イデアがハリネズミになるイデケイの話 ハ、ハア~~~~!!?
陰キャにしては腹の底から叫んだつもりであったが、みるみる小さくなる体は、辛うじてピイイと甲高い鳴き声を上げられただけであった。すぐに視界は白衣に埋もれ、身長180センチ超だった高さから丸い体がぼてっと落ちる。
脱げたよれよれの下着から這い出た頃には、実験室はまるでという比喩でも何でもなく、ただの動物園になっていた。ビークワイエット、とこめかみに青筋を立てたクルーウェルの鞭が響く。
「誰だ、三年にもなって変身薬をこぼしたのは!あれほど気をつけろと言っただろう!」
普段なら恐怖政治よろしくすぐに背筋を伸ばす生徒たちも、今は背筋があるかどうかも怪しい。天井を突き破っているキリンなど、身動きすら取れず恨めしくこちらを見下ろしている。
(拙者は……、拙者はネズミ……?)
床を這うようにちまちま動く手足とひくひく動く鼻。具体的な種類は鏡を見なければ分からないが、この四足歩行。間違いない。
(いや確かに拙者日頃から暗くて陰気な場所がお似合いだって逆イキりしてますけど、リアルでドブネズミにすることなくない……!?)
パニック状態で暴れるクラスメイトもといダチョウやらパンダやらを避けながら、イデアは走っても走っても数十センチしか進まない体で実験室から逃げた。実験前にクルーウェルがどんなに調合に失敗しても効果は夜0時までだ、安心しろと言っていた。
つまり日付が変わるまで自室に引きこもっていればいいのだ
(ううっ……。たまに授業に出てみればこの仕打ち。こんな手……前足?じゃタブレットも使えないし、喋れないから音声認証も使えないし)
オルトを呼べればすぐにでも寮に戻れるだろうが、今はきっと授業中だ。せっかく一人の生徒として編入できたのだから、こんなこと――いやだいぶ事件だけど――で邪魔をしたくはない。
(……兄ちゃんも頑張るからな)
そう思いながら小さな体で廊下を逆走するイデアであったが、人間の姿のときでさえこの学園広すぎんか?とぶつくさ文句を言っているくらいなのに、ネズミ姿の今、鏡舎に辿り着くのでさえ体感としては普段の何百倍もの距離がある。
そしてようやく鏡舎に着いても、各寮への入口となる鏡の前には階段があるのだ。
(し、死ぬ……。ちょっと休もう……)
へあへあと息の上がったイデアは、鏡舎のホールで崩れ落ちるようにして倒れ込んだ。今は階段まで登る気力はないし、イグニハイドの寮生が通りがかったら拾ってもらえばいい。
はあ、厄日だった、と人間の姿であれば膝を抱えるように体を丸めたところで、イデアは厄日が一回の厄で済むわけがないとようやく気がついた。
ブオンと鏡の表面が揺れる音がして、虫取り網を持った生徒がハートと王冠の彫刻が彫られた鏡から現れる。生徒はイデアを見ると、いたぞ!と声を上げた。
「よかった!これで寮長に首を刎ねられずに済む!」
疲れ果てて簡単に虫取り網に捕まったイデアは、再びハーツラビュル寮の鏡に向かうその生徒に必死に違うでござる!そっちじゃないでござる!とアピールしようとピイイ!ピイイ!と鳴いたが、悲しいかな種族の違いは互いに理解できない運命(さだめ)。
(う、うううこんなドブネズミをあのカラフルでパリピ揃いのハーツラビュル寮に連れて行ったところで『うわっきったね~ネズミ、草』って笑われるのがオチなのになんで……、って、んん?)
