火遊び「また阿大と喧嘩したって?」
私は腕を組んだまま目を細めて、吉祥の質問に答えなかった。問いを無視するというよりも、どう答えていいのかわからない。そんな顔をしていたのかもしれない。
「なあ姐さん、いい加減認めたらどうなんだよ。阿大のことが好きだって」
そうサラリと口にした彼に、私は即座に凄んだ。
「吉祥」
「はい」
「この世にはね、言っていいことと悪いことがあるの」
「はい」
「アンタが今、口にしたのは後者。あんな刀振り回すだけが取り柄の仏頂面なんて⋯私は絶対いや」
「でも阿大、姐さんが事務所にいるときはちゃんと起きてますよ? それにさあ、洛軍と信一の妹が最近いい感じだろ? あの調子で次は阿大にも春が来ないかなーって」
「まさか、そんなつまらない理由で私をアイツに宛てがおうとしてるわけ?」
「つまるつまらないの話じゃなくてさ。女っ気が無さすぎて、そろそろヤベー噂立つんじゃねえかって心配してんの俺は。まあ、そういうのは全部、潰してるけど」
そう言って、吉祥は革ジャンのポケットから、妙にファンシーな雑誌を取り出した。
「見てよこれ。『今月の相性占い♡』阿大と姐さん、相性バッチリだって!」
わざとらしく折り目をつけたページを広げて、私の目の前に突き出す吉祥。
「私、占いは“いいこと”が書いてないと信じないタイプなの」
「つまり信じるってことだな!」
「バカな子ね。信じないって言ってんのよ」
吉祥はいたずらっ子みたいに笑っているが彼がどこまで本気で私と十二少をくっつけようとしているのかは計り知れない。この子はたまに、とんでもない無茶や突拍子もないことをしでかす。こういう顔をする時の吉祥は何かしら「狙っている」のだ。十二少のことも、私のことも。
「いいのか、姐さん」
「何がよ」
「俺はもう正直なとこ阿大と姐さんは時間の問題だと思ってるんだ」
「──じゃあ一生、答えは出ないかもね」
そう言って私は、吉祥から雑誌を奪い取るように閉じた。ふわりと香るインクの匂い。表紙には「恋の季節、始まる!」、「バカンス特集!」だなんて、縁のない眩しすぎるキャッチコピー。私に恋の季節なんて、来るわけない。少なくとも、あの不器用な男とじゃ。
「あんなのより、アンタの方がまだマシよ」
言ってから、一瞬で空気が変わった。
「⋯⋯え?」
吉祥の左目が信じられないものを見るように見開かれた。私のほうも、言った自分に驚いていた。自覚がないまま放ったその一言は、ちょっとだけ喉の奥から出てしまった本音だったのかもしれない。
「──何やってんだ、おまえら」
低い声が、私たちの頭上から降ってきた。いつものスカジャンを羽織って涼しい顔で立っているのは十二少だった。
「お疲れさまです、阿大」
吉祥は一気に背筋を伸ばして椅子に座り直した。その様子を見て、私はわざとらしく声を上げる。
「ちょうどいいところに来た」
「は?」
私はひらりと動くと、吉祥の膝の上に座った。
「なっ、なにやってんすか姐さん!?」
「何って、偉大なる十二少にお席をお譲りしているのよ。ほら、そこ、空いたでしょ?座れば」
お世辞にも座り心地が良いとは言えない、硬い吉祥の膝の上に無理矢理腰かける形になり、彼の顔が髪の色と同じくらいみるみる赤くなっていく。
「そ、そうじゃなくて⋯っ、 あんた、わざとやってるだろ⋯!」
「なんのこと?」
私は無邪気な顔で首を傾げながら、視線だけで十二少を促した。十二少は無言のまま、空いた椅子にどっかりと座る。その横顔にはいつも通りの無表情。しかし、目の奥だけはわずかに光を含んでいる。
「⋯⋯相変わらず、面倒な女だ」
「そういうアンタはつまんない男。吉祥はこんなに可愛いのに」
吉祥は顔を真っ赤にしながら、私に不容易に触らないようにしているのか椅子の上で縮こまっている。が、抵抗はしない。
「吉祥、火貸して」
「あ、はい」
ぽす、と音を立てて差し出された銀色のライター。吉祥が火をつけると、私は少し身を屈めて唇に咥えた煙草へと火をもらった。その距離、僅か呼吸ひとつ分。吉祥の手の甲に、ほんの少しだけ指が触れる。わざとらしくはないけれど、無意識ではありえない角度だった。
「ありがと」
「どういたしまして」
そして、ふうっと煙を吹く。まっすぐに、吉祥の顔へと。
「わっ、顔にかかってるって!マジで、やめてってば」
