筆蹟 南向きの窓から冬の日差しが差し込み手元を白く明るい光が照らしている。
ピンクの髪に明るいグリーンの瞳、彫りの深い顔立ちの男が椅子に腰掛け万年筆を手に持ちいささか背を丸めて机に向かっていた。
万年筆の影が紙に落ちる。ブルーブラックのインクが滑るように筆記するのを、デスクの横にしゃがみ込んで見ている女がいる。
その万年筆を持つ指の太い男は女を視界の端に置いてエスペラント語で流暢に手紙を書いていた。
「きれいに書くわよね〜」
女、にこの間延びした声に視線だけ向けて、また紙の上に視線を落とす。
彼女が立ち上がって、机の端にあった名刺入れを持ち上げるので流石に顔を上げた。
「なんだ?」
名刺の1枚を引き抜いて、名刺入れを机に戻す。
にこは何かを期待するような、いたずらでも仕掛けるような顔で笑っている。
ここに書いて、と言って差し出された紙切れは自分の名刺であり、その白無地の面を上に向けて、細い指がそれを差し出している。
「何を?」
「にこの名前。フルネームで」
手元の便箋をどけて、手元に名刺を置く。
「……今の?」
「他にある?」
目つきを険しくしてむくれるので、短く謝って少し考える。
にこ、は日本語で書くべきだろうかといういささかの逡巡であったが、結局は英字の綴りにした。
指で挟んで差し出すと、にこは字を見て口角を上げて、花が咲くように笑う。
何がそんなにおかしいんだと思っていると、短く礼を言って部屋を出ていくので作業に戻る。
廊下から聞こえるはずんだ足音にほんの少し訝しんだが、機嫌が良いに越したことはないと判断して意識の外へやった。
◇◇◇
廊下に出て仕事の邪魔にならないようにゆっくりリビングに降りて、日当たりのいい場所にクッションを置いて仰向けになる。
さっきの紙を掲げるようにして。青みがかった黒いインクで描かれたきれいな字を読むだけで頬の力が抜けて笑う。
もう何度か見たものだけど、彼の直筆で書かれたものは手元になかった。
つい最近、この秋に手に入れたもの。彼女にとっての新しい名前。
まだ真新しい指輪を光に翳して、手元の自分の名前と交互に見やる。
「にこ・デ=ルーハだって、ふふふ」
しばらくそうして悦に浸って、満足すると起き上がって彼の間食を用意するために台所に向かった。