虫取り網に絡まった小さな体が鏡面を通る瞬間だった。イデアは初めて鏡に映る今の自分の姿を見た。
四足歩行の短い手足に細い鼻は想像通りだが、想像よりずんぐりむっくりした体には明らかにただのネズミにはついていないものがある。
(あ~~~~、なるほど)
と、イデアは自分が卑屈のあまり早とちりしていたことに手……ではなく前足を叩いた。
(拙者、ハリネズミだわ)
そうしてトゲだらけの青い体はブオンと鏡に呑まれていった。
***
この学園に三年も通ったところで、自分のように恋人がいない歴イコール年齢どころかそもそも友達がいない歴イコール年齢の陰キャオタクが他寮に外泊なんてするわけがなく、初めて足を踏み入れた――正確には連れてこられただが――ハーツラビュル寮に、イデアは空気を吸うだけでSAN値が減る思いであった。
イグニハイド寮とは真逆と言いたくなる赤と白を基調とした城塞のような外観に、ハート型に剪定された薔薇の植木。
ここが陽キャの生産地……と思いながら、とにかく逃げるタイミングを伺っていたイデアであったが、虫取り網から出してもらえたと思ったら次は広い芝生の上に転がされた。
「いや~、明日のクロッケー大会の練習をしたかったのに、ハリネズミが一匹足りなかったから焦ったよ。寮長にバレたら大変なことになるところだった」
芝生にはイデアの他にピンクやらグリーンやらやたらカラフルなハリネズミとフラミンゴがおり、数人の生徒が同じ色の組み合わせを抱えて並んでいる。クロッケー大会の練習でハリネズミとフラミンゴ?と思ったのも束の間、あろうことか一歩前に出た生徒がフラミンゴの足を持ってくちばしでハリネズミを打ち飛ばしているではないか。
(ハア!?動物愛護団体もびっくりなんですけどハーツラビュル寮マッドすぎん!?)
まず一匹目のハリネズミがトランプでできたフープの間を転がると、次の生徒が二匹目のハリネズミを打つ。すぐにイデアを捕まえた生徒の順番になり、体を丸めるよういたいけな尻を叩かれた。
もはやどうすることもできず、ピェ……と震えていると、青いフラミンゴを振りかざされた瞬間に「ちょっと待って。その子、うちの子じゃなくない?」と生徒を呼び止める声がした。
逆光が後光に見えて、人間の姿だったら女神か?と拝んでいたところだった。芝生まみれのイデアを拾い上げたのは、意外な人物だった。
(ケ、ケ、ケイト氏~~~!!)
ワッと涙を流しながら、イデアは同じクラスのパーリーピーポーことケイトの指にしがみついた。普段は着崩した制服にリング型のピアスがチャラすぎて見かけるたびに廊下の端まで逃げていたが、今は春をもたらす冥界の王の伴侶のように輝いて見える。
「ほら、よく見るといつもの青い子より水色っぽくない?目の色もうちの子と違って金色だし」
手のひらにすっぽりと収まるイデアを眺めるケイトの瞳は、イデアが思っていたよりも鮮やかなリーフグリーンだった。絡まれるのが嫌で顔を見ないようにしていたからか、ケイトが垂れ目であることも八重歯があることも初めて知った。
ポムフィオーレ寮長のヴィルやサバナクロー寮長のレオナのように圧のある美形ではないが、イグニハイド寮御用達の掲示板でときおりスレッドを見るくらいには、確かに綺麗な顔をしている。
「ごめんね、怖かったよね。君、どこから来たの?オレが送ってあげるよ?」
