指先がかじかんで、ティルテュは細い息を吹きかけた。石造りの部屋は、彼女の熱を容赦なく奪っている。しかしティルテュは、暖炉に火を入れようとは思わなかった。何もかも億劫だった。
部屋は豪奢ではあったが、たったひとりの身には、たまらなく冷たく感じた。粗末な家であっても、夫と息子、そして娘と四人で暮らしていた頃がよかった。いや、優しい友人や気心の知れた幼馴染、慕わしい戦友といた、あの頃が。しかしそれは、全てあのバーハラの野で灰塵に帰してしまっていた。ティルテュはほうほうのていで夫とシレジアに逃げ、そこで娘を産んでいた。そうして慎ましやかな生活を送っていたが、それも先年、フリージが彼女と娘を「保護」したことで終わった。以来、母娘はコノートにあるフリージの城に拘留されていた。
娘のティニーは先刻、従兄妹のイシュトーとイシュタルに遊びに連れて行かれていた。それが何を意味するのか、ティルテュも十分に知っていた。──子どもに、聞かせたくない話があるのだと。だから娘を連れて行く従兄妹たちは、叔母に対して慮るような視線を投げていた。だからティルテュは、心配ないとでもいいたげに少し微笑んで、彼らを送り出した。実際、彼らが心配しようが何だろうが何も変わらないのだから、いたずらに悲しませるよりは、娘と楽しく遊んで欲しかった。──自分では、どうしても陰りが隠しきれないから。
扉が叩かれたが、ティルテュは顔もあげず、返事もしなかった。それもまた無駄なことで、相手は返事がなくとも部屋に入ってくるに違いないのだ。どうせこの部屋には内鍵もない。鍵は部屋の外だった。そうして、複数名の見張りも。魔導書を取り上げられ、剣も奪われたティルテュにはいまさらのことだったが、しかしシレジアでの”保護”の際、暴れに暴れ散らしたことを考えれば、実家としてはあたりまえのことなのだろう。無駄な労力を割かせている、と、ティルテュはいつもぼんやり考えた。
入るからねと声がして、ドアはあっさり開けられた。コツコツとしたヒールの音は、嫌になる程耳に馴染んでいた。ティルテュはやはり、顔をあげもしなかった。
「まだだんまりなんだってね」
「話すことなんて何もないもの」
「いい加減におしよ」
馬鹿みたいに寒いじゃないか、死体にでもなるつもりかい。子供が風邪を引いたら面倒だろうに。そうぼやいて、ヒルダは断りもなしに、魔道でもって暖炉に火を入れた。ティルテュは一瞬だけ身がすくんだ。あのバーハラのこと以来、炎は苦手だった。特に、炎によって肉の焼ける臭いは。それまでおのれがどれだけの人間を殺したかを考えれば虫のいい話ではあったが、しかし苦手なものはどうしようもなかった。
「おまえ、自分の立場がわかっているのかい」
「わかっているわよ」
「わかってないね」
逆賊なんだよおまえ。義姉が吐き捨てた言葉に、ティルテュの拳が握り締められた。それは実際にそうだったから、ティルテュは何も言わなかった。
「シグルドの息子がどこに逃げたのか。そりゃおまえにだっていろいろあるだろうけど、せめてそれくらい喋ってもらわなくちゃ困るんだ。さ、諦めてさっさとお言い」
「知らないわ、そんなこと」
「白々しいことをお言いじゃないよ。どうせ逆賊の子どもじゃないか、ほっといたっていずれ野垂れ死ぬか、ヴェルトマーの手のものに捕まるさ。おまえが売らなくったって変わりゃしないよ、義理を果たしたところで意味なんかありゃしない。無駄なことさね」
「だったら私が喋らなくってもいいじゃない」
「減らず口を叩くんじゃないよ」
けじめの問題なのさ。ヒルダは言い捨てると、勢いよく音を立ててカーテンを開けた。嵌め込まれた鉄格子の隙間から、鉛色の空が見えた。コノートの冬は彼らの生国のヴェルトマーやフリージよりはぬるかったが、しかしそれでも、到底優しい季節とは言えなかった。結局はいつも、フリージには厳しい季節なのだ。ずっと、イザークとの戦いを始めてから。
