愛なるもの 「愛してるって言ってよ、ねえ」
ソファで寝転がっている女を視線で見て無視したのがいけなかった。
まだ膨らみもしていない腹には自分の血を引いた子供がいるのだ。まだ妊娠初期であり精神的に不安定な時期であったが、その前に何度も戯れに求められるたびに自分から生まれることのない言葉である以上その要望は黙殺し続けていた。
それを彼女も承知のはずだったし、平時であれば笑って済ませていたはずだった。
起き上がって隣に座り直すので視線で見る。体調が悪くなったのかと思ったのだ。
空を蹴るように足を振る、柔らかい音を立てて彼女の踵がソファにぶつかって、僅かに揺れた。
「ご飯さえあればいいんだもんね。言葉ではどうとだって言えるもん」
「……結婚記念日の時も言ったろ、あれは紛れもない本心だ。お前と結婚生活を続ける意思はある」
「愛してるって本心から言って欲しいんだってば、でも愛なんてないもんね」
「にこ、俺はそういう男でお前もそれを承知してるはずだろ。嘘ついて欲しいのか」
「本当のこと言ってよ、にこも赤ちゃんもどうだっていいんでしょ」
俯いて顔は見えない、張った声の拗ねるような調子。機嫌を取らせようとする様子にうんざりして嘆息を吐く。
「にこ」
「今にこがいなくなったらちょうどいいんじゃないの。仕事も順調だし、この家を出たってなんとかしてもらえるでしょ」
「いい加減にしろよ、俺なりに腹を括ってお前と上手くやるつもりでやってるんだぞ。ガキの面倒だって見るつもりだし、お前のことも俺なりに丁重に扱ってるつもりだぞ。それとも何か? 四六時中甘い顔をすれば満足か? 思っていもいないことを囁いてやろうか、子煩悩な父親だって演じてやれるぜ」
「にこのこと好きになってよって言ってんの!」
「悪魔の証明だろうが、よしんば俺がお前に情を持っていてその通りに愛を囁いても、お前が疑えば……」
にこがこちらの肩を殴ろうと振り上げた拳を受け止めて、その力のあまりの弱さに、それが彼女の渾身の力であることを察して落胆に似たものを覚える。
「うるさいって思ってるでしょ、結婚なんかして面倒なことになったなって……じゃ、邪魔なら昔みたいに殺せば? 今度は本当に静かになるわよ」
震える声の後、みるみるうちに青ざめる。目の端に涙が浮いて頬を濡らして顎を伝って膝に落ちる。嘘、と弱々しくかぶりを振って、見上げてくる。
「にこ」
「ごめん、でも、あんたがこの子のことどう思ってるか、ちゃんと教えて。あんたと結婚したことは後悔してないけど……」
「お前が一緒に守ってくれっつって俺はそれを承諾しただろ、それが全てだ」
色素の薄い瞳が見上げてくるので、頭を抱き寄せる。
胸元に収まってにこが目を閉じる。
ごめんね、とごく小さな声でつぶやいて身を預けてくる背中に腕を回す。
この女が不安定になるのを見るとどうにも落ち着かない、こういうことはあまりないのだ。
青白かった顔色に血色が戻って、背中から感じる脈が平常に戻ると平成に戻る。
これはなんだろうな、と考えて見えかけたものに蓋をして、慰みにつむじへ口付けを落とした。