無題春。緊急発進訓練の帰路、神田と栗原のF-4はエンジントラブルに見舞われた。神田の冷静な操縦と栗原の迅速な状況報告で、機体は無事帰還したが、着陸後、二人はコックピットでしばらく動けなかった。
「……生きてるな、俺たち」
神田が呟いた。
「ああ。神田がいたからな」
栗原の声は震えていた。
その夜、基地の宿舎で、栗原が神田の部屋を訪れた。無言で差し出された缶ビールを手に、神田は栗原を部屋に招き入れた。狭い部屋に、二人分の息遣いだけが響く。
「今日、もう駄目かと思った一瞬があった」
栗原がぽつりと言った。
「でも、お前の声聞いて、なんか安心したんだ」
神田はビールを一気に飲み干し、栗原を見た。
「お前、ほんと変な奴だな」
次の瞬間、神田の手が栗原の頬に触れた。栗原は驚いたように目を見開いたが、逃げなかった。神田の唇が、栗原の唇に重なった。刹那、時間が止まった。
「こんなの、駄目だよな……」
栗原が囁いた。だが、神田は首を振った。
「空の上じゃ、誰も俺たちを裁かないさ」
再度唇が重なり、二人は互いを抱き締めた。
それからの二人は、基地の片隅で、夜の闇で、ひそかに愛を育んだ。訓練中は相変わらず火花を散らし、隊員たちの前ではただの戦友だった。だが、コックピットの中、二人だけの世界では、互いの心が通い合った。
ある日、栗原が転属の話を耳にした。別の基地への異動。神田は無言でそれを聞いた。夜の滑走路脇で、栗原が言った。
「離れても、俺は忘れない。神田の操縦、俺のナビで、いつかまた一緒に飛ぼう」
神田は栗原の手を強く握った。
「約束だ。どこにいたって、俺はお前を見つける」
栗原が百里基地を去る日、神田は滑走路の端で見送った。F-4の轟音が遠ざかる中、神田は空を見上げると、そこには、二人で切り開いた蒼空が広がっていた。