストレートの綺麗めのパンツは足の長さを強調させていた。
学生時代、アイドルにハマった同級生が自分の推しを『股下5kmある』と誇張して表現しているのを聞いたことがある。若王寺はそれを思い出し、正しく当てはまるとさえ思った。
そんなスタイルも顔もいい男が自分を見つけて近づいてきてくる。若王寺は眩しさに目を眩ませた。
「私服、そういう感じなんだ。めちゃめちゃ好き」
挨拶の次に出たのは賞賛の言葉だった。桜木は礼も言わずじ、と若王寺を疑い深く見つめた。
「誰にでもそんな浮ついたこと言うの?」
「違うよ。本当に思ってる」
若王寺は笑って弁明する。心から出た言葉だったのに、疑われるとは心外だった。
「それに、こんなに人を好きになったの人生で初めてだから」
聞いた桜木が、目を見開いた。驚いて、辺りを見渡す。ざわついた映画館に、それを聞いている者は桜木以外居なかった。
若王寺は呆れられるか、流されるのかと思っていた。予想外にも桜木は、何か思いつめたような顔をしてぽつりと呟く。
「……嘘つき」
照れてる訳でもなく、桜木の目が曇ったように見えた。それがどうしてなのか若王寺には分からなかったが、今はとにかく自分の気持ちをきちんと伝えなくてはいけないと。何故だかそう思った。
「嘘じゃない。最初で、きっと最後」
若王寺が発した言葉の意味を少しして理解した桜木。今度は眉間にみるみる皺が寄った。
「初デートでプロポーズでもする気?」
怪訝そうな顔に、若王寺が笑う。
「そう聞こえなかったか?」
桜木は大げさに溜息をつくと、くるりと若王寺に背中を向けた。
「もういいから、早くポップコーン買い行こう」
その声色に、先ほどの翳りは見えず若王寺はほっとした。
何が彼をそうさせたのか。例の噂話の人間のことだろうか。若王寺は考えずにはいられなかった。
忘れられない人。せめてそいつが、超絶嫌な人間であってほしいと若王寺は祈る。
ほんの少しでも自分にチャンスがありますように。信じてもいない神に頼み事をしながら、若王寺は桜木の後を追った。
映画の内容は前情報通り、難解だった。
移民。二世。滞る税金。通らない申請。広がるマルチバース。カンフー。アクション。世界を救うベーグル。親子喧嘩。愛、そして和解。
若王寺は感動のラストに涙ぐみもしたが、内容を追うのに必死でかなり疲れた。
スタッフロールが終わり、明るくなって隣を見た。桜木は特に何も言わなかった。
そのまま二人は移動して、近くのチェーン居酒屋に入った。まだ外も明るいが、週末なので盛況している。
二人は席に座りタッチパネルでビールを2つと適当につまみを頼むと、ぼんやり映画の感想を言い合った。
役者が良かった。ストーリーはこうだった。ここは分からなかった。
初めてする当たり障りのない会話だったが、若王寺はまるで数年来の友人と話しているような気持ちになった。
一言えば十理解してくれる桜木との会話が、若王寺には心地よくてたまらない。『これ以上好きにさせないで欲しい』とさえ思ってしまう。
「そもそもなんでこの映画見たいと思ったの?」
若王寺が聞くと、枝豆をつまんでいた桜木の手が止まった。
「……マルチバースって、興味あったから」
意外な回答だった。マルチバースなんて、最近の流行りで他にも山ほどあると思ったからだ。
「映画の中みたいに、違う次元だったら俺も桜木と付き合えてたりして」
若王寺が冗談めかしていうと、桜木は唇の端を吊り上げた。
「違う次元でいいんだ」
若王寺は慌てて首を横に振る。
「いや、嘘。ここがいいです」
それにも桜木は笑うだけだった。
桜木が慣れた手つきで酒のおかわりを頼んでいる。もう既に三杯目くらいだが、桜木の顔色は一向に変わる様子は無かった。
