主君の目がすっと細められて、不覚にも鼓動が乱れた。
よく光る、するどい、油断のない目である。そんな釣り気味の瞳が無造作に伏せられて、まつ毛が影を落としていた。茶だとばかり思っていた瞳に、うすく緑がまざっている。考えて見れば、こんな近くで主君の眼を覗いたこともない。その慣れない距離の近さが、どうにも落ち着かないものだった。まして、こうも延々と耳たぶばかりをこねられていては。
「"トラキアの盾"も、耳ばかりは柔らかいな」
主君が感心したようにそう言うので、ハンニバルは困惑した。そんなことを言われても、なんとも返しようがない。仕方なしにハンニバルは、
「そのようなところが硬いものも、そうはいないと思いますが」
と、よくわからないことを言った。主君はそう言うものか、と首を捻るので、そう言うものです、と、ハンニバルはやむなく頷いた。
「その、パンを捏ねる際にも、耳たぶぐらいの硬さにせよと申しますし。ある程度皆そう言うものでなければ、そうような言い方はなされないのではないでしょうか」
「なるほど一理ある」
まじめくさって言いながら、主君はひとつうなずいた。そうしてふにふにふにふにと、やはり真剣な面持ちのまま耳たぶをこね回すので、ハンニバルは口中でため息をついた。
耳飾りの穴を開けないと、出られない部屋。
目が覚めたふたりが放り込まれていたのが、そんな部屋である。何が楽しくてこんなことを、と、主従ともに首を傾げたが、しかしぶち込まれたからには仕方がない。見た限り──それはもう、二人揃って必死に見たわけだが──、他に出ようがないのである。従うほかなかった。何ものかは知らないが、一国の君主と将軍を、覚えのないままに拉してくる力のあるものなのである。なんの酔狂でこんなことをしたかは延々問い詰めてやりたいところではあるが、しかし顔も見えない以上、逆らうのも得策ではないだろう。スリープでも使われた──杖の値段を考えるとめまいがしそうになる、ましてこんなことに消費するなど──のだろうが、主従揃って魔防が低いのは、こういうときには厄介だ、とハンニバルは内心嘆息した。そういう民族なのか、トラキアにはそういう適性のあるものがほとんどいないのである。とくに竜騎士の、魔導士と戦うときの脆さは折り紙つきで、主君はよくあたまを抱えていた。
「よし。やれ、ハンニバル」
主君はそう宣うて、おのが耳を指差した。ハンニバルはしばらく理解ができなかったが、慌てて、もげるほどに首を振った。なにを考えているのだと思った。常識的に考えろと思った。
「その、玉体に、みだりに傷をつけるわけにもまいりませんので」
あたりまえのことである。どこの国でもそうであるし、臣下が臣下の分を弁えるのであれば、誰だってそう言うだろう。にもかかわらず、主君はかすかに首をかしげた。
「わしも騎士だぞ。傷など、今さらのものだが」
主君が指さす先には、確かにいくつか傷があった。それはそうだが、そう言うものでもないだろう。そもそも家臣からしてみれば、戦場で傷を負われたくもないのである。なるほど、主君はよその国のように、城の奥、玉座の間に、どっかりと鎮座ましますのが似合うたぐいの王ではない。しかしだからと言って、当然何があってもいいと言うわけでもない。──まして、粗雑に扱うなど。そう思えば、明示されるその傷に、いささか複雑なものもあった。言ってしまえば、もう少し大事にしてほしい、と言うことでもあろう。──そう言うことの、難しい国ではあるが。
「それに、私は不器用でございますので」
どうか、ご容赦を。そう言うと主君はようやく納得したらしく、小さく頷いた。そうして主君の気が変わらないうちにと、ハンニバルもいそいで頷いた。
そこで、この有様なのである。おのればかり椅子にかけさせられ、手法の図解と器具をためつすがめつしている主君を見上げるのは気まずいことこの上なかったが、しかし逆よりははるかにマシである。そう思えば、ハンニバルとしては割り切るほかなかった。なんでこんなことに、と、何回目かのため息をついた。
「イザークのあたりでは、これを福耳と言うのだそうだ」
そんな家臣の心も知らず、主君はそんな、妙なことを言い出した。こうも厚いのであれば、よほど幸を呼び込みそうなものだな。揶揄するような、しかしどこか素直に感心するような口調で、やわやわと耳を揉み込んでいる。延々そうされてはこそばゆいのだが、しかしなにを言えるわけでもないので、ハンニバルは黙って耐えた。家臣のつらいところである。
陛下は随分と、幸が薄くていらっしゃる。揉まれるあいだ、主君の耳の形状に、ハンニバルはふとそんなことを考えた。しかし口には出さなかった。いくらなんでも、それを軽口にできるほど、気安い仲とは言えぬだろう。