クロッケー大会の練習をしていたのは下級生だったらしく、ケイトの「この子、オレが預かるね」というウインクに反対する者はいなかった。イデアも普段なら燃える頭をブンブンと横に振って拒否したであろうが、ハリネズミになった今、慣れた様子でイデアを撫でるケイトの手がやたら心地よく感じる。
ケイトからはどこか薔薇の匂いがして、これが自分だったらイグニハイド寮生に「あ、寮長!トイレの芳香剤変えたんですか?」なんて悪意のない悪意を言われるに決まっているのに、このクラスメイトだと違和感がなかった。
「君、鏡舎から来たんだ。うちの寮以外でハリネズミ飼ってるって聞かないから、個人で飼ってるのかな~。あっ、でもここノミがいる。芝生もまだついてるし……、そうだ、オレの部屋でお風呂入ろっか」
へそ天で腹の柔らかいところをくにくにと触られていたイデアは、その言葉にファッ!?風呂!?と我に返ったが、ハリネズミの体では尻が重すぎてまったく起き上がれなかった。
「お風呂嫌い?大丈夫、けーくんが体のすみずみまで綺麗にしてあげるからね~」
オレ、ハリネズミちゃんたちお風呂に入れるの得意なんだよ、なーんてプロフィールにも書けなさそうなことを自慢するケイトは、クラスでパリピ集団に囲まれているときのへらへらした愛想笑いと違い、心底楽しそうであった。
ハアー!普段からそういう顔をしていてくだされ!と半ばヤケになりながら、喋る絵画が並ぶ廊下の奥にあるケイトの部屋に連れてこられたイデアは、そこでもDKの部屋に天蓋付きベッドってどういうこと!?拙者の実家の被検体用並に簡素なイグニハイド寮のベッド見習ってくれません!?と叫びたくなるほどの豪華な寮室に、背中の針からうっすらと炎を出した。
えっ、ハリネズミになったときくらいこの呪いから解放してくれません?
(ハーツラビュル寮こっわ……。拙者が何人いてもツッコミが足りませんわ……)
そういえば鼻歌を歌いながらイデアをハリネズミ用の小さな浮輪に乗せるこのクラスメイトは、自分の分身を作るユニーク魔法を持っていた。日常生活では一ミリも役に立たない自分のユニーク魔法と比べると、自分の代わりに授業に出てもらうこともできるし、ソシャゲの周回もやってもらえるし、がけものプレミアムチケットの購入も手伝ってもらえるし、羨ましいことこの上ない。
そう考えているうちにケイトが魔法で出したお湯の中で、イデアは真夏のビーチにいる陽キャよろしく浮き輪でぷかぷか浮いていた。気持ちいい?とブラシで針についていた芝生を落とすケイトは、間近で見ると血色のいいふっくらとした唇をしていて、陰キャかつオタクかつDTという三重苦の自分には眩しすぎると思った矢先、い、で、あ、く、ん、とその形のいい唇が動く。ドッと滝のように汗が流れた。
「ピ、エ……?」
「――に、似てるよね君って。あ、イデアくんってね、オレのクラスメイトなんだけど」
ブラシの手を止めないまま、ケイトが話を続けた。
「君と同じ青い髪と金色の目をしてて、すっごくかっこいいんだ~。オレ、イデアくんと仲良くなりたいんだけど、嫌われてるみたいでさあ。ちょっと手を振るだけですごい勢いで逃げられるんだよね」
分かりやすく眉尻を下げたケイトに、拙者パリピ耐性ゼロなんで……と言いかけ――いやハリネズミの今、鳴き声しか出せないが――たところで、え?今ケイト氏なんて言った?と聞き慣れない言葉に思わず浮き輪からずり落ちそうになった。
(かっこいい……?)
