それをパキリと折ったのでそれをパキリと折ったので
その人は、桜の咲く頃、出会い頭にこう言ってきたのだ。
「ひさしぶりだね。いきなりだけど、僕と付き合ってほしい」
冗談じゃねえよ、なんだいきなり、そもそもおれとあんたは初対面のはずだ、と喉元から出かけた罵声は行き場をなくして空気の中に溶けていった。そのひとは恐ろしいほどに整った顔を歪めていて、切れ長の目からころりと一粒涙が落ちるのを見てしまったからだ。ねえ、肥前くん、と彼の唇から蚊の鳴くような声がこぼれ落ちた。
その男は南海太郎朝尊と名乗った。
幼い時から生まれ持った鋭い目つきとなぜか一部分だけ真っ赤な髪の毛を恐れる人間は多く、学校という狭くて陰鬱なところでは遠巻きにされる事がほとんどだった。元々社交的な性格を持ち合わせていなかった肥前はいつの間にか一人でいることが普通となっていた。それについては何も思わなかったし、周囲も何も言わなかった。もちろん話しかけられれば返事はするし、無闇に喧嘩などをすることもない。特に好かれることもないが、特に邪険にされることもない。学生として日々を過ごす分には、十分だった。
概ねは平穏な学校生活を送れるようになったのとは裏腹に、時折どうしようもなくさみしさが胸の中を真っ黒に染めてしまう事があった。所謂思春期と呼ばれるようになった頃からで、決まって藍色の夢を見たあとだった。
ひらひらと翻る無数の錦をかき分けて、何かに手を伸ばしていく。どこからか金属のぶつかるような高い音が聞こえ、普通は不快なはずなのにその音がしっくりと耳に馴染んでいく。どこだ、どこだと何かを探しているのは自覚しているが、それが何なのかはわからない。わからないが、それがいっとう大切で、それが肥前にとってかけがえのない愛しいものだということはわかる。不意に視界が開け、誰かの背中が肥前のいく先に現れる。大声でその人の名前を呼びたいのに、喉がひりついて声が出ない。この世で一番綺麗なものの名前のはずなのに、その名前がどうしても思い出せない。それでもなんとか足を進めてその人の背中に触れる刹那、耳障りなパキンという音が聞こえ、絶望を自覚した瞬間に、目が覚める。
びっしょりと汗を吸った寝巻きの感覚を拾いながら、肥前はいい加減な教師に暴言を吐かれた時にも、夜の公園で一晩を明かさなければいけなかった時にも感じなかった孤独感を感じるのだ。いや、喪失感と言った方が近いかもしれない。
南海に初めて会い(というよりもすれ違いざまに腕を掴まれた)、あの頓知気な告白を受けた日も、藍色の夢を見た翌日のことで、有体に言えば肥前はものすごく機嫌が悪かった。寝不足と精神の乱れは肥前の紅い目をより鋭いものにしていた。それなのに臆することなく話しかけ、挙げ句の果てには好きだと言ってきた男。どう考えても不審である。第一、好かれる理由がわからない。この際同性同士ということは置いておくとしても、見ず知らずの他人に好きだと言われるようなことを肥前がしていた記憶はない。
それなのに、なぜか目が離せなかった。綺麗だ、と直感的に思った。これまで他の人間にそんなことを思ったことはなかった。緩いウェーブがかかった黒髪と薄い唇。色素の薄い瞳はガラスの壁に隔てられながらも吸い込まれるようだった。おれが好むようにできてるひと。そんなことが柄にもなく心に浮かぶ。泣いている顔だけでなくて、他にももっといろんな表情を見たい。これはまさか。
「…あんたのこと、教えてくれるんなら」
一目惚れだった。このひとだ、と思った。
南海と出会ってから、肥前は藍色の夢を見る頻度が少なくなっていった。それでも相変わらず夢の中の肥前はなにかを探し続けているし、目覚めた時にはどうしようもないぽっかりとした空虚感に苛まれる。しかし、朝目覚めた時に南海のあどけない寝顔を確認するといくらか落ち着くという事がわかった。なんとなく、夢の話は南海を悲しませるような気がしてまだ話していない。
ただいつか、話せる日が来るといいと思っている。
日毎に日が長くなり、夏の足音が聞こえてくる頃。肥前は河川敷を南海と歩いていた。緑が目に痛いほどに濃くなっている。さらさらと川のせせらぎが聞こえ、水鳥が目のまえを滑空していった。隣を歩く南海が「やあ、大きな青鷺だったね」と嬉しそうに話す。ふわりとした笑みを浮かべる自分よりやや背の高いその人の頬は抜けるように白く、されどほんの少し上気しているのがわかった。手にさげたコンビニの袋がガサガサと音を立てる。まだ梅雨にも入っていないというのに、日差しが肥前のうなじをチリチリと焦がすようだった。
河川敷をぶらぶらと歩き、適当な木陰のベンチに腰を下ろす。ちょうど食べ頃だと思うよ、と南海がアイスをコンビニの袋から取り出した。ノーカラーのシャツに薄手の紺色のカーディガンがよく似合っている。袋に包まれたチューブ型のラクトアイスを取り出し、真ん中からパキリと割った。
「はい、肥前くん」
にっこりと笑ってそれを差し出す。
「僕はきっと、君とアイスを半分こするために、また生まれたんだろう」