主君は家臣の目から見ても、幸が濃い類の男ではなかった。しかしそれを跳ね除け、ギラギラとした輝く眼差しで未来を指差すものだから、みなやはりギラギラと、燃える眼差しをしてついてゆく。貧しさなど、卑怯など何ほどのものだ。なにも怯えるな、黙ってわしについてこい。そう言って陣頭に立ち、どんな蔑まれるような汚い仕事でも怯むことなく、堂々と名乗りをあげて神器を振り回す主君のことを、騎士たちはいつも敬仰の目で見上げていた。そうやって主君が立つから、騎士も、民も立っていられるのだ。トラキアの夢は、と主君はよく語るが、しかし家臣としては、主君そのものが眩しく輝かしい、夢そのものだった。彼を仰ぐことで、誰も彼もが、顔を上げていられた。──貧しさと惨めさに、頽れそうなところを。
そんな主君に耳たぶを揉まれて、落ち着いていろと言うのもむずかしいものである。可能を防ぐために、たんねんに洗う必要があるのはわからないでもないが、そうもむにむにといじられると始末に悪い。たまらず、陛下血流が増えますと、と諌めると、む、と唸って手を止めた。そうして冷水に漬けた手巾を絞ると、そっと家臣の耳を挟んだ。濡れた主君の指の冷たさの方が、ハンニバルには申し訳なかった。
主君はペン先でカリカリとハンニバルの耳たぶに印をつけると、少し離れて眺めては首を捻り、拭いて印を消したのちに、もう一度書いた。それからまた首を傾げて描き直すと、ようやく満足げに頷いた。こんなことで開ける穴に、そんなに真剣になる必要もなかろうがと思うが、それでも主君としては、なにやら譲れないものらしい。几帳面と言うべきか、否か。
「覚悟はできたか」
「いつでもかまいません」
「む。そうか。まあ、貴様ほどの男が、耳に穴を開けられる程度で怯みはせぬだろうな。では行くぞ」
動くなよ。そう言って主君は、一息に針を刺した。一瞬の鋭い痛みがあったが、しかしそれだけだった。わずかにじくじくする左耳に、よく清拭された固定用の耳飾りを差し込むと、主君はふうと息をついた。それからそっと手拭いを耳にあて、見た目からは想像できないほど、ていねいに押さえた。
「痛むか」
「いいえ、それほどには」
「ん。しばし押さえておれ。いまもう片方開けてやるゆえな」
そう言って主君は同様に右の耳も、こんどはあっさりと開けてしまった。たった一度やっただけのことを、そうも簡単にやってのけたことに、ハンニバルは内心舌を巻いた。実際この主君は小器用で、放っておくと、何でもかんでも自分で済ませてしまうのだ。それに近習が悩んでいることを、ハンニバルは知っていた。こだわりがあるのだから好きにやらせておけばいい、と言うわけにもいかないのだろうが、しかし結局は主君のことである。押し切られてしまえば、家臣にはどうにもならないのだ。こればかりはどうしようもない。何でもかんでもできると言うことが、当人およびまわりにとって、必ずしも良いこととは限らないのであるが、まあ、下手の横好きをされるよりはよいだろう。そう言ってハンニバルは近習を慰めもしたが、しかし下手の横好きと言えば、実際この主君がなにを趣味としているのか、家臣の誰も知らぬのである。そうしてみれば、主君はわりあい、謎の多い男でもあった。とは言え、君主というものは多少神秘性のある方が、ありがたみのあるものでもあるが。
「痛むか」
「いえ、それほどには」
「そうか」
そう言ったまま主君は、布でもって耳たぶを押さえていた。別に手は二つあるのだから、もう片方も止血ぐらいできるのだが。ハンニバルはそうも思ったが、しかし主君が難しそうな顔をしてじっと見つめているものだから、なんとなく声をかけそびれた。ただ、主君の武器に馴染んだ固い指さきの感触が、妙に落ち着かなかった。時間が経つのが、いやに遅く感じられた。
「もうよかろう」
主君はそっと手を離し、血が止まっていることを確認すると、かすかに息を吐いた。それから、血が止まっていることを確認して、臣下にも同様に手を離させた。
「ふうむ」
主君はわずかに首を捻りながら、家臣の髪をかきあげたりしていたが、やがて、
「うむ」
と、満足そうにうなずいた。
「そら、見てみろ」
机の上の手鏡──無駄に用意のいいことだ──を取ると、主君はハンニバルの眼前にかざした。小さく地味なものとはいえ、きらきらしたガラスがおのれの耳たぶについているのは妙に面映かったが、しかしその位置の見事なまでの対称さに、ハンニバルは驚いた。本当に、器用なものだと思った。だから、なかなかうまいものだろうという主君の自慢げな言葉に、素直に頷いた。
「その、僭越ではありますが、たいそうお上手でいらっしゃるかと。これが逆であれば、陛下は今頃血みどろです」
「そうかもしれぬな。もっとも、お互い血みどろは今さらのことだが」
これで食ってもよいかもしれぬ。笑えない冗談を言いながら、主君は道具を片付けた。部屋の主人としても結果に満足したのか──判定の基準はいささかわかりかねるが──、先ほどまで何もなかった床の上に、ワープの魔法陣が顕れていた。これに入れば戻れるとのことに、いささか不安がないでもないが、結局従うほか法はない。全く、迷惑な話だと思った。