少し酔ってから聞きたいと思っていたが、このままでは聞けずに終わりそうだ。若王寺は腹を決める。
「……忘れられない人がいるって噂、ほんと?」
桜木は若王寺を横目で見る。すぐまたタッチパネルに視線を戻すと、指を動かしながら「うーん」と呟いた。
「半分ほんとで、半分うそ」
「どんな奴か聞いていい?」
桜木は酒を選び終わると、今度はつまみの追加を探し始めていた。これというものがないのか、ぐるぐるとメニューに目を滑らせている。
いくつかタップして追加が終わると、奥の厨房に機械音が鳴っているのが聞こえた。
酒はすぐに運ばれてきて、桜木はグラスを交換すると並々と注がれた新しいものにぐいと口をつける。
音を立てて置かれたグラスの氷が鳴った。
「優しくて、ばかな男だった」
それだけ言うと、また酒に口をつける。今さっき来たはずのグラスには、もうほとんど入ってなかった。
過去形で閉じられたその話を、若王寺はそれ以上深堀することはできなかった。
「俺、そいつに勝てる?」
せめてこれだけは聞きたいと、若王寺はじっと桜木を見つめる。
桜木はやんわり否定するように頭を振った。
「誰も勝てないし、比べる必要なんてないよ」
誰も勝てない。その言葉に若王寺の胸がちくりと痛む。目の前にいる筈の桜木清右衛門という人間が、とても遠くに感じる。
手を伸ばせば届く距離なのに。映画で見た、違う世界の向こうのような。
「……俺のこと、聞いてもいいよ」
これ以上違う男のことを考えさせたくなかった。若王寺は会話を変えたくてそう切り出す。
桜木は指を一本立てる。
「じゃあ、一つだけ」
若王寺が淡い期待を抱くと、桜木はその指でピッと若王寺のグラスを指した。
「次何飲む?」
若王寺はがっかりして、ビールのグラスを振った。
「おんなじの」
会計を済ませて外に出ると、辺りはもうすっかり暗かった。
ほろ酔いの二人には、春の風が心地よい。
「桜木、駅どっち?送るよ」
若王寺が聞くと、桜木は一瞬驚いた顔をする。
「ホテルにでも誘われるのかと思ってた」
「いや、ヤリ目だって思われたくないし」
確かにまだ二件目を誘ってもいいくらいの時間だ。しかしお互い明日は仕事がある。何より、若王寺は桜木を本気で好きだとアピールしなくてはならない。
性行為から始まった関係だったが、身体目当てだと思われるのを今は何より避けなければならなかった。
「――なら、俺が誘ったら来るのか?」
意地悪そうに桜木が微笑んだ。これにはさすがの若王寺もぐっと言葉を詰まらせる。
「……それは、その。まぁ……」
流石の若王寺にも、これにはNOと言えなかった。
ばつの悪そうな若王寺の顔に、桜木が声を上げて笑った。
「悪かったよ。今日は解散だ」
「はいはい」
「そこから地下に入る。見送りは平気。じゃあ」
桜木はそれだけ言うとあっさり踵を返して歩き出す。
後ろ手で振られた手に、若王寺は何故だか胸が痛みだした。まるで桜木が、どこか遠くへ行ってしまうのではないかと思ったからだ。
――そして気づけば、若王寺は咄嗟に桜木のことを後ろから抱きしめていた。
「若王寺?」
若王寺は自分の名前を呼ばれて、初めて自分が桜木を抱きしめていることに気づいた。
置いていかれた子供のように、行かないで欲しいと。理由もわからず若王寺は泣きそうになった。
「……別れのハグくらい、いいだろう」
言い訳でしかなかった。若王寺が抱きしめているこの状況は、挨拶なんかじゃない。
縋って、引き留めたのだから。
若王寺の心臓が大きく脈打つ。それがときめきの類ではないのは確かだった。
桜木は大人しく若王寺に抱かれたまま何も喋らなかった。
酔っ払いの多い繁華街で、二人を気にする人間は誰も居なかった。