「ふふ、ごめん」
笑いながら、私は煙を揺らすように指を動かす。その間に視線だけを、ちらりと十二少のほうへ向けた。気づいている、絶対に。けれど彼は何も言わない。無表情のまま、ただ水の入ったグラスを傾けている。その動きすら無機質で、逆に目に焼きついた。
「それにしても、吉祥は可愛いね」
「へ?」
私は吉祥の髪をくしゃりと撫でた。ほんの一瞬、子犬でも可愛がるような指先。
「や、やめてくださいってば姐さん⋯阿大が見てるよ⋯」
抵抗のわりに、彼は顔を赤くしたまま身じろぎするだけだった。つむじをなぞり、右目を隠す眼帯をそっと一撫でする。
「これ、取っちゃだめなの?」
「だ、ダメだ」
「へえ、じゃあ──」
私はそっと身を寄せると、眼帯の上に、唇を置いた。ほんの一瞬。触れたかどうかもわからないほどの軽さで。
「──っ!」
吉祥が肩を跳ねさせたその瞬間、また視線を逸らさずにいた相手が、無言でグラスを置いた音がした。
「おい」
「なにか用?」
「⋯さっきから何してる」
いつになく低い、そして感情の温度を帯びた声。
「何って⋯可愛い吉祥とお喋りしてただけ」
「⋯⋯」
十二少の目が、今にも火花を散らしそうなのを見て私は、笑いながら煙草を指で弾いた。吉祥は照れと困惑を隠しきれず、十二少は無言でまた水を一口。その指先が、吉祥の膝の上にいる私の足に一瞬だけ触れたことに吉祥は気づいていないようだった。
「吉祥は素直でいい子よ。どこかの誰かさんと違って触れたらちゃんと反応が返ってくる」
「ああ?」
低く唸るようなその声に、私は内心でにやりとした。そのときだった。十二少が、唐突に声を上げた。
「小吉」
「は、はい?」
「そいつをしっかり捕まえとけ」
「へ?」
吉祥が素っ頓狂な声を上げる。
「早くしろ」
その命令に、吉祥は何かを悟ったのか悟ってないのか、顔を真っ赤にしたまま私の身体をぎこちなく抱き留めた。
「姐さんごめん⋯!ちょっとだけ我慢してくれ、俺は阿大には逆らえないんだ」
「はぁ⋯?」
混乱する私をよそに吉祥の腕が、私の腹のあたりにまわる。私も吉祥も今置かれた状況をまったく理解できていなかった。十二少は黙って立ち上がり、一歩、また一歩と近づく。そして、私の手からスッと煙草を取り上げた。
「さっきから行儀が悪い」
ぽいと十二少は煙草を床に投げ捨てると、私の顔を片手で包み、そしてそのまま唇が奪った。
「⋯⋯っ!」
「阿大!?」
最初は強引だった。でも、すぐに熱が混ざり合う。私は息を呑むことすら出来ずに受け入れることしか出来なかった。唇を割って侵入した舌と舌が触れ、絡まりあう。唇の隙間から吐息がこぼれるたび、十二少の舌は私の口内を丹念に探るように動いた。吉祥の腕が、びくんと震えて私の腹にまわされたその手が、ぐっと力を込めたのがわかった。
十二少は目を閉じていなかった。薄く開いたその気怠げな瞳が、まっすぐに私を見つめていた。そして、時折、吉祥にも。無言のまま、長く深い息を奪われるほどのキス。
まるで「おまえには、こうできないだろう」と、誰かに告げるように。
まるで「これは俺のものだ」と、言葉より雄弁に示すようにキスは終わらなかった。
熱を帯びた粘膜同士が、内側でゆっくりと擦れ合い喉の奥から、湿った音が零れる。
「ぁ⋯」
小さく、吉祥が声を漏らした。自分の喉からそんな音が出たことに本人も気づいていないのか、あるいは気づいてしまって動揺しているのか。けれど、その反応が、私のなかで妙に満足感を生んだ。
その瞬間だった。十二少の手が、私の太腿に滑り込んだ。布の上から、ぬるりと指先が撫で上げる。最初は外側を軽くなぞるだけ。だがすぐに、掌が熱を帯びて、深く、包むように。私の脚は自然と内側へすぼまっていく。舌の奥まで深く絡め取られながら、太腿を撫でまわされて声は出せないけれど、身体がもう、彼の掌に答えを返してしまっていた。
暫くして、唇がようやく離れていく。その瞬間、舌と舌のあいだに、銀色の細い糸が一本、とろりと伸びた。私は息をつくことも忘れて、それをぼんやりと見つめた。なぜか十二少以外の熱い視線を感じてそっと横を向くと、隣にいる吉祥が瞬きもせずに同じようにそれを見つめている。
私はそのまま吉祥にもたれかかるように身体を預けた。上半身だけじゃなく腰のラインも、わざと密着させるように。吉祥の身体はびくりと大袈裟に反応するが拒むことはしなかった。
