スポットライトのないところスポットライトのないところ
夢にまで見たコンサートホール、ってな。自分の為に用意された舞台に、おれは心の置き場所を悩んでいた。
おれの為の箱がそこにあって、観客は全員おれの音楽を聴くためにいて、スポットライトがおれを照らす。黒々としたピアノが生き生きとして見える。
人差し指だけでぽんぽん叩いていた頃、短い手指を裂けるくらいに開いていた頃、ピアノが好きだったと思う。今はそれで食えるほどになった。一流のピアニスト。確かに幸運だった。ピアノが好きで、それよりもピアノの方が、音楽の方がおれを好きだった。病的に。そういうものが、おれをこの場まで押し上げた。
黒革の靴がコツコツと鳴る。さざ波のようだった観客のざわめきが消える。スポットライトの下でする礼に、つられたような拍手が起こる。分かんのかよ、おまえらに。音楽に呪われているやつの気持ちが。
ピアノの前に座ると、心は一層ぐちゃぐちゃになる。あー今何弾いてんだっけ。心を尽くすのだ君の心が燃え愛をはぐくみ愛を携えるように/おまえが投げたこの花を俺は牢の中でも手放さなかった――うわ、愛の曲ばっかり。いつの間にかお客様の為のセットリストを作っていたらしい。
つまんねえ/楽しい/なんでピアノなんか/もっと弾きたい。
見てるか。
――さん。あんたに追いついてやったよ。
スポットライトとタキシードの組み合わせって最悪だな、と滴る汗に思わされた。Tシャツでいいだろ。もっと弾きやすい方が良い。着る物で音楽が変わるなら、タキシードにピアノ弾いてもらえよ。……でも着ぐるみで弾くのは無理か。そう考えて、ふっと笑いが漏れる。楽しくなってきた。
しかし、時間切れだ。弾くのをやめると、一瞬の静寂の後にわ! と拍手が起こる。いつも楽しくなってきた頃に終わるんだよなあ。椅子から立ち上がって再び礼。いくらか客と関係者向けに喋って、舞台は終わり。あとは着替えたらさっさと帰る、という前に主催側の男に捉まった。
「素晴らしかったよ!」
「……どーも」
自分の顔が歪むのが分かる。人間としては普通だが、やたらと世話を焼きたがるというか、馴れ馴れしいのだ。知らない仲ではないし、彼がそうしたがる理由も分かる。だからこそ距離を置きたい人間というのがいる。
「君はかっこいいから、客席には若いお嬢さん方も多くて……」
それだけで来るほど暇じゃねえだろ、と思ったが時々来るファンレターには美醜について触れるものも多かったため閉口する。あとは満足するまでなにかあったら私に頼るんだよというのを言葉を変えて何度も何度も繰り返したあと、
「本当に、――の生き写しのようだね」
と父親の名前を出した。
「……ははっ、そうですかね」
死んだ父親は有名な音楽家だった。満員のホールでギラギラとしたスポットライトが父親だけを照らしている。客はうっとりと目を閉じて旋律に聞き入り、鳴り止んだ途端弾かれたようにスタンディング・オベーション。コンサートホールは彼のためにあって、観客すらも彼のための音楽だった。ピアノは父親を愛していて、父親もそれに応えていた。相思相愛。そして、そのまま心中だ。
「嬉しいです」
おれは音楽をやめた。
どんどん来る依頼の山を、蹴って、蹴って、姿を消した。病死した天才ピアニスト――の息子、行方不明。面白おかしく脚色されたニュースを肴に酒を飲んだ。金に困ったら臓器も顔も名前も売ってやろうと思ってたのにそんなに不幸にもなれなかった。
ピアノ以外のことが出来た。工場で働くとか、ボウリングをしてみるとか。何かが人並みに出来なくて困る、みたいなことがなかった。狭いワンルームにピアノだけあってその下で眠る、みたいな生活をすることもなかった。黒い塊のことだけ考える時間がなくなって、自由になって、机を弾く癖が抜けないことに気づいた。
ニュースからおれが消えても、世界から音楽は消えない。テレビ。カフェ。横断歩道。スーパー。コンビニ。どこにいても追ってくる。そんなにおれが憎いのか。
ある日入った喫茶店に、一台のピアノが置いてあった。いつもならその時点で引き返すが、今日はそんな気分にもならなかった。ピアノの前には子供がいて、短い指でぽんぽんと鍵盤をたたいていた。
「ああ、ほら。お客さんが来た。ピアノはもう終わりね」
「やだ、もっとやる!」
母親だろう女のいうことに首を振ってピアノにしがみつく。ジャーンとかバーンとか、何とも言えない音が響いて思わず吹き出す。女は顔を赤くして、「ね、もう帰ろう?」と子供に声をかけていた。店主らしき初老の男はにこにこして「いらっしゃいませ」と言うだけだった。
他に客は見当たらない。手前の席には空の皿。大方、暇を持て余した子供が置物になっていたピアノに目を付けたのだろうが、ピアノを習っているような様子はないから、新しいおもちゃに夢中になっている、と。小学校にあがったくらいの子供だろうか。自由に育っているらしい。
「あ、お兄ちゃんがいいよっていったらいいよね?」
「あ?」
「お兄ちゃん、ピアノひいててもいい?」
「弾けてねえだろ」
やべ。少し焦るが、子供に響いてはいないようだった。首を傾げて、また鍵盤を押す。ぼーん。
「おと、なってるよ?」
その様子が、なにかに触れた気がした。
「……そうだな」
そう返して、店主に向き直る。
「すみません。珈琲ひとつ。ホット。ブラックで」
「はいブレンドは」
「任せる。あと、ピアノ借りてもいいですか」
「構いません」
「おい。隣いいか。あー……いいですか?」
子供に話しかけてから、母親の方に声をかける。「あ、はい、ええ……」分かっているのか、分かっていないのか、ぼんやりしたまま肯定が返ってくる。ちゃんと聞いたからなおれは。
「ここおすわりしたいの?」
「そうだ。なに弾いてほしい」
「ピアノひけるの?!」
「そうだよ」
ぽーん、と鳴らして見せる。ほらな、と言えば「それじゃようちえんの先生よりヘタ」と言われる。こいついい度胸してんな。仕方ないからちゃんと座って、子犬のワルツを少し弾いて見せると目をきらきらさせて「すごいすごい!」とはしゃいだ。
「じゃあね……あ、ねこふんじゃった!ひける?」
「目ぇ瞑っても弾ける」
「うそだー!」
咎めるような音はなく、けらけらと楽しげだ。言った通りに目を閉じて弾いてやれば「ほんとうはあけてるんじゃないの……?」と神妙に言われる。いいなあ怖いもの知らず。おれ別に優しい見た目はしてねえと思うんだが。
つぎはチューリップ! それ本当に弾かせたいか? などとやりとりしてるうちに、注文した品が出てきた。
「……もう終わりだ。弾いててもいいがケガすんなよ」
「うん、ありがとう! お兄ちゃんピアノすきなんだね」
上手だねとかじゃねえんだ、と思いながらピアノの前を離れる。子供も満足したのか母親の手をとって店の外に出て行った。ばいばーい、と手を振る子供に手を振り返しながら珈琲の前に座る。店主にお上手なんですね、と言われて曖昧に頷きながら、黒々とした珈琲に浮かぶ自分の顔を見た。ここ数年で一番マシな顔をしていた。
ピアノすきなんだね。
「…………うん、」
そうかも。