誰が?とぽかんとしていると、ケイトがおかしそうにリーフグリーンの瞳を細めた。
「ねえ、イデアくん似のハリネズミちゃん。イデアくんはオレと話したくないみたいだから、代わりにオレがどれだけイデアくんのこと好きか聞いてくれない?後で美味しいクッキーあげるから」
す?き?と生まれてこのかた、そして今後の人生でも一生縁がないであろう言葉を言われて、イデアはとうとう異端の天才とまで称される頭脳をショートさせた。頭に大量のはてなを浮かべている間にケイトはブラッシングを終えて、イデアを浮き輪から自分の膝に移動させる。
風呂上がりの濡れた髪――今は針だが――を太ももで挟むようにしてタオルで拭かれ、先に思考を飛ばしていなければ意識を飛ばすところであった。顔を上げるだけでケイトと目が合い、もはや自分に都合のいいギャルゲーのVRでも見ているような気分である。
入学式のときからイデアが気になっていたこと、3年で同じクラスになれて嬉しかったこと、花嫁ゴーストに攫われたときのタキシード姿がかっこよかったこと、それからそれからと水滴を拭き取りながら饒舌に話すケイトに、いやそれは忘れて!とところどころ鳴き声を上げてみたが、クラス一の陰キャにクラス一の陽キャの口を塞ぐことなど人間の姿であっても無理だ。
だからいつも逃げているというのに。
(はあ、ケイト氏もせめて黙っていれば……。ん?黙っていれば……?)
ふと気づいてはいけないことに気づきそうになって、パーカーで頭を隠すように首の後ろの針を立ててしまった。その拍子に「痛っ」と声が聞こえて、慌ててケイトを見上げると指の腹から血が出ていた。
「ピャッ……!?」
「あっごめんね?嫌なとこ触っちゃった?」
「ピ、ピェ……!ビエ……!」
「そんなに泣かなくても大丈夫だよ~。変なとこ触っちゃったオレが悪いし、舐めとけば治るし」
いや今のは完全に拙者が悪いと言いますか別に触られてたのが嫌だったわけではなくそれはむしろ気持ちよかったと言いますか拙者が恋愛ゲームでしか恋愛経験のない陰キャネズミのせいでクラスはおろか学年でも人気者のケイト氏をキズモノにするとかもはや死んで詫びるしかないと言いますか……!とザッと青ざめながらビイビイ叫んでいる間に、ケイトは「はい終わり!いい子にしてたね~!」と針を拭き終わり、うりうりと額を撫で回した後、ちゅっと鼻の先にキスをする。
(…………はへ?)
あまりにも自然な流れにイデアはぱち、ぱち、と大きく瞬きをすると、ちゅっ?ちゅって何の擬音語でしたっけ?と首を横に傾げた。それをどう受け取ったのか、ケイトは「なになに、もう一回してほしいの?」と楽しそうに笑い、イデアの血色の悪いそれとは違う唇をもう一度寄せる。
ちゅっとリップ音がケイトの部屋に響き、あっそうですよね、キスの音ですよね、と分かった瞬間、さっきまで失せていた血の気が沸騰したように熱くなった。
(き、きききききす!?キス!!?)
ボッと頭の上でピンクの炎が弾け、針だけでなく顔まで火を噴いているかのようだった。ピンクになった、可愛い~!とケイトの声が聞こえた気がしたが、イデアの頭の中はウイルスに汚染されたパソコンのようにエラーが出まくっている。
「きゅう……」
もうだめ、と思ったときには、目の前がぐるぐると回ってケイトの手の中でぶっ倒れていた。キャパシティオーバーというやつだった。
***
「……ありゃ、やりすぎちゃったかな」
ケイトは目を回して気絶しているハリネズミを見下ろしてそう呟いた。さっきまで青かった針は、今やピンクに染まってふわふわと揺らめいている。
「まさかうちのクラスがこんなことになってるとはね~。教えてくれてありがと、オレくん」
先ほどイデアの針が刺さって血豆ができた指をパチンと鳴らすと、光が集まるようにしてオレンジ色のロップイヤーが落ちてくる。ウサギはケイトの肩に飛び移ると、頬に額を寄せてほんとびっくりだよね~とケイトと同じ声で脳に話しかけてきた。
イデアは気づかなかったようだが、魔法薬学の授業でクラス全員が動物になってしまった中でケイトだけが無事だったのには理由があった。単純にケイト本人は授業をサボっており、代わりにユニーク魔法で出した分身が出席していたからだ。
おかげで分身も釜から吹きこぼれた変身薬に巻き込まれ、見ての通り可愛い耳垂れウサギになってしまったが、あーあ、イデアくんともっと仲良くなりたいなあ、とよくベッドでこぼしているケイトのために、イデアのボーダーTシャツの下から出てきた青いハリネズミを見て、オレくんオレくん!と今のように脳内に呼びかけたのだ。
――かくかくしかじかでクラス全員動物になっちゃったんだけど、イデアくんが外に出て行った!たぶん寮に戻るんだと思う!
