愛すべき女「にこ」
　低く、やや切羽詰まった様子で呼ばれたにこは視線を切ってその頬に伸びようとする手を拒むようにそっぽを向く。
　夫婦の寝室、ベッドの上に向かい合って座っており、夫であるところのデルウハはあぐらをかいて大柄な背中を丸めて彼女の顔を覗き込んでいた。
「望みはわかる、最初から五人がいいって言ってたもんな。でもお前が健康だから叶えられる願いなんだ。あの時大変だったじゃねえか、あんな思いはもうしたくないんだよ」
「……今は元気だもの、大丈夫よ」
　眉尻を下げて覗き込む夫の目を見こそすれ、その目は頑冥なまでに夫の提案を拒絶する険しさを湛えている。眉間に皺を寄せ、睨め付けるも同然であった。
「命懸けなのは今まで全部そうだったもの。命を賭けるにこが産みたいって言ってるののどうしてデルウハに止められると思うの」
　にこ、と呆れと、悲哀を滲ませた声で呼びかけられてたじろぎを見せる。
「お前とロクサーヌと揃って会えたのは生まれてから三日も経ってからだった。その間、俺が平静でいたと？　二度とあんな思いはしたくないと言ってるんだぞ」
「……にこが死んじゃったら上の子供達はどうしようって考えてた？」
　据わった目で尋ねられて、あのなあ、と膝の上で頬杖をつく。しばしの沈黙の後、ポツリとこぼす。
「気が気がじゃなかったよ。信じられないか」
「……心配したんだ？」
「当たり前だろ」
　ふうん、と呟くとにこはその緑の目を、真偽を確かめんとするばかりに覗き込む。じっとその目を見るうちに、伸びてきて頬に触れる手に目を細めて受け入れる。
「にこ」
「……あんたは、にこを誘導したり丸め込むにはどうしたらいいか知ってるから……」
「手厳しいな」
　薄く笑う顔を見て眉間の力を抜く、頬に触れる手のその甲を撫でて、硬い骨と筋肉の感触を確かめる。
　緑の目の少し疲れているのを見て、手のひらに頬をすり寄せる。
「あんたにしちゃ珍しいものね。いいわ、考えてあげる……少し時間をちょうだい」
「にこ、信じてくれ。俺なりにお前には……思うところはある」
　その言葉を聞いて、にこは目を瞬かせてから笑う。
「何それ？　じゃあ、証明して見せてよ」　
　蠱惑的に、いささか暗い瞳で夫を見返す。ごく小さなため息の後、寄せてくる唇を瞼を下さずに迎えた。
　　
　◇◇◇
　
「奥様はその、どちらのご出身でしたか」
　妻と四人目の子がなんとか生死の境を超えたその後に、まだ手術の疲労も濃い医師に呼ばれてその言葉の意図を図りかねていた。
「長野ですが」
「ああ、なるほど、噂は聞いたことが。いえ、どうということはないんですが」
　気遣わしげな顔を作って、何か？　とわざとらしく尋ねて見せるとあからさまに動揺を見せる。
「ああいや、血の凝固が早いと言いますか、特殊な体質のようですね。それだけ聞きたかったのです、ありがとうございました。面会できるようになったら連絡しますので、今日はお帰りになってください」
　医師の目に好奇心の光が宿る。彼女の今は失われた様々な特質のどれかが、生命の危機に際して顔を出したろうか……四人目は酷い難産だったのだ。ごく短い時間、部屋を移動するおりに顔を見たきりだった。
「先生、うちには先生のご息女と同じくらい子供がいるんです。愛らしいものですね」
　静かに尋ねると、一度表面的な微笑みを浮かべて、それから訝しげに首を傾げる。
「お話ししましたか？　確かに私には娘がいますが」
「家族は大事にしなくてはいけませんね。それでは、私はこれで」
　部屋を出て、どうしたものかと今後について考える。家に帰れば三人の我が子がおり、同じ建物には妻が生死の境を超えて休んでいる。
　愛すべき妻、我が子を産んで死の境を見た、愛すべき……。