主君は人の悪い笑みを浮かべると、もう一度家臣の髪を耳にかけた。案外似合うではないか、と言うのに、ハンニバルは恐縮して、お戯れをとつぶやいた。
「──これでは部下に笑われます」
「よいではないか、貴様は真面目がすぎるのだ。たまには笑われておけ」
主君はもう一度笑い、例の”福耳”とやらを、そっとなぞった。それから、揶揄うような声音で、
「大事にしろよ、福とやらを」
と、囁いた。そうして家臣が呆気に取られている間に、主君はためらいなく魔法陣を踏んだので、ハンニバルも慌ててそれにつづいた。それからふと、この厄介な耳飾りが主君の瞳の色であることに気づき、妙に気恥ずかしくなった。
息子の唸り声に、ふとハンニバルはそちらを向いた。息子は何やら難しい顔をして、らしくもなく手鏡を睨んでいる。帝国軍との戦いも終わり、あとは皆三々五々、故郷に、あるいは縁のある国に帰るのだ。気の抜けているところは否めまいが、しかしそれにしても珍しい光景に、ハンニバルは首をかしげた。浮ついてそんなことをしているのであれば、もう少し楽しそうな雰囲気を出すものではないか。それともあるいはこの息子も、周りのように、誰か恋仲について来てくれと言うつもりなのか。もしくは、ついて来てくれと言われたのか。──親元から離れて。そう考えて、つい難しい顔をしてしまった親の視線に気づいたのか、コープルは顔をあげると、苦り切った顔で首を振った。
「姉さんが、僕も耳に穴を開けろっていうんだ」
絶対似合うからって。息子の言葉にハンニバルは内心ほっと息を吐いたが、しかしそれも親としてどうなのだと思い、慌てて首を振った。それからつとめて平静を装うと、そうか、と、やたら重々しく言った。
「ずっと離れていた弟が、かわいくて仕方がないのだろうな。なんでもいいから、とにかく面倒を見てやりたいのだ」
「だけど僕、男だし。似合うって言われても」
そんなことを困惑したそぶりで言いながら、息子はながながと息をついた。息子は歳のわりには童顔で、女顔であるものだから、たいそう似合うことだろう。だからそんなことを言い出すリーンの気持ちも、わからなくもなかった。そうして、かわいいと言われて、困惑する息子のことも。ハンニバルも若い頃は、女顔を揶揄われたものである。それが紅顔何処かに去り、尋ねんとするに蹤跡なしと言うもので、今の顔からはとても想像もつかないだろう。時と言うのは無情なものである。とはいえ、そう言った時を重ねられたことも、奇跡のようなものではあるが。
「嫌か」
「嫌ってほどでもないけど……」
うーん、とうなって、息子はまた手鏡に視線を戻した。なんだかんだで息子としても、この突然現れた──正確に言えば、突如判明した──姉のことが、憎いわけではないのだ。だから希望を叶えてやりたいのだが、ただ、距離を計りかねているのだろう。いっそ離れていた分だけ無造作に詰めてしまっても良いのではないかとハンニバルは考えもするのだが、それはそれで乱暴なことなのだろう。馴染みがあったとしても、異性の兄妹とは難しいものだ。まして弟が姉にである。素直に甘えるのも、なかなか沽券にかかわるものだ。
もっともハンニバルからすればその含羞も、ほほえましいものだった。大人になったなと思った。そうして、耳飾りを開けると言うような行為でしか姉ぶることのできないリーンのことを、哀れにおもいもした。結局はこの娘も、保護されない子どもだったのだ。あの子もアグストリアに行く最後、おそらくは今生の別れとなる際に、なにかひとつ、弟に残してやりたい、つながりをつくっておきたいものがあるのだろう。──些細なことでも。そう思えば、姉の側に肩入れしてやりたい気分にもなった。それはいずれ、おのれの姿になるのかもしれないのだから。
「まあ、開けるだけ開けてみてもわるくはあるまい。案外、開けてみれば気にいるかもしれん」
だからハンニバルは、そんなことを言った。息子はそうかなあ、と首を傾げていたので、まあ無理に開けずともよい、と、ハンニバルは笑った。
「何、思い出と言うのを作っておくのも悪くないものだ」
なにかしら、後から思い出すこともある。良いことも、悪いことも。そんなことを言い出した父親にコープルは不思議そうな顔をしていたが、ハンニバルはなにも答えず、冷えはじめた茶に口をつけた。息子はそんな父親の様子に何か言いたそうでもあったが、しかし父親の様子に察するところがあるのか、黙っておのれも父に倣った。姉によってきれいに切り揃えられた髪から覗く耳たぶが姉によく似ていて、ハンニバルはわずかに目を細めた。血は争えないものだな、と思った。それから、すっかり穴の塞がった自分の耳と、机に入れたままの耳飾りのこと、そうして、福のなかった耳の持ち主のことを、少しばかり思った。