当時のティルテュは情勢を深く考えておらず、ただエッダのクロードが、独りでブラギの塔に行くと言うので慌ててついて行ったに過ぎなかった。クロードとしては、当時の宮廷人の思惑が不透明なだけに、誰を連れて行くと言うわけにも行かなかったのだろう。──実際、黒幕は彼らの予想だにしないところに潜んでいたのだし。しかし結局この神父は、良くも悪くも、いつも誰を信じてもいなかった。けれどもそのどこかそっと壁を置くような優しさが、ティルテュは好きだった。だからティルテュとしては、危ないけれども気をつけてね、じゃあ行ってらっしゃいと言うわけにも行かなかった。当時の情勢に対するおぼろげながらの不安さもあり、だからクロードが塔で祈ることでそれが解決するならば、それでいいだろうと思っていた。ティルテュとしても、まさか自分の父親がそんな悪辣なことをしてるとは思わず、だからその「事態解決」と言うことを、いささか無邪気に考えてもいた。それは貴族の子女としてはいかにも甘すぎることだったかもしれないが、しかし娘と言う立場を考えれば、情状酌量のいることでもあるだろう。とにかくそれだけのことである。それだけのことのはずであった。難しいことわかんない、ティルテュはそう言ったし、実際そうしてただ帰ってくればいいだけのことだと思っていた。全てが良くなるとまでは思わなかったが、まあそこまで悪いことにはなるまいとも思った。実際にアグストリアの戦乱で、オーガヒルの治安は荒れる事となったのだし、そう言った意味ではティルテュの判断は間違っていなかった。そこまでは。
塔から戻った神父は、ティルテュの顔を見て申し訳なさそうに顔を曇らせた。ティルテュにはその理由が分からなかったが、程なく父親とランゴバルトがシグルドに濡れ衣を着せるに至って、ようやく状況を理解した。つまりブラギの祈りなど、何の役にも立たなかったと言うことだ。どちらに行くか。父の元に行くといえば、シグルドも神父も許してはくれるだろう。けれども、父がしていることは。そう思えば、ティルテュとしても、流れるようにしてそのままシレジア行きの船に乗らざるをえなかった。そうしてシレジアの内乱でティルテュは武器を取り──助けてくれたラーナ王妃の、友人であるレヴィンやフュリーの危機だ、当たり前のことである──、そのままグランベルへと進軍した。それが何を意味するか、ティルテュとしてもわからないではなかったが、父のしたことが理解できないほど鈍い娘ではなかったし、横で戦う戦友たちのことを、彼らをこんな苦境に追い込んだ男の娘であるにも関わらずによくしてくれた人たちのことを思えば、武器を下ろすわけにはいかなかった。ましてそのなかのひとりと恋仲になり、子供まで孕んでしまったとなれば。父親の顔をティルテュは想像しないでもなかったが、しかしすべては後の祭りだった。そもそもティルテュも事態を受け止めきれておらず、だから実家に手紙のひとつも送れなかった。そうしてティルテュは実家と敵対し、消極的かつ間接的ながらも父の死に加担したのである。その後例のバーハラでのことがあり、ティルテュは夫とともにシレジアへと落ち延びた。残党狩りは厳しく、とても兄に弁明をする機会などなかった。
だから一方のフリージとしては、ティルテュがおのれの意思でそんなことをしているとまでは思えなかった。現実はともかく公式発表としてはクロードこそが賊軍であり、だからまわりは、叛逆するつもりのクロードが、フリージの公女を誘拐して人質にとったのだと言うことになった。いま少し露骨な言い方をしてしまえば、箱入りの能天気な娘が悪い男に騙くらかされて家出をしたと言うことである。金のあるところには問題が湧く。実家から金が引き出せなくなっても、売り払ってしまえばよい。貴族社会でのそう言った事故はままあるものであるから、それに政治が絡んだところで、誰もそこまで驚いたりはしなかった。あたしむずかしいことわかんない。