分身はそのままカードに戻ったが、ケイト本人は分身の見たものを共有できるため、イデアくんハリネズミになっちゃったんだ、可愛い~とにやけながら枕にしていた薔薇の木から立ち上がった。後はどうイデアを拉致……じゃない捕まえ……でもない保護してあげるかだ。
「そういえば後輩ちゃんたち、明日のクロッケー大会の練習するって言ってたっけ。じゃあハリネズミちゃん必要だよねえ」
普段は頼れる先輩を演じているケイトも、実際のところ問題児ばかりが集まるこの学園に三年も通う生徒の一人である。必要であれば容赦なく相手につけ込む薄情さも持ち併せているため、後輩たちがクロッケーの道具を取りに来る前にイデアと同じ青色のハリネズミが入っているゲージを開け、「ハリネズミがいない!?寮長に首を刎ねられるぞ!!」と騒ぐ後輩たちにあっちで見かけたよと鏡舎の方を指さした。後は見事に捕まったイデアをいかにもなタイミングで助けるだけだった。
「イデアくん、これで少しはオレのこと意識してくれたかなあ」
ちゅーまでしといて?ちゅーは鼻だけだよとロップイヤーの分身と話しながら、ケイトはうーんうーんと魘されるイデアを見下ろした。薬の効果が解ける0時までには起こさなければならないが、来年も同じクラスになれるとは限らないし、そもそも四年生になればインターンでお互いが学園内にいること自体珍しくなる。
たとえ最後にプロムで相手をしてもらえたとしても、ケイトが灰かぶりのお姫さまになれることはない。すでに顔を合わせるだけで逃げられているのに、今さら一夜のダンスホールで好きになってもらえるなどあまりに都合がいい。
なら、今のうちに恋の戦をしかけるだけだ。
「やっぱりオレはさあ、お姫さまなんて柄じゃないんだよ。けーくんのけーはキングのK。ダイヤのキングの名にかけて、欲しいと思った相手は本気を出してでも手に入れなきゃ」
オレくんこわーいと言うわりに、垂れた耳が嬉しそうにぴこぴこ動いていた。トランプ兵はトライアンフ(勝利)をもたらす者。かつてこの寮のクイーンとしてこの言葉を言い放ったことがある。そして今は自分への鼓舞だ。
(覚悟してよね、イデアくん)
年中目の下にクマのある男だからか、一度寝入ってしまえばケイトが分身と話していようがぐっすりと眠っている。
今のうちに口にキスしていいかな。ハリネズミの口にキスって難しくない?だよね~。とくだらない会話を続けながら、ケイトは時計の針が0時に近づくまでイデアの寝顔を見守った。
***
ハッア~~~~。
昨日は散々だった、と疲れ果てたメンタルに対してつやつやになってしまった肌で、イデアは三年B組の教室に向かっていた。四足歩行で走り回っていたせいか両腕両足がバッキバキに筋肉痛になっているが、それでも昨日実験室で脱げたまま放置していた白衣とパンツは取りに行かなければならなかった。
昨夜、「ねえ、ハリネズミちゃん。そろそろ起きないとまずいんじゃない?」とケイトに頬をつつかれたのが日付が変わる十分前。イデアがケイトのベッドでぐっすり眠っている間に着替えていたケイトは、イデアと同じボーダー柄の部屋着ではあったが、ふわふわもこもこの生地がかわ……いやいやパリピにお似合いの狙ったかのようなあざとさだった。時計の針と己のちんまりした手足とケイトのリーフグリーンの瞳を見て3秒考えた後、つまりあと10分で人間に戻れると、とうんうん頷き、そのまま胸中で叫んだ。
つまりこのままだとケイト氏の前で全裸になるのでは!?
