よろこびのうた 虚無を冠し、彼女は笑う。
ヒトが付けた名の由来を、彼女は知らない。けれど、虚無という名は馴染むものだと彼女は感じていた。
裂き穿つ高揚に躍れど、破られる驚嘆を知らず。
すべてを喰らう力を持てど、喰らわれるひとつを得ず。
恐慌に引きずり込めど、恐怖に止まる息はなく。
喰らうばかりの自分は、閉じ切った自分は、確かに虚無なのだろう。この姿になる前のことは何も思い出せない。痛みも忘れた。自分には欠けているところしかないのだろう。
けれど、それは嘆きではなかった。それは、いつか自分を捕らえ喰い千切り得る誰かが、まだどこかに居てくれる期待に満ちていた。
あぁ、まだ見ぬ誰か。わたしの知らぬすべてを与えてくれる誰か。
あなたはどんな姿をしているのだろうか。
わたしはあなたとどんな世界を奏でるだろうか。
七十億の中の、誰があなたになるのだろうか。
いつか会える日を思い描くだけで、喉が震える。だから、笑った。
挨拶がてら、小さなヒトを丸呑みにした。近くにいたヒトに笑みを向けた。海中にも届く叫びを聴きながら、身の内と心に宿る熱を感じ、深い海へ向けて尾鰭が力強く水を掻く。増していく速度を全身で感じる。生きている。生きて、いる。口から雫のように歌が零れた。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
その瞬間、鰭の先まで満ちたものは何だったろうか。
微かに甘い塊を口腔に含んだこと、それが爆ぜるまでに吐き出すのは叶わないことを悟りながら、初めての感情を考える。
彼女は。小さなヒトのそばで叫ぶしかなかった彼女は、自分を出し抜き不敵に笑っていた。他のヒトたちは、殆どが自分を恐れ二度と会うことはなかった。立ち向かってきた数少ないヒトたちも、少し遊んだら壊れてしまった。みんな、最期は泣き叫んでいた。
けれど、彼女はここまで喰らい付き、己を騙し切り笑った。だから、笑った。これ以上に心が揺れることはきっともうない。
みつけた。こんなに近くにいたなんて。気付くのが遅くなったことだけが悔しかった。その気持ちも初めてのものだった。
身の内に伝わる熱と衝撃の中、己が内にのみ歌が響く。まだ見ぬ誰かを探し、腹を満たしながら泳いでいた少し前、赤く赤く染め上げた光あふれる祝いの歌。
こころはおだやか。
しあわせにみちて。
うたうはわれらの。
爆ぜる前のほんの刹那。
彼女は最後の感情を理解した。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
こうして、彼女は満ち足りた。
虚無を抱え唯一つを求める狂奔のサメは、もうどこにもいない。
落ちる雫が奏でる物語は、繋がっていく。
〈了〉