ティルテュはよくそんなことを言っていたものだから、その行動にそれほど考えがあるなど、誰も想定はしなかった。とにかくレプトールは必死になって娘の所在を探っていたが、結局はバーハラの野であのような再会をする事となった。そうしてレプトールは死に、その後の混乱でまた娘の所在は掴めなくなった。残党狩りは熾烈を極め、だからブルームは妹のことにひたすら気を揉んでいたのだが、しかしこの男の人生もまた激動で、とてもそれだけのことに拘っているわけには行かなかった。ブルームは、バーハラの野で逆賊として殺された父のことをイザークで聞いた。ブルームも武門の男である、イザークよりとって返し、アルヴィスに一矢報いるという選択肢の出なかったはずもない。しかし最終的には服従した。神器はアルヴィスの手元にあったのだし、何よりも妻のヒルダと二人の子どもはグランベルにいた。位置的に本領に戻れるはずなく、補給も不十分なままバーハラの野で決戦となるであろうこともつらい。戦力のことを考えても、とても戦えるものでなかった。だからブルームは一戦もすることなく服従したし、そうしてその服従のあかしとして北トラキアでは尖兵となっていた。だから妹を「保護」することができたのは、実にバーハラから四年目のことになっていた。
妹がシレジアの果てで子どもまで儲けていたと聞いた時、この気の弱い男は、ほとんど卒倒しそうになった。かわいそうなことをとブルームはつぶやいたし、ヒルダもまたそれほど変わらぬ感想を抱いた。貴族の娘が、婚外子を産むなどと。そう思うのは実家の彼らの立場としてはあたりまえのことで、そうして家事のひとつも、生計の立てようも知らないであろうあの能天気な娘が、シレジアの雪の中でどれほど苦労をしていたのだろうと思った。しかし馬車から降ろされた妹は、もはや彼らの知る、あの考えなしの娘ではなかった。妹は騙されたのではなく、自分の考えでもってシグルドと行動をともにしていた。そうして、きちんとした自己判断で誰かを愛し、その子供を育てていた。だから突然連れ戻されたことに、当然ながら異を唱えた。そうして、シレジアに戻してほしいと訴えた。ブルームは必死になって説得したが、しかし妹は聞き入れはしなかった。騙されたのだ、反省している。あんな男のことなど、思い出したくもない。これからは心を入れ替えて、フリージのために尽くすから。そう言ってしまえばそれでいいのである。正直な話、心の中でどう思っていても、見かけだけ取り繕ってくれれば。しかし妹は頑として首を縦に振らず、だからブルームは頭を抱えることになった。まだ、バーハラの傷跡を癒してくれるには時間が足りていない。フリージはヴェルトマーに降ることを選んだが、しかしその選択を、当主の弱腰と不服に思うものもまだいるのである。そういったものたちに、反ヴェルトマーの旗印として妹を担がせるわけにはいかなかった。また、シグルド軍との戦いで家族を失ったものも少なくはない。そう言ったものたちに妹がどう映るか、考えれば頭が痛かった。たのむ。たのむティルテュ、たのむからわかってくれ。そんなブルームの祈りも儚く、状況は改善されないまま、とうとう二年になろうとしている。ヒルダとしても、何度この話をしたかと思うと、おのれの根気強さに感心するところがあった。
「おまえがもう賊軍とは手を切って、フリージの一員に戻りました、もう、グランベルに叛意はありませんって言うにはね。何かひとつ証しを出すのが、あたりまえのことじゃあないのかい」