いやハリネズミの時点で全裸なんですけどこんな可愛いハリネズミから全裸の陰キャが生まれるのはさすがに地獄でしょ!?と今日何回上下したか分からない血の気を引かせながら、イデアはケイトにピイピイ訴えた。
するとケイトはイデアを頭に乗せ、しっかり掴まっててね、と魔法で箒を出したのだ。
「大丈夫、10分あれば間に合うから」
普段どれだけ本気を出していないかがありありと分かるスピードだった。ケイトは乱暴に窓を開けると、トンと軽く窓のふちを蹴るだけでマジカルホイール並のスピードを出してハーツラビュル寮の夜を飛んだ。
「今日は楽しかったねー!」
そう満天の星に叫ぶケイトに少しだけ悪くないと思えたのは、冥界の王に倣い地下に造られているイグニハイド寮では決して見ることのない星空を見ることができたからで、こんな一日でケイトに特別な感情を抱いたからではない。
(……)
それからスピードを落とすことなくハーツラビュル寮の鏡を越えた後、どこの寮?あ、イグニハイドなんだー!とイグニハイド寮の鏡まで突っ切ったケイトは、通りすがりの寮生に強風に煽られまくって丸まっていたイデアを預けると、「うちは0時までに帰らなきゃだからここでお別れねー!」と叫びながら再びイグニハイド寮の鏡を抜けていった。
突然他寮、しかも学園でも有名な陽キャに絡まれて固まっていた寮生に同情したのも束の間、寮生のスマートウォッチが0時を告げた瞬間イデアも人間に戻った。もちろん全裸だ。秒で『陽キャにハリネズミを渡されたと思ったらうちの寮長(生まれたままの姿)だった件』とスレが立った。
(昨日はオルトもオンボロ寮で枕投げ大会だったとは……、どうりで部屋にいないと思った……。いやでもオルトももう立派なこの学園の生徒だしオールで遊ぶ友達がいるのも兄として嬉しくないわけがないしハリネズミにされたってフラミンゴで打ち飛ばされそうになったこと以外は大したことなかったしちょっとクラスのパリピに体洗われてこっ告白されて、ききき、キスされた……だけだし……)
ふにっと鼻に触れたケイトの唇の柔らかさを思い出して、悶々としながら教室の扉を開けていると、昨日散々間近で聞いた声で「イーデアくん、おはよ!」と背中を叩かれた。
底抜けに明るくて甘ったるくて、そのくせどこか作っているような。
ケイトだ。
「ヒッ……!ケ、ケケ、ケイト氏……!あ、あぅ……、う……、お……おは……」
「あれ、イデアくん今日はオレから逃げないんだ~。いいの?絡んじゃうよ、オレ?」
「ヒエッそれは勘弁……!ていうかすでに絡まれてるんですけど……!」
「だって朝からイデアくんに会えるなんて超ラッキーじゃん!」
昨日からイデアの血の気と感情がどれほどジェットコースターだったかも知らず、八重歯を見せてイデアを見上げるケイトに、ぐっ、かわ……、いやいやいや!と頭を振り乱していると、教科書を持つケイトの指に絆創膏が貼られていることに気がついた。
間違いなく、昨日ハリネズミ状態のイデアが刺してしまったあの傷だ。
「あ、あ、あの……、ケイト氏、その傷……」
「ああ、これ?昨日ちょっとね」
「そっそれくらい、魔法で治せば……」
「あはは、昨日はちょっとブロットが溜まりすぎてて。痛くないからいっかなって」
そう言うケイトのマジカルペンは、確かに朝だと言うのに真紅の魔法石が汚れている。もともとブロットが溜まらない体質であるイデアは気にしたことがなかったが、それでも授業で使う程度の魔法なら一晩で元に戻るはずだ。
