真夜中の食卓 どうしたらいいんだっけと思いながら、白い泡を吹いた鍋を前にぼんやりと立ち尽くしていた。
乾麺のうどんを茹でようとしたのだ。ただそれだけだった。
茹で時間の間少し目を離したらあっという間に白い泡が立って、コンロの五徳に触れてジュワ、と音を立てた。
咄嗟に火を消して、その鍋の中で揺蕩っている白いうどんを見る。
どうしたらいいんだろう、とぼんやりと眺める。
お腹は空いていたが確かに食欲はなかった。こういう時どうしていたっけか、と思うとつい最近顔の変わってしまった恋人が手際よく作ってくれていたのだ。
その人は今手が離せないし、というより頼めなかった。
ここにくるまでに関係のない人目につくので、彼女はここまで来られない。
その考えに至るまでかなりの時間を要したし、お腹は空いている。
こんろと調理台に業務用の食器棚がある共用の調理スペースである。具のないうどんが鍋の中に沈んでいる。きっとまだ食べるには硬いが、また火を点けて、どうしたら良いのかわからなかった。
蛍光灯の青白い冷たい光に照らされて、ステンレスのシンクや鍋がてらてらと光っている。
もっと複雑な実験をたくさんしてきたし、頭の中では火加減を調整しながら菜箸でかき混ぜればいいとわかっているのに、手も頭もろくに動かなかった。
ただ、空腹と面倒臭さが譲り合いをしているようだった。
というか、拭かないとなあだとか、コンロ周りを掃除して、と考えると本当に億劫だったのだ。
だから、ただ立ってぼんやりとしていた。
その時だ。部屋に入ってくる足音がして、なんだ? と低く平坦な声がする。
「竜野か、どうした」
振り返る。ピンクの頭、彫りの深い白皙の顔に緑の瞳があり、訝しげにコンロの上を見た。ハントレスの隊長であるデルウハさんだった。
ハイネックの普段着だけで、手元に食材の入った布袋を抱えている。
夜食でも作りに来たようで、調理台に無造作にそれろ置く。
「ああ、どうもこんばんは」
「煮こぼしたか。茹でねえのか?」
「いや、もう良いかなと思って」
「喰わねえならもらうぞ。生煮えじゃねえか」
鍋を一度退けると調理台の上の布巾でさっさとこぼれたお湯を拭き取って、コンロの上が綺麗になる。
白い大きい手がテキパキと動くのをぼうっと眺める。
掃除が終わると手を洗って、あっという間に野菜を切って塩胡椒を振ってフライパンで適当に炒め始める。
調味料の場所もすっかりわかっているようで、そこにあったんだ、と思うものがたくさんあった。上の開きに色々入っていたのだ、いつも彼女がやっていたのを見ていたけど、意外に覚えていないんだなと少し自分に呆れる。
もっと彼女をちゃんと見ていればよかった、とも。
こちらがぼうっとしているうちに野菜炒めが出来上がって、皿の上で湯気を立てている。キャベツとにんじんに玉ねぎだけのシンプルなものだ。
冷蔵庫からめんつゆを出してきて水で割ると小鍋で煮始める。そうだ、つゆを作っていなかったと今更思い至る。
今度は引き出しを開けると菜箸を取り出して、コンロの点火ボタンを押す。
乾いた音の後にボッと火がついて、菜箸でかき混ぜる。
「2人分じゃねえか。なんだ、お前1人で食うつもりだったのか?」
「2人分なんですか?」
筆ヵ谷さんがいつもこの量を茹でていたのだ。それもそうだ、いつも2人で食べていたんだから。
僕しか食べないのに、この量を茹でていた記憶しかなくてついそうしてしまった。
「……食べられるなら、どうぞ」
「お前顔色やべえぞ、半分食っとけ」
こちらを見もせずに菜箸でうどんを茹でて、つゆをお椀に入れて湯切りしたうどんがその中に入れられる。具のない素うどんだ。
4人用くらいのテーブルと椅子があるので座るよう促されて、そこにドンと置かれた野菜炒めとうどんをぼうっと見る。
取り皿を渡されたので、分けて食べて良いようだった。
うどんと野菜炒めは湯気を立てていて、食べ物の匂いがする。なんだかずいぶん久しぶりなような気がして、最近食事はどうしていたっけと思い返すが記憶は曖昧だった。
箸を渡されて受け取る。
僕がどっちから食べようかな、と思っているうちにデルウハさんが結構な量の野菜炒めを取り皿にとって一口で食べるので、慌てて箸をつける。
まだ熱いくらいのそれを口に含む。
血行が戻るような気分になって、思考が少しクリアになる。
一瞬だけチラとこちらを見たデルウハさんはそのままうどんをフォークで器用に食べて、野菜炒めもあっという間に消えて無くなる。
気持ちのいい食べっぷりというのはこのことだろうか。
自分のうどんを啜ってつゆを飲んでいると、体が温まる。
もやのかかっていたような頭が少し見通しが良くなってくる。
「研究はどうだ。多少できることが増えたと聞くが」
「……そうですね、お陰様で順調ですよ」
「それなら構わん。片付けはできるな?」
いつの間にか空になったお椀とお皿を持って彼はシンクに向かうと、さっさと洗い物を済ませてきた時のようにいつの間にかいなくなる。
まだ半分残っているうどんを見下ろして、少し考えてからそれを残す。体は温まってだいぶマシにはなったけれど、どうしても、もう食べられそうになかった。
見られないといいな、という気まずさを持ちながら、三角コーナーにその麺を捨てた。