ノディオンの王女やユングヴィのエーディン、シレジアの王子だっていい。誰だっていいんだよ、格好がつけば。別に首を取ってこいって言うんじゃないんだ、適当に言っちまえばいいじゃないか。ヒルダはそう悪態をついたが、ティルテュは変わらず俯いて、膝の上で握り拳を作ったままだった。だからヒルダは、ながながと聞こえるようにため息をついた。部下はそれで怯えるものだが、しかし義妹は、微動だにしなかった。そう言ったところを義姉は内心感心していたが、けれどもこの場では、手放しで褒めてやるわけにもいかなかった。うそでもいいから頭を下げろ。要約してしまえば、ヒルダの言い分はそう言うことだった。どうせ心の中のことなど、当人にしかわからない。俯いた顔の中で、舌を出したって自由なのである。人間などそんなものなのだ。建前さえ取り繕っていてくれれば、なんとでも捌き用はあるのである。ヒルダはこの義妹のそう言ったことのできない天真爛漫さを嫌ってはいなかったが、しかしことここに至っては、ただその幼さ素直さを愛でている訳にもいかなかった。ティルテュが「シグルド軍残党」の立場をあらためない限り、安閑と家の中には置いて置けないのである。かといって、むろん放逐すればいいと言うものでもない。目に見えないところで、義妹を利用しようとするものが出ないとも限らないからだ。だから手を変え品を変え翻意を促すのはあたりまえのことで、それでもティルテュが頷かないものだから、ときにその詰問は怒号ともなった。そうしてこう言ったことは気の弱い、まして血縁のために追求の鈍くなってしまう兄や重臣たちよりも、割り切りのよい義姉の方が適していた。しかしその効果については、ヒルダとしても疑問だった。とはいえ、追求もしないで家の中に置いては置けないのだが。
そうしてヒルダが焦れ始めた時、
「──シグルド様は間違ってないわ」
と、ぽつりとティルテュはそう言った。しかしヒルダは何ら感銘を受けた様子もなく、またながながとため息をついた。何度も繰り返された会話だった。
「で、そうだったとして、どうしろって言うんだい。まさか今さらそいつを担いで、アルヴィスに喧嘩を売れって言うつもりかい? さぞ勝てる算段があるんだろうねえ」
「それは……」
「だいたいそのシグルドだって、アルヴィスと組んでおまえのお父上を負かしてるんだ。間違ってない、で済む話だと思うのかい。おまえ実家に向かってそんなことやっといて、どう落とし前をつけるつもりだったんだい」
「でもそれは、お父様が」
「おまえ、お兄様が置かれてる立場ぐらいわかるだろうね」
心底呆れた顔をして、ヒルダはティルテュを遮った。何度も聞かされたことだったし、何度も諭したことだった。そうしてこれからヒルダが口にすることも、何度も繰り返したことだった。
「北トラキアを任された、なんてご栄達と思ってるかも知れないけどね。イザークアグストリアバーハラと連戦して、当主は戦死で騎士団は半壊の上、トラキアとまで戦わされたんだ。騎士もだいぶ死んだし、財政なんて火の車さ。ようやく落ち着いたかと思えば、レンスターの残党は鬱陶しいことこの上ないし、トラキアがいつ牙を剥くかもわかったもんじゃない。そんな状況で、またアルヴィスに目をつけられたくはないんだよ。おまえお兄様をそんな可哀想な目に遭わすのかい。たいした妹だね」
ティルテュはぎゅっと唇を噛んだ。ティルテュとて、そんなことは十二分にわかっていた。そうしてティルテュがわかっていることも、ヒルダは理解していた。結局は平行線だった。ヒルダとて、ティルテュの言うところにいくらかの正しさを認めないでもないのである。けれどもヒルダもブルームも、それを手放しで受け入れる訳にはいかなかった。アズムールもすでに亡く、アルヴィスのグランベル支配はすでに盤石となっている。今さらどうしようもなかった。
「負けたんだよ、あたしもおまえも。そう言うことさ」
ヒルダの父はフィノーラでシグルド軍を迎え撃ち、そこで死んだ。ヒルダはそのことについて、ティルテュには直接は何も言いはしなかった。ヒルダ自身、ヴェルトマーから輿入れしていながら、あのような事態を防ぐことができなかったという引け目もある。しかしあの折、ヴェルトマーとの間を必死になって取り持ち、夫や義父のことを弁明しながら、もし父親が死んでいなければ今少し取りなしができたのではないかと何度思ったか知れなかった。そう思えば、シグルドのことをとても好意的には見ることができなかった。またヒルダは、アルヴィスはもしかしたら最初からそのつもりで、レプトールの油断を誘うためにこの縁組を申し出たのではないかと疑いもした。その屈辱は、とても耐えられるものではなかった。シグルドをうらみアルヴィスをうらみ、けれどもヒルダはすべてを呑んだ。そうする以外の選択肢がなかったからだ。夫と、子供達のためには。世の中というものはそういうものだと、ヒルダは思っている。無理を通すためには、力を持たなくてはならないのだと。何があっても、決して負けてはならないのだと。
「じゃあ、私のことも探しにこなければよかったじゃない。あのまま、シレジアでそっとしておいてくれたってよかったじゃない。私も、ティニーも」
ティルテュの呟きは、もはや涙声になっていた。ティルテュもそんな義姉のいうことが、わからないわけでもなかった。兄が、フリージの当主としての責任としてよりも、兄としての情と優しさからおのれを「保護」したのだということも、きちんとわかってもいた。結局は、全て手遅れなのだ。何もかも、全ては過去のものになってしまった。だからティルテュだって、そんな大それたことは望んでもいなかった。フリージに仇なすつもりも、ヴェルトマーを転覆しようだなどとも思っていなかった。ただ、娘と、「息子」と、静かに暮らしたいだけだった。しかしそれがもはや叶わぬものであることも、ティルテュはしっかり理解していた。けれども感情はそうもいかず、だからティルテュは無理を承知で懇願せざるをえなかった。──要を開示しない懇願が、義姉に不審を募らせているのだとは知りながらも。
「帰してよ。シレジアに帰して。ふたりとも、死んだってことにしてよ。お願いだから。絶対変なことしないから」
「甘ったれたことをお言いでないよ」
もうそんな信用はないんだよ。ヒルダはぼやいて、淑女らしくなく舌打ちをした。できるはずがなかった。ここでシレジアに母娘を返して何かがあった時、次こそフリージは取りつぶしになるだろう。だいたい、なぜそうまでしてシレジアに帰りたがるのか。何か、よほどのことを隠しているのではないか。まさかそんな。せいぜい居心地が悪い程度のことだろう。なのに、面倒なことを。そう思えば、平行線を知りながらも何度も懇願してくる義妹に、呆れを通してうんざりもしていた。だからヒルダは、出来の悪い子どもに言い含めるようにして、懇々と説いて聞かせた。そうしてその説教がまた空振りに終わることを思えば、ヒルダとしてもとても笑顔ではいられなかった。
「おまえ、子どもの父親すら教えようとしないじゃないか。それで、どうやって信用しろって言うんだい。どうせ言えないんだったら、無理矢理作らされた子どもだとでも言って、修道院にでも入れちまえばよかったんだよ。別に修道院に入れたっからって、どうにかなる訳じゃないんだ。寄付なりなんなりうまいことやって、たまに顔でも拝んでくればいいだろうよ。そのほうがこんなところで逆賊の汚名を着せられて生きるよりも、よっぽど幸福か知れないんだ。そのくらいのはした金だったら、こっちも融通してやるさ。なのにおまえときたら、父親は言えない、娘を手放したくもないと」
あたしも──正直おまえのお兄様だって、そんなザマなら見つかってくれなきゃよかったと思ってるさ。ヒルダはそう、胸中でひとりごちた。馬鹿な娘。どうしようもない娘。可哀想な娘。あのまま子供でいてくれれば。ただの世間知らずの、騙された娘でいてくれれば。せめて大人になるならなるで、もう少しずる賢くなってくれれば。小器用に、要領よく、浅薄に、薄汚く。──誰もがそんな苦さを飲み込んで、歳を重ねていくように。
「おまえなんか、シレジアの雪の下に埋もれてりゃあよかったんだ」
ヒルダはそう悪態をつくと、窓の外に視線を向けた。鉛色の空から、雪がちらつき始めていた。