つまり、ケイトは普段からブロットを溜め込むほど魔法を使っているということである。
(……)
小さな刺し傷とはいえケイトの怪我の責任は自分にあるし、ハーツラビュル寮の寮長と副寮長にバレたら首を刎ねられるどころの騒ぎではないだろう。寮同士で全面戦争になったら100%負ける気しかしない。
ハア~~~~、と昨日から何度目になるか分からない長いため息をついた後、イデアは「……恥ずかしいから、目、瞑っててくれない?」と言ってケイトの手を取った。絆創膏が貼られている指先にふっと息をふきかけると、あれ?とケイトが声を上げる。
「……痛くない」
「ファッ!?痛かったの!?拙者殺されるじゃん!!」
「え?」
「アッ、いえ……何でもありません……。というかケイト氏、見てたでしょ……」
昔からゲームソフトの接触が悪いと息をふきかけて直していたイデアは、魔法の力はイマジネーションの強さという言葉の通り、息をふきかけたらゲームができる!という幼い自分のイマジネーションのもと、いつの間にか魔法の発現に置き換わっていたのだ。幼いころなら多少の愛らしさもあっただろうが、今やどこに出しても恥ずかしい立派な陰キャオタクで、こんなキザったらしい魔法を使うなど痛すぎて仕方がない。
そんなイデアに対して、ケイトは頬に描かれたダイヤのスートも目立たなくなるほど顔を真っ赤にさせている。
――キスされるかと思った。
あまりに小さな声でそう呟いたケイトに、昨日は容赦なくキスしてきた側のくせにと思いながら「……拙者、そんな王子様ムーブできないんで」と言うと、さすが陽キャ様と言うべきかケイトはすぐにいつもの調子を取り戻して「リドルくんたちをいじめた所長代理様だもんね~」と、この学園の生徒なら一つは持っているいかにも悪巧みを考えていますという顔でイデアが半分だけ開けていた教室のドアをスパンと全開した。
始業前のクラスメイトの視線が集まる中、イデアが嫌な予感を感じる暇もない素早さでパーカーの胸元を掴む。
「でも、王子様じゃなくてもキスはできるでしょ?」
ぐっと引き寄せられた瞬間、昨日と同じようにケイトから薔薇の匂いがした。勢い余ってカチッと歯と歯がぶつかる音がしたが、それが逆に生々しく、イデアは目を見開いてケイトの睫毛を見下ろした。
昨日の触れるだけのそれとは違う半開きの唇を吸われる感触に、全身が固まる。
「…………はい?」
背伸びでもしていたのかスニーカーの踵の音が聞こえて、ようやくケイトが離れていった。と同時に予鈴のチャイムが鳴り、普段ならかったり~という誰かの声とともに授業の準備が始まるのだが、クラスメイト全員に今の出来事を見られて呆然としているイデアに遅れること数秒。教室が昨日の動物園会場の方がマシとすら思えるほどの騒ぎになる。
――ヒューヒュー!
――おめでとう!
――シュラウド、ダイヤモンド、お幸せに!
えっえっ?と混乱しているイデアに、早く席につかないとトレイン先生に怒られるよ~!と、この騒ぎにした張本人がイデアの手を引く。教室の真ん中を通り過ぎようとしたとき、誰の魔法だかフラワーシャワーが降ってくる中でケイトが後ろを振り返り、「さっきのは宣戦布告だから覚悟してね」とウインクした。
「絶対にオレが勝つから」
こんな青白い男を映すにはもったいないリーフグリーンの瞳で、ケイトが笑った。オレンジの髪についた花びらが花冠のようだった。
もう負けてる、とすとんと落ちてくる感情で、イデアは思った。
――ハア~~~~、ケイト氏可愛すぎか。
それからケイトと付き合うまでの日数の早さは言いたくない。