「びっくりさせてごめんね」
「ねえさ、」
「吉祥」
その名前を吐息のように呼び、私は吉祥の頬にかかった赤い髪を指先で払った。彼の潤んだ視線が揺れながら私を見つめる。その目の奥には、まださっきの衝撃への動揺が残っていた。だけど私は、構わずに顔を寄せる。
「ご褒美、ね?」
そして、唇を重ねた。初めはほんの揶揄うだけ、戯れのつもりだった。軽く触れて終わるはずだったのに彼がわずかに口を開いたのがいけなかった。私は出来心でそこに舌を差し込んだ。優しくなぞって、逃がさず、絡め取る。吉祥の身体が、ぴくりと跳ねた。腕の力が抜け、私を支えていた手が震える。
「んん⋯っ!」
小さく、くぐもった音が唇の隙間から漏れた。吉祥の舌もぎこちなくも応じてくる。私はそれを喜ぶように、さらに深く口内を貪った。
「⋯は、」
真面目すぎるくらいに素直でだからこそ、弄りがいがあるというもの。私は吉祥の首にそっと手を伸ばす。彼がいつもつけている、黒革の首輪。金属の留め具が控えめに光っている。ファッションだと言っていたが、犬がつけてるみたいな首輪を選ぶ彼の感性すら、今は愛おしくて仕方ない。
「ふふ⋯これ、似合ってる」
そう囁いてから、私は指先でそっとその首輪の縁をなぞった。首筋と革の隙間に指を差し入れて、爪先で軽く、カリカリと引っかく。
「っ──あ、あ⋯ッ⋯⋯!」
吉祥が、情けないほど甘い声を漏らした。息を飲むように震え、目をぎゅっと閉じ、耳まで真っ赤に染め上がる。身体がビクリと跳ね、腰がわずかに逃げる──けれど、私からは離れようとしない。
「ねえ⋯今、自分でどんな声出したか、わかってる?」
くすっと笑いながら、私はもう一度キスを落とす。今度は、さっきよりも深く求めるように。舌が触れ、唾液が絡む。吉祥の手が、私の背に縋るように添えられる。だけどその手にも迷いがあった。私は再び指を伸ばし、今度は首輪と皮膚の境目をもっと強く、執拗に擦ってやる。
「んっ、うぁ⋯ッ、ダメ、ねぇさ⋯⋯ん」
目尻が潤み、声が低く滲む。堪えきれずに吐き出されたその声は、明らかに理性の限界を知らせていた。私はその反応を、心の底から楽しんでいるし余裕を失っていく吉祥の顔を、きっとアイツも見てる。
指が彼の襟元にかかり、私はそのまま押し倒すように、体重を預けていく。唇と舌で感情を食むように、彼の熱を引き出していく。
だが、その時だった。突然、吉祥の手が私の肩を掴み、力を込めた。
「っ、ごめん姐さん!」
彼が私を引き離した。唇が離れる瞬間、銀糸がひとすじ、儚く伸びてちぎれた。
「悪い⋯⋯俺⋯っ」
吉祥は苦しそうに眉を寄せたまま、顔をそらす。唇はまだ熱を残し、震えていた。
「これ以上はだめだ、阿大に申し訳ない⋯」
視線を泳がせながら、彼はちらと十二少の方を見る。その眼差しに、明確な後ろめたさが滲んでいた。
「俺、姐さんがキスされてるの見てて、頭がおかしくなってたのかもしれない」
「ふぅん」
私は濡れた唇をぬぐいながら、その言葉を聞いた。罪悪感と理性で自分を引き剥がす吉祥。十二少と私は恋人でもないのに、その忠誠心と律儀さが、たまらなく愛しかった。
「やっぱり、吉祥って健気で可愛い」
私は肩を震わせ、笑いを噛み殺すように呟いてわざと吉祥の胸に頬を寄せた。
「さっきから可愛い可愛いって、俺はかっこいいって言われた方がうれしいのに⋯」
「理性と衝動の狭間でグラグラして、結局逃げちゃうのね。ふふ、いい子」
くしゃ、と手を伸ばしてまた髪を撫でる。吉祥は抵抗しないけれど、顔を真っ赤にして視線を合わせようとしなかった。
ゆっくりと顔を上げて、まだ何も言わない十二少の、真っ黒な双眸を見つめる。
「阿大⋯どうしよう、俺⋯姐さんのこと好きになっちゃったかもしれない⋯⋯姐さんも阿大より俺のがマシだって、さっき⋯へへっ」
吉祥の声は掠れていた。困惑、衝撃、少しの興奮、様々な色が混じっている。十二少⋯その男は、口元にうっすらと笑みを浮かべたまま何も言わず、ただ私たちを見下ろしている。
「小吉。俺は⋯占いは結構信じるタイプだ」
「えっと⋯」
「わかったらさっさとそいつを離せ」
床に落とされた煙草の火は、とうに消えていたが抱き留められた吉祥の腕の熱、十二少の視線の熱はどちらも今